2025年04月17日

2025年4月27日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖 書:ヨハネの黙示録22章12節〜21節
説 教:「アルファでありオメガである 主の再臨」

〇主日聖餐礼拝 10時30分〜 
聖 書:マタイによる福音書28章11節〜15節、箴言19章1節〜9節
説 教:「事実無根の話し」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:24| 日記

2025年4月17日 洗足日聖餐礼拝説教「封印され監視された墓」大坪信章牧師

 今日は、洗足木曜日礼拝です。この礼拝は、特に十字架前夜にイエスさまが、最後の晩餐の席上で、おもむろに12人の弟子たちの足を洗われた、あの洗足の物語を読むことが多いです。ただ今回は、礼拝で読み続けているマタイ福音書の十字架の道行きの物語の続きを読み進めて、イエスさまの復活の物語に繋げたいと思います。十字架の出来事は、先週の4月6日の礼拝で、説教題『十字架の祈り』のお話をしましたが、その続きです。イエスさまが十字架上で息を引き取られたあとのお話ですが、実際そこまで、つまり、墓に埋葬された出来事までを、じっくり十字架の道行きとして読み込むことは、教会でもあまりしないのかもしれません。余談ですが、洗足木曜日は、木曜日ですが、十字架前夜の夕方から金曜日は始まっているので、最後の晩餐や洗足は、金曜日に行なわれたことになります。その後ゲッセマネの園で祈られ、そこでユダの裏切りに遭われ、ユダヤ当局者たちに捕らえられ、夜通し裁判にかけられます。そして、午前9時に十字架に付けられ、午後3時に十字架上で、大声で叫び息を引き取られました。ですから、洗足木曜日から金曜日の午後3時までの出来事は、ユダヤで言うところの金曜日の出来事なのです。そして、実に今日の出来事の前半、イエスさまのご遺体を墓に埋葬する出来事も、その日の夕方までに急ぎ行なわれたので、まだ金曜日の内です。そして、今日の出来事の後半は、夕方以降、つまり、ユダヤでは、日付が変わった土曜日の出来事になります。ですから、最後の晩餐と洗足の物語は、クリスマス前夜のイヴの24日が、クリスマスの日の25日と同じ1日であるのと同じで、翌日の受難日の金曜日と、同じ1日の中で起こった出来事なのです。

 それでは、イエスさまが十字架上で息を引き取られた直後の物語を読み進めていきます。57節「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった」とあります。「夕方」それは、間もなく、金曜日の翌日である土曜日、ユダヤで言うところの安息日が始まろうとする直前のことです。その時「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人」が来ました。アリマタヤは、エルサレムの北西、イスラエルの領地で言えば、地図上の真ん中より下の辺りにある町です。アリマタヤと言えば、預言者サムエルが生まれた町として知られています。このヨセフが、どのような人だったのかは、「金持ち」の、イエスさまの「弟子」とマタイ福音書は伝えています。勿論12人の弟子の内の一人ではありません。12人の弟子たちの内のほとんどは、この時、十字架を恐れて逃げ隠れしていました。しかし、ヨセフは、イエスさまを慕い、十字架の現場まで従って来ていた婦人たちのように従って来ていました。ただ「金持ち」で、イエスさまの「弟子」というだけでは、中々ヨセフという人物に迫ることができません。このヨセフについては、聖書の中の4福音書すべてで紹介されています。マルコ福音書では15章43節「身分の高い議員」です。ルカ福音書では23章50節51節「同僚の決議や行動には同意しなかった」「議員」で「神の国を待ち望んでいた」「善良な正しい人」です。そして、ヨハネ福音書では19章38節「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」人でした。共通するのは「議員」です。これは、律法学者やファリサイ派や祭司で構成されている最高法院71人の内の1人だったということです。この最高法院は、徴税や裁判に関しても決定権を持つ機関でした。だから、ルカ福音書で「同僚の決議や行動には同意しなかった」とあるのは、イエスさまの死刑判決や、そのための行動には加担しなかったということです。とは言っても、ヨセフは、自分がイエスさまの弟子であると公言し、最高法院に真っ向から対立したわけでもありません。ヨセフは、自分がイエスさまの弟子だということを、同僚や同族に知られれば危害を加えられるという恐れを抱いていたので、そのことは「隠して」いました。

