2020年09月22日

2020年10月4日 主日礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「ピラトのもとに苦しみを受け」
聖書:ルカによる福音書23章13節〜33節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「平和の救い主」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書11章1節〜11節

感染予防対策をしたうえで、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:19| 日記

2020年09月17日

2020年9月27日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「その独り子、われらの主イエス・キリスト」
聖書:1ヨハネの手紙1章14節〜18節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「いのちの水を与える主」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書4章1節〜15節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:44| 日記

2020年9月20日 主日礼拝説教「憐れみを求め続ける」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書10章46節〜52節

 今朝、私達に、与えられた御言葉は、マルコによる福音書10章46節から52節の御言葉であります。今朝の御言葉から、何よりもまず、注目したい御言葉があります。それは、「主イエス・キリストの問いかけ」です。
 主イエス・キリストは、ここで、何と、問いかけたでしょうか。それは、「何をしてほしいのか」と問いかけました。主イエス・キリストは、このように、バルティマイに対して、問いかけています。
 この「問いかけ」は、先週の説教で、示された、ヤコブとヨハネに対する問いかけと同じ問いかけです。主イエス・キリストは、ヤコブとヨハネに対して、問いかけたように、ここでは、バルティマイにも、同じように、問いかけているのです。
 それでは、ヤコブとヨハネは、そこで、何を願ったのでしょうか。彼らは、「栄光に与ること」を願いました。
 しかし、それは、同時に、見返りを求めた願いでもありました。即ち、「自分たちは、これからも主に従って行く」「だから」「あなたの栄光に与りたい」という願いです。主イエス・キリストは、そこで、彼らの無知を指摘し、彼らの願いに、応えることはありませんでした。救いは、見返りとして、与えられるものではないからであります。
 それに対して、バルティマイは、どうでしょうか。彼の願いは、「目が見えるようになること」であります。共通することは、どちらも、自分の願いを訴えている、ということであります。
 しかし、今朝の御言葉によれば、バルティマイの目は、開かれたのであります。一方では、願いが、叶えられ、もう一方では、願いが、叶うことはなかった。それが、ここで、まず示されていることなのであります。
 それでは、この両者の違いとは、一体、何であったのでしょうか。そして、なぜ、バルティマイの目は、開かれる必要があったのでしょうか。それが、今朝の御言葉において、とても、大切なメッセージなのであります。
 主イエス・キリストは、次のように、仰せになります。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と。つまり、ここで重要なことは、「信仰があるかないか」なのであります。
 ヤコブとヨハネは、自分のたちの働きを優先しています。自分たちの働きの見返りとして、栄光を求めたのであります。しかし、それでは、信仰が、見出せないのです。彼らは、自分たちの働きや力に頼っていたからです。神様を見上げていない、神様の働きが見えていない。自分の能力だけを見ていたのであります。そこに、信仰は、見出せないのであります。
 しかし、それに対して、バルティマイは、どうでしょうか。バルティマイは、無力であります。何も出来ませんでした。見返りを求めることすら出来ません。もう、一方的に受けるしかないのです。
 しかし、正に、そこに、信仰があった。ただ、信仰だけがあった。それによって、この人は、救いの光の内に生きることができた。救いを知るために、自分の力に、頼る必要は、無いのであります。ただ、神様を見上げる。ただ、神様の救いに頼る。そこに信じる心が、与えられている。いや、そこで、その人の信仰を認めてくださる、主が、いてくださる。だからこそ、信仰を通して、救いを知るものとされるのであります。
 それでは、その「信仰」とは、何でしょうか。それが、今朝の御言葉の大きなポイントになるのであります。
 まず、何よりも、ここで、バルティマイは、主イエスを「ダビデの子イエス」と告白しています。「ダビデの子」とは、「救い主」を意味しています。つまり、バルティマイは、主イエスこそが、真の救い主であると、その信仰を、公に告白したことになるのです。他の何者でもない、ただ、「主イエスだけが、私の救い主だ」と、人々の前で、主に向かって告白をしたのであります。
 ここにまず、信仰が、示されているのであります。使徒パウロは、「信仰」とは、「口でイエスは主であると言い表す」ことであると記しています。あるいは、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」とも記しているのです。
 そして、ここで、もう一つ、重要なことがあります。バルティマイは、この時、未だ、目が見えていません。つまり、どこに、主イエス・キリストがいるかを、確認することはできないはずなのです。言い方を変えるならば、目では見えない存在が、そこにあると信じて、告白をした、ということになります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。このように、ヘブライ人への手紙で、明確に言われている通りであります。
 つまり、彼は、救い主を、頭で理解したわけではないのです。目で確認をしたわけではないのです。しかし、それでも、そこに、私のために、主イエス・キリストが、いてくださる。そこに、真の救い主が、生きてくださる。心の目で、主を、見上げているのであります。ここに、信仰があることを、主御自身が認めてくださるのであります。
