ルカによる福音書1章5節〜25節、申命記32章48節〜52節
説 教 「ザカリアの不信仰」
長く恵まれた聖霊降臨節も終わり、今日から4週を数える待降節アドベントに入りました。そのため、これまで読み進めてきたルカ福音書7章以降の物語を一旦ストップして、今日から4回の日曜日は、ルカ福音書の最初の物語、1章から始まるクリスマス物語を読み進めていきます。とは言っても、今日の物語がクリスマス物語かと言えば微妙です。なぜなら、今日の物語は、イエスさまではなく、ヨハネの誕生物語だからです。また、その両親もヨセフとマリアではなく、ザカリアとエリサベトです。ということで、正確には、クリスマス物語の6か月前の物語になります。ただ、1章26節から始まるクリスマス物語は「6か月目に、天使ガブリエルは…、ヨセフのいいなずけであるおとめのところに遣わされた」と言って始まっています。だから、クリスマス物語は、6か月前に起こったヨハネの誕生物語を発端としています。そう考えると、ヨハネの誕生物語は、微妙というより、クリスマス物語の伏線と言えます。また、誕生物語としての構図は、同じ天使ガブリエルの登場に見られるように、イエスさまの誕生物語と非常に似ています。ただ、明らかに違うのは、イエスさまが神の子・救い主であり、ヨハネは、そうではないということです。このヨハネの誕生物語は、5節を見ると「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた」という言葉から始まります。そして「その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった」とあります。ザカリアが属する「アビヤ組」は、神殿における奉仕の務めを神から託された、祭司を組織する組の一つです。祭司の組織については、歴代誌上24章に記されています。要約すれば、祭司を組織する組は24組あり、アビヤ組は、第8組目でした。そして、妻のエリサベとも同じ祭司の家系、すなわち、モーセの兄アロン家の娘でした。この2人が属する祭司の家系は、イスラエル12部族でいうレビ族の一員です。だから、広い意味で2人はレビ人です。けれども、そのレビ族の中で、神はアロンの家系を選び、特別職としての祭司職や大祭司職の務めを任されました。他のレビ人は、この大祭司や祭司に仕える者として、神殿の務めを果たしました。
このように、ザカリアとエリサベトは、祭司の家系だったので、6節「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」のです。「正しい」というのは「主の掟と定めをすべて守り」とあるように、律法によって正しい人で「非のうちどころがなかった」ので、どんなにか祝福された人生だったでしょう。当時、祝福と言えば、それは、土地の継承や子孫繁栄でした。土地の継承について言えば、レビ族は、約束の地に部族としての嗣業の土地の割り当てはありませんでした。なぜなら、神ご自身がレビ族の嗣業の土地だったからです。嗣業とは、継ぐという意味で、神から授かった賜物を継ぐということです。つまり、神に仕える働きそのものが、レビ族の継ぐべき土地でした。また、子孫繁栄について言えば、それは、天地創造物語の中で、神が生き物を祝福された言葉でした。創世記1章28節では、神が人間を祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と。この子孫繁栄も、神から授かった賜物を継ぐことでした。なぜなら、ユダヤ人は、死者のよみがえりを信じない人が大半だったからです。そのため、希望は、親の面倒を見、家の財政を助ける子どもに託されました。だから、子どもがいない家は呪いと見なされました。「しかし」7節を見ると「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」とあるのです。この現実は、2人の悩みの種でした。ザカリアは、13節の言葉によれば、子どもを授かりたいと願い続けていましたが「二人とも既に年をとっていた」ため、現実は年々厳しくなる一方でした。2人は、律法において「正しい人」「非のうちどころがない」人でしたが「信仰は」歳を重ねる毎に弱っていったと考えられます。そのような2人に、この後、いずれも良い意味で、驚くべきことが起こるのです。8節9節をご覧ください。「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった」とあります。ザカリアは、所属するアビヤ組が神殿奉仕の当番だったので、祭司の務めに当たっていました。このアビヤ組の奉仕月は決まっていました。それは、イエスさまの誕生月から、子どもが生まれるまでの月数10か月と、この物語でネックになっている6か月を遡れば、クリスマスの1年前の夏頃になります。その夏頃に、アビヤ組が神殿で祭司の務めに当たっていた時、ザカリアが、しきたりによって、くじを引くと「主の聖所に入って香をたくことになった」のです。これは、民の代表として神に祈る務めで、人生で一度も回ってこないこともある光栄な務めでした。祭司の務めの期間は25歳から50歳までと短かったからです。そうして、10節、ザカリアが「香をたいている間、大勢の民衆が皆外(それは、神殿の庭)で祈っていた」のです。 すると、11節12節「主の天使が現れ、香壇の右に立った」ので「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」とあります。 聖書は、神を見た者は死ぬと言っており、神的な存在を前に恐れるのは、人間の普通の感覚です。しかし、天使は言いました。13節〜17節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」と。この天使ガブリエルのザカリアへの告知内容を見ると「男の子」が産まれ、その子は、あなたの「喜び、楽しみ」となり、多くの人の「喜び」にもなると言われています。また「偉大な人になり」「聖霊に満たされ」とあるくだりは、神の任命を受け、誓約を果たす聖別されたナジル人の性質と似ています。更に、大預言者「エリヤの霊と力」に満ち「父の心を子に」ですから、それは、愛情と平和の回復です。また「逆らう者に正しい人の分別」というのは、悔い改めの心の回復ですから、この告知は、間違いなく良い知らせです。私たちがもし、この良い知らせを聞いたら、どんな反応をするでしょうか。
