2019年07月21日

2019年7月28日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「モーセの召命」
聖書:出エジプト記3章1節〜12節
※礼拝後、絵本の読み聞かせの時があります。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。
※8月は休会です。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「ヨハネの証し」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書1章19節〜28節
※礼拝後、コーヒーブレイクがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:51| 日記

2019年7月21日 主日礼拝説教「罪人を招くために」須賀 工牧師

聖書 マルコによる福音書2章13節〜17節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書2章13節から17節の御言葉であります。13節から14節の御言葉をお読みします。「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
 徴税人レビが、主イエス・キリストの弟子になるお話です。レビは、徴税人でした。徴税人は、当時、罪人と同じ扱いを受けていました。なぜでしょうか。それは、徴税人が、当時の支配国であったローマに雇われて、ローマの為に税金を集めていたからであります。その意味で、イスラエルの人々にとって、徴税人は、自分の国を裏切り、神様に背を向けた人々であったわけであります。
 つまり、そのような「罪人」と呼ばれ、「差別」され、「軽蔑」されたような、正に、見捨てられた立場のレビが、主イエス・キリストの弟子になったのであります。
 それでは、どうして、レビは、主イエス・キリストの弟子になれたのでしょうか。レビが、一生懸命に願ったからでしょうか。それとも、真面目な生徒のように、最前列で、主イエス・キリストの教えを聞いていたからでしょうか。
 恐らく、それは違うでありましょう。聖書を読む限り、レビは、主イエス・キリストの教えには、あまり関心がなかったようであります。イエスの教えに耳を傾ける群衆の中にはいないからであります。その意味で、主イエスとの出会いを望んだザアカイとは違うタイプの徴税人であったと言えるかもしれません。
 それでは、どうして、レビは、主イエス・キリストの弟子になれたのでしょうか。それは、主イエス・キリストが、レビを見つめてくださり、主イエス・キリストが、声を掛けてくださったからであります。つまり、主イエス・キリストの弟子になるための条件はないということであります。あくまでも、主イエス・キリストが見つめてくださり、声を掛けてくださったからであります。
 それは言い方を変えるならば、主イエス・キリストが、このレビという存在に、価値を生み出してくださった、ということであります。恐らく、レビを見てくれる人など、今までいなかっただろうと思います。見られたとしても、軽蔑の目で見られていたかもしれません。恐らく、声を掛けてくれる人もいなかっただろうと思います。声を掛けられたとしても、軽蔑の言葉を掛けられていたかもしれません。
 しかし、そのような悲惨な現実の中で、主イエス・キリストは、このレビに価値を生み出し、価値あるものとして、レビを見つめ、そして、声を掛けてくださるのであります。
 価値を生み出してくださるということが大切なのです。価値のなかった存在に、「あなたには価値がある」と認めてくださる。「あなたが必要だ」と声を掛けてくださる。ここに、主イエス・キリストの憐れみがあるのです。つまり、主イエス・キリストの弟子になれるのは、人間の条件ではなく、ただただ、主イエス・キリストの深い憐れみによるものなのであります。
 レビは、何も言わずに、「立ち上がって従い」ます。なぜ、立ち上がることが出来たのでしょうか。私達は、その時のレビの思いを知りたいと願うかもしれません。でも、本当は、知る必要のないことなのです。だから、聖書にも、書かれていないのです。
 なぜ、レビが立ち上がることができたのか。それを知るということは、結局は、立ち上がるための理由や目的や条件を知ろうとしていることでもあるのです。大事なことは、主イエス・キリストが、レビに価値を生み出し、レビを見つめ、レビに声を掛けてくださった。その無条件の恵みの中で、レビが立ちあげられていったということなのだろうと思うのであります。聖書が、ここで何も語らないのは、本当に大切な部分に光を当てるためなのかもしれません。