 だから、58節を見ると「この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」わけですが、決してピラトへの恐れが無かったわけではありません。マルコ福音書では「勇気を出して」ピラトのところに行っています。ヨセフは、12人の弟子たちが逃げ隠れていた状況や、夕方を過ぎれば安息日に入るので、イエスさまの遺体を十字架から動かせなくなる状況、晒されてしまう現実を憂えたのでしょう。しかし、それ以上に大きかったのは、ヨセフが「金持ち」だったということです。その「金持ち」という事実が直接、掛かっているのは、ヨセフが、60節「岩に掘った自分の新しい墓」を持っていたということです。12人の弟子たちは、漁師出身者のペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなど、決して裕福とは言えない人たちでした。だから、ヨセフは、自分の身の程を知っていたのです。ヨセフは、イエスさまに対して自分ができることは何かを考えたのです。今までは、同僚や同族を恐れ、隠れキリシタンのように生きていた。けれども、今こそ自分が必要とされているのではないか。自分にできること、自分の持っているもの、それは、真新しい墓をイエスさまのために提供すること。それによって、イエスさまの愛に応えたい。そういう気持ちでピラトのもとに行ったのでしょう。そこでピラトは、イエスさまの遺体をヨセフに「渡すようにと命じ」たので、59節60節「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った」のです。「立ち去った」ということは、本当に、この務めを担うために立てられた弟子だったということになります。その後61節「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」とあるので、婦人たちは、イエスさまが埋葬される場面を見ていました。夜通し見ていたということは無いでしょうから、これは、イエスさまの死と葬りの証人という婦人たちの立ち位置であったと言えます。

 こうして、場面は変わり、今度は、イエスさまが葬られた墓を巡る物語が展開していきます。62節「明くる日、すなわち、準備の日の翌日」のことです。「明くる日」「準備の日の翌日」というのは、金曜日の翌日なので、ユダヤでいうところの土曜日の安息日です。土曜日の安息日は、金曜日の夕方から始まっていますので、イエスさまが、墓に埋葬されたあと「祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって」こう言ったのです。63節64節「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」と。ユダヤ当局者たちは、同じ同僚だった議員のヨセフが、イエスさまの遺体を墓に葬るのを苦々しく見つめました。しかし、イエスさまの存在が埋葬によって、人の目からか見えなくなったことを、ほくそ笑んでいたのが分かります。というのは、もはや彼らは、イエスとは呼ばず「人を惑わすあの者」と言っているからです。名前=存在です。ただ、彼らは、イエスさまを目にしなくなっても、イエスさまの言葉は思い出したのです。それが「自分は三日後に復活する」という言葉でした。イエスさまは、常々「自分は十字架に架かって3日目に復活する」と弟子たちに予告しておられたからです。今、イエスさまは、アリマタヤのヨセフの墓に葬られ、日付が変わった土曜日の安息日の夕方から、夜、夜中を迎えようとしています。そこで誰もが考えることは、イエスさまの遺体を弟子たちが盗んで、3日目の日曜日に、弟子たちが、イエスさまは復活したと言い広めるということです。だから、3日目の日曜日まで「墓を見張るように」ピラトに願い出たのです。すると、ピラトは言いました。65節「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい」と。そこで、66節、ユダヤ当局者たちは「行って墓の石に封印をし、番兵をおいた」のです。「番兵」を置くだけではなく「封印」までしています。彼らにしてみれば、完全にイエスさまは、詰んだと思ったでしょう。しかし、彼らは、知らなかったのです。逆に、この事実が、イエスさまの完全な埋葬と、その完全な密室になった墓からの、3日目の復活という事実の確かな証拠となるということをです。

 このように、復活を信じない人々が、復活を否定するために、どれだけ、復活の可能性の芽を摘んだとしても、復活は、現実のこととして起こります。この場合、イエスさまのご遺体を弟子たちが盗んだ上で、弟子たちが復活を言い広めるという可能性の芽が摘まれました。でも、そんな復活は、初めから似非復活であって、逆に、そういう作り話の可能性が摘まれたのは良かったのです。だから、実際3日後のイエスさまの復活が現実となった時、ユダヤ当局者たちは、不正な手段、つまり、虚偽を言い広めることで、何とか辻褄を合わせようとしました。こうして、復活の事実は、益々確かなものとされたのです。考えても見てください。復活を否定して何が楽しいのでしょうか。復活を否定する意味が分かりません。そんなに人間は、失望して、絶望して、真っ暗な墓の中に納まって、その墓を封印までして、もう完全に出れなくなるほどに命というものを閉じ込めるのです。一体、何がしたいのでしょうか。それよりも、より良い未来を、より良い現実を望もうとしないのでしょうか。十字架と復活のイエスさまを信じるなら、その可能性が摘まれることはありません。誰が、この春に、命が豊かに満ち溢れる春に、植物などの若い芽を摘み取りますか。豊かな可能性を摘み取りますか。たとえ、摘み取っても、復活の命の勢いは誰にも止められません。次から次へと命が溢れ出す、この復活の喜びの春が、それを証明しています。イエス・キリストにあって、私たちの希望が絶たれることはありません。この希望を胸に、明日の十字架の時を心に留め、3日後の復活の朝を共に迎えたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:41| 日記