ザカリアは天使に言いました。18節「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と。このザカリアの言葉は、何か、とても冷めた受け答えという印象を受けます。要するに、ザカリアは「そんなことは信じられない」と言ったのです。「良い知らせなんか信じられない」と。もし、全く心当たりがなければ、その答えでも已むを得ませんが、ザカリアは、子どもを授かることを必死に願っていたのです。年を重ねる毎に、それを信じる気持ちが弱っていったとはいえ、そう願っていたのです。それなら、素直に心から喜べば良いのです。しかし、ザカリアの言葉には、天使の言葉が何一つ反映されませんでした。普通は、言葉に釣られるということが起こるのです。それが自分の中に無い言葉でも、その言葉に釣られて、自分もその言葉を口にしていたりします。この出来事で言えば、ザカリアは、天使の言葉に釣られて良い知らせを喜ぶだけで良かったのです。しかし、時に、言葉は残酷です。そう思い込んだら、或いは、現実に囚われれば、そこに希望が無いと分かっていても、そこに向かわせるからです。そうやって、自分の意思のままに突き進むということが、何でもかんでも正解なんて言うことはないのです。むしろ、神の意思に自らを任せることが、私たちには必要なのです。イエスさまは、十字架前夜、ゲッセマネの園で祈られた時、ご自分の意思ではなく、神の意思(御心)を優先されました。だから、人は、言葉によって生きもすれば、逆に、言葉によって死にもするのです。天使は、良い知らせを告げに来たのです。19節「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」と。しかし、ザカリアは、この良い知らせを信じなかったので、天使は、ザカリアに宣告しました。20節「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と。その頃、聖所の外(神殿の庭)では、民衆が、21節「ザカリアを待って」「彼が聖所で手間取るのを、不思議に思って」いました。その後、22節23節によれば「ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった」のです。「そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った」のです。「ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないまま」でしたが「やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った」とあります。この後、ガブリエルの言葉が実現しました。24節25節「妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と。実に、天使ガブリエルは、紀元前500年頃にも、預言者ダニエルの祈りに答え、彼の前に現れ、救い主到来の良い知らせを告げていたのです。ザカリアという名前は『神に覚えられた者』という意味です。神は、決して、私たちの祈りを忘れたりしません。どれだけ年を重ね、その祈りの火が消えかけ、願う気持ちが弱まっても、祈り続けるなら、神は、祈りに答えてくださるのです。
ところで、どうして、このヨハネの誕生の知らせが、イエスさまの誕生の知らせの6か月前に届いたのでしょうか。それは、ヨハネが「エリヤの霊と力で主に先立っていく」者(先駆者)だったからです。マタイ福音書では、イエスさまが、ヨハネについて「実に、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ福音書11章14節)と言っておられます。実に、旧約のマラキ書3章23節24節には「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」と預言されてもいます。こうして、ヨハネは、旧約最後の預言者として主に先立ち、準備が整った民を、主の前に備える務めを果たすのです。ただ、それだけではなく、このヨハネ誕生の物語は、冒頭でも言ったように、イエスさまの誕生物語の伏線なのです。マリアは、当時14歳ぐらいの少女だったと言われています。未だ婚約の段階で、子どもを授かりたいという願いは時期尚早でした。願いがあっても、それは、ザカリアほどに切実ではなかったはずです。だから、マリアは、ガブリエルから受胎告知を受けた時「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言いました。しかし、その後「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と信じたのです。それは、ガブリエルが、親類のエリサベトは、不妊の女であり、歳を取っていたのに、男の子を身ごもっているという知らせも告げたからなのです。マリアも、誰もがそうであるように、ガブリエルが現れた時に恐れ、ガブリエルから「恐れるな」と言われました。ザカリアの場合は、自分が祈っており、ダニエルの出来事も知っていれば、尚更、身に覚えがあったのです。しかし、マリアは「戸惑い」を隠すことができず「この挨拶は何のことかと考え込んだ」とあります。だから、マリアにとっては、自分に起こったことが、全く理解できなかったのです。しかし、マリアの言葉には、天使の言葉が反映されました。言葉に釣られるということが起こりました。それは、親類のエリサベトが男の子を身ごもったという良い知らせを聞いて信じたからです。だから、自分に起こったことも、これは、良い知らせであると信じたのです。たとえ、自分の中に無い言葉でも、神の言葉に釣られて自分もその言