 そして、大切なことは、まだあります。それは、彼が、人々から止められても、叫び続けた、ということであります。それは、何を、意味しているのでしょうか。それは、この人にとって、「もう、イエス・キリストしかいない」ということであります。もう、自分の力では、どうすることもできない。自分の力では、もう生きることができない。もう救い主しかいない。そのような彼の心が、ここで強く表されているのであります。
 このような、彼の叫びを、主イエス・キリストは、聴いてくださり、主イエス・キリストは、足を止められました。しかし、主イエス・キリストから近寄ることはありません。弟子たちを用いて、彼を招かれます。
 これも大切なことです。何が大切か。それは、「自分の足で立ち上がる」ということです。今までの生活に、座り続けるのではありません。主の招きに応え、主の御声に導かれ、立ち上がって、歩み出す。それは、あなたにしかできないことなのであります。ここにもまた、信仰者の一歩が、あると言えるかも知れません。
 そして、最後に、もう一つ印象的なことがあります。それは、彼が、「上着を捨てた」ということであります。
 彼にとって、上着は、ただ一つの財産であります。施しを受ける彼にとって、上着は、その施しの受け皿でもありました。それを捨てて、立ち上がる。それは、彼にとって、今までの生活を、全て捨てて、主の元に歩み出していく。それほどのことであります。そこにもまた、確かな信仰を、主は、見出してくださった。そのようにも言えるのであります。
 いや、彼は、まだ癒されていないにも、関わらず、まるで、自分が癒されたかのように全てを捨てて、喜び躍るのであります。救い主の救いの御業を、信じていなければ、そのような態度は、生まれなかったでありましょう。自分が、願うよりも先に、主の救いを確信できる。そのような喜び。それが、信仰者にある喜びなのであります。そして、その信仰を通して、主イエス・キリストは、彼の目を開かれたのであります。
 このように「信仰」とは、「主イエスを救い主と公に告白」し、「目には見えない事実に確信」を抱き、「ただ、救い主にしか、私の救いはない」と信じ、「招きの声に導かれて、全てを捨てて、喜び躍りながら、主のもとに歩み寄ること」なのであります。
 その信仰を通して、この人の目が、開かれ、新しい人生の幕があがるのであります。そして、その新しい人生とは、主イエス・キリストと共に歩む人生であり、主に従う人生なのであります。従ったから救われたのではないのです。救いの光の中で、従う道が開かれていくのです。
 しかし、これで、もし、この話が、終わるならば、この人の信仰がすごい、信仰があれば、何でも叶う。それだけの話になってしまいます。ここが、ポイントであります。信じたら、自分の必要が、満たされた。だから、主に従う。それでは、ヤコブとヨハネと変わらないでありましょう。見返りを求める信仰であります。
 本当に大事なことは、この先のことなのであります。なぜ、バルティマイの目が、開かれる必要があったのか。それは、彼が、本当に見るべきものが、この先にあるからであります。信仰が認められ、願いが聞かれ、目が開かれた。それで。全てが、終わるのではないのです。目が開かれることによって、見るべきものが見えるようになった、ということであります。願いだけの信仰は、それ自体は、まだ、完全ではないのです。むしろ、不完全なのであります。本当に見るべきものが見えていないからなのであります。
 目が開かれた、バルティマイは、主イエス・キリストと共に、歩み出します。そして、その開かれた目で見たものは、何であったでしょうか。それが、主イエス・キリストの十字架の死と復活なのであります。
 彼が、本当に、そこで見るべきところは、十字架の死と復活なのであります。そこにこそ、真の救いがあるのです。そこにこそ、肉の目が、開かれること以上の、本当の喜びがあるのです。
 バルティマイは、その恵みに、気づかされていくのであります。自分の長年の苦しみよりも、遙かに苦しまれる、そのような主イエス・キリストを見たのです。そこに、自分の弱さを背負う主を見上げたのであります。そして、弱さに満ちた自分を赦し、死んで行かれる主を見つめたのであります。
 しかし、同時に、その死を越えていく救い主もみた。その時、彼は、かつて与えられた喜びよりも、遙かに大きな喜びを見出したのだろうと思うのです。
 なぜ、そう思えるのでしょうか。このバルティマイは、後に、教会で大きな役割を負ったと思います。だからこそ、ここで、彼の名前が、示されているのであります。それは、後の教会で、知られた人物だったからでありましょう。本当の喜びを知ったからです。本当の救いに生かされたからであります。肉の目が、自分の必要が、満たされること以上の喜びを知ったのであります。だからこそ、教会の枝になったのであります。
 そして、そのようなバルティマイは、恐らく、ここで、弟子たちを通して、自分に語られた御言葉を、教会の中でも、真の喜びに満ちて、語り続けただろうと思います。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と。
 信仰をもって、新たに歩み出すことは、勇気がいるものです。今までの自分を捨てることは、勇気がいることです。
 しかし、復活した主イエス・キリストは、今も、生きておられます。そして、教会を通して、礼拝を通して、一人一人の心の内に、語りかけています。「安心していい。ただ立てば良い。私が、あなたを呼んでいるよ。そして、その先に、あなたの必要を満たすこと以上の救いがあるのだ。それを見上げれば良い。そこにこそ、真の救いがあるのだ」。
 主は、今も生きて、私達を招き続けているのであります。その御声に耳を傾けながら、新たな信仰生活へと、喜び躍るように歩み出したいと思うのです。既に、信仰が与えられている方々にとっては、これは、喜びの原点を思い起こす時であります。そして、信仰がまだ、与えられていない方々にとっては、主の招きの声なのです。どうか、この招きに、共に耳を傾けて頂ければと思います。

天の神様、新しい御言葉の恵みに、心より感謝申し上げます。あなたから多くの恵みを頂きながらも、私達は、自分の行いや思いに支配され、正しく、あなたを見る目が閉じています。どうか、憐れんでください。そして、どうか、私達が見るべき十字架の死と復活の救いを、私達に示し続け、本当の希望へと導いてください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:42| 日記