2025年04月13日

2025年4月13日 主日神の家族礼拝説教「十字架の主、十字架の王」大坪信章牧師

ヨハネによる福音書19章17節〜27節、歴代誌上18章14節〜17節   
「十字架の主、十字架の王」
 
 受難節レント四旬節の40日間も、いよいよ最後の1週間となりました。昨日が34日目だったので、あと6日です。それが、今日の日曜日から始まる受難週と呼ばれる1週間です。その受難週の始まる、この日曜日に、イエスさまは、エルサレムへ入城されました。そして、木曜日に最後の晩餐が行なわれ、金曜日に十字架に架かり、その日の内に墓に葬られます。それから金土日の3日後の日曜日に墓の中から復活されます。今日は、その金曜日の十字架のお話です。十字架のお話は、4つの場面に分かれています。この4つの場面は、イエスさまが、私たちにとって、どのような方なのかを教えてくれます。

 まず、第1場面は、イエスさまが十字架に架かるお話です。17節18節に、イエスさまは「自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』(されこうべの場所とは、どくろとか頭蓋骨の丘の処刑場)、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれ」ました。兵士たちは、そこでイエスさまを「十字架に」両手両足を太い釘で打ちつけて「ほかの二人(彼らは犯罪者たち)をも」イエスさまを「真ん中にして両側に、十字架につけ」ました。こうしてイエスさまは、2人の犯罪者に両隣を挟まれた真ん中の十字架につけられました。この場面で、何か気づきませんか。イエスさまは、重い十字架を無理やり負わせられたのではありません。イエスさまは「自ら十字架を背負い」と書いています。この福音書を書いたヨハネは、今日の第4場面にも出て来るイエスさまの十字架の下にいた弟子です。他の弟子たちは十字架を恐れて逃げました。イエスさまを間近で見ていたヨハネの目に映ったイエスさまの姿は、兵士たちに十字架を背負わされた姿ではなく、自ら十字架を背負った姿だったのです。

 「背負わされた」と「背負った」では、随分と意味が違ってきます。どうしてイエスさま、何の罪も犯していないのに、まるで、ご自分の十字架でもあるかのように、また、それを背負うことが使命や責任であるかのように、自ら十字架を背負われたのでしょうか。それは、イエスさまが主だからです。主とは、主人とか、あるじ、主将(キャプテン)や大将のことです。いわゆる、主力になる人や中心人物です。キャプテンは、自分のことよりチームや仲間のことを考えます。主であるイエスさまも、自分のためではなく、私たちを守るため、救うために命を懸けて十字架を背負われたのです。私たちは、弱くて愚かで助けが必要なので、イエスさまは、私たちの身代わりになって、私たちの十字架を自ら背負ってくださいました。私たちが重い十字架を背負って生きなくていいように、その苦しみと悲しみから救ってくださる主なのです。

 次に第2場面は、十字架の上に罪状書きを書いた掛札が掲げられたというお話です。19節、ローマ総督の「ピラトは罪状書きを書いて」それを掛札のようにして「十字架の上に掛け」ました。罪状書きには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてありました。普通、罪状書きには、どんな悪いことをしたのか、が書いてありました。例えば、物を盗んだ、人を傷つけた、人を殺めたという具体的な事実です。でも、イエスさまの罪状書きには、そういう過ちではなく「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という事実だけが書かれていました。その通りイエスさまは、ナザレの村の出身で、ユダヤ人の王として生まれたのです。これが、どうして罪状書きなのでしょうかね。

 この罪状書きは、20節「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語」の色んな国の言葉で書かれていました。だから、エルサレムに住んでいるユダヤ人は、ヘブライ語を読んで理解しました。また、ゴルゴタの丘があるエルサレムには、ちょうど世界中の国々に住んでいた大勢のユダヤ人も、過ぎ越しの祭りのために集まっていたので、彼らも自分が住んでいた国の言葉(ラテン語やギリシア語)で罪状書きを読んで理解しました。その後、彼らは、自分たちが見聞きしたことを自分の家や国に帰って人々に話したので、世界中の人々が、イエスさまが「ユダヤ人の王」だと知るようになりました。