 私達もまた、レビと同じであります。神様の目には何も価値のない私達が、こうして、キリストのものとされ、神様のものとされ、主の弟子とされているのはなぜでしょうか。それは、主イエス・キリストが、あなたに価値を生み出し、あなたを見つめてくださり、そして、あなたに声を掛けてくださったから。そこには、私達の行いも条件も、何もないのでありましょう。ただただ、キリストが、あなたに価値を生み出してくださった。ただただ、キリストが憐れんでくださった。その幸いを、改めて、ここから強く思い起こさせられていくのではないでしょうか。
 15節から17節をお読みします。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」
 主イエス・キリストの弟子になったレビ。彼は、主イエス・キリストを食事の席に招きます。そこには、多くの徴税人や罪人も同席していました。
 この様子に納得のいかない人もいました。それが、ファリサイ派の律法学者。彼らは、「区別する人」と呼ばれていました。正しいことと正しくないこと。聖と穢れ。彼らは、常に、区別をして生きてきました。
 彼らは、何が正しくて、何が正しくないかをよく知っていました。それ故に、彼らは正しくない人を裁き、正しい自分を誇り、場合によっては、人々の生活を支配することもありました。そうでありますから、このような人々にとって、罪人と交わりを持つ、主イエスと弟子たちの姿は、到底、受け入れられないものであっただろうと思います。
 実は、このような主イエスに対する疑惑や疑いこそが、次に、主イエスを殺したい、という感情に変化していくことになるのです。自分の正しさや誇りは、隣人を支配するだけではなく、神の御子すらも抹殺しようとする心を生み出していくのかもしれません。
 さて、主イエス・キリストは、律法学者たちに対して、次のように語ります。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 この主イエス・キリストの御言葉には、矛盾点を感じないでしょうか。レビが、主イエス・キリストを食事に招いているのです。しかし、ここでは、主イエス・キリストが、罪人を招くのだと言われています。
 レビは、ここで大切なことを知ったのだろうと思います。自分が、救い主を迎え入れたのではなく、実は、救い主が、自分を迎えてくださったのだと。自分が、救いを受け入れたのではなく、主イエス・キリストが、自分を受け入れてくださったから救われるのだと。 そして、これだけではありません。自分が、この家の主人であると思っていた。しかし、本当は、主イエス・キリストが、この私の主人になっているのだと。これが、主の弟子であるということなのだ。自分を支配しているのは、ローマでもなく、律法学者でもなく、自分自身でもなく、この主イエス・キリストが、愛をもって、この私の生活を支配していてくださる。その幸いを、レビは、ここで味わい知る者とされたのではないかと思うのであります。そして、それを知っていきられる所に、私達、主の弟子であることの幸いもあるのだと言えるのであります。
 私達は、主イエス・キリストの憐れみによって、見つめられ、声を掛けられ、価値を生み出していただき、主の弟子とされました。その弟子の人生とは、誰にも縛られることなく、何にも縛られることなく、ただ、主イエス・キリストの愛と憐れみの御支配の中を、日々生かされていくということなのでありましょう。
 主イエス・キリストの支配は、律法学者のような裁きを基準とした支配ではありません。ローマのような力ある支配でもありません。この御方は、私達の罪のために十字架に架かり、惜しみなく、命を渡される御方です。それほどまでに、私達に価値を生み出し、大切な存在として受け止めていてくださる御方であります。
 その御方が、あなたに価値を生み出し、必要とするために、今も、声をかけ続けてくださる。私達に、この憐れみの原点を指し示し、日々、その憐れみを確かにしてくださる。そして、私達の生活を憐れみや愛で満たしてくださる。主の弟子であることの真の幸いを改めて、ここで深く思い起こさせられるものなのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:47| 日記

2019年07月15日

2019年7月21日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「神に導かれたヨセフ」
聖書:創世記45章1節〜8節
※礼拝後、楽しく手話を学ぶ時があります。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「罪人を招くために」
聖書:マルコによる福音書2章13節〜17節
※礼拝後、五分の集い(青年の集い)があります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:44| 日記