 ただ、21節「ユダヤ人の祭司長たち」だけが、その罪状書きの内容に不満を持っていました。だから彼らは、ピラトに言いました。「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と。「自称した」というのは、 自分だけが勝手に、そう思い込んでいる時に、人が自分について言う言葉です。ユダヤの祭司長たちは、イエスさまが勝手に自分のことをユダヤ人の王だと言って、民衆を惑わしたと言いたかったのです。そこで、ピラトに罪状書きの内容を「ユダヤ人の王」ではなく「この男は『ユダヤ人の王と自称した』」と書き換えて欲しいと言ったのです。でも、ピラトは、22節「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。だから、イエスさまは、その通り「ユダヤ人の王」です。そして、その事実は、今や全世界の人々に伝えられたので、イエスさまは、世界の王なのです。

 ところで皆さん、王様は、何人もいる必要がありますか。王様は一人で良いのです。でも、この世界には、王様が何人もいます。だから、戦争も起こるし、その国と行き来が出来なかったりします。この世界の王様は、自分を豊かにすることを考えています。でも、本当の真の王様は、自分の国の人々を豊かにすることを考えます。イエスさまは、今や「すべての人たちの王」となられました。イエスさまは、真の王様だから、自分ではなく私たちを豊かにします。そのために、ご自分を犠牲にして十字架に架かりました。世界中の人々が互いに愛し合い、愛の掟によって神の国の国民として豊かに暮らせるように、罪を洗い清めて愛の衣を着せてくださったのです。だから、イエスさまが唯一の王だと信じる人は、愛の衣を着て、豊かに生きることができます。

 続いて、第3場面は、兵士たちがイエスさまの服をはぎ取り、くじ引きをして分けたお話です。23節24節、兵士たちは、イエスさまを「十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るように」しました。そして「下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった」ので「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合いました。兵士たちは、たまたま、くじ引きしたのではないのです。それは「聖書の言葉が実現するため」だったのです。実は、旧約の詩編22編18節に、メシア(救い主)預言があります。これは、やがて到来する救い主は、どのような方で、人々は、その救い主に、何をするのかが書いてあります。その中の一つが「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」なのです。救い主のイエスさまに対して、兵士たちが「このとおりにした」のは、イエスさまの誕生前から分かっていたことだったのです。

 つまり、イエスさまは、私たちの救い主として、この世に遣わされることになっていたのです。この主であり、王であり、救い主であるイエスさまの国(神の国)の特徴は、愛で満ちています。その神の国には、イエスさまが、わたしの主、わたしの王、わたしの救い主と信じる人々が入ります。今も、次々にイエスさまを信じて救われた人々が、神の国に入っています。だから、もう、神の国の扉は閉まっても良いのですが、神さまは、まだ、その扉を閉じません。神さまは、一人でも多くの人たちがイエスさまを信じて、罪赦され、愛の衣を着て、神の国に入ることができるように、その扉を開いて待っておられます。でも、開いている扉は、やがて閉まります。だから、まだ、イエスさまを信じて洗礼を受けていない人、罪を赦していただいていない人たちは、洗礼を受けて、神の国に入ってもらいたいのです。閉まった扉は、もう、どんなに叩いても開かないからです。イエスさまは、この世の国の主や王のような人物ではありません。イエスさまは、十字架の主、十字架の王、そして、約束された救い主です。その神の国は、愛で満ちています。

 その愛のことが、最後の第4場面に出てきます。第4場面は、イエスさまが十字架の下にいた母マリアと弟子のヨハネに、あるお願いをしたお話です。25節〜27節、イエスさまの「十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立って」いました。イエスさまは「母とそのそばにいる愛する弟子(これはヨハネ)とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われ」ました。それから弟子のヨハネにも「見なさい。あなたの母です」と言われました。こうして「そのときから、この弟子(ヨハネ)は」イエスさまの「母を自分の家に引き取った」のです。簡単に言えば、ヨハネは、イエスさまの母を自分の母のように、また、イエスさまの母は、ヨハネを自分の子どものように愛しなさいと言われたのです。このように、互いに愛し合うことが神の国の掟です。これからも私たちは、イエスさまが十字架の主、十字架の王として教えてくださった、その愛を受け止めていきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:36| 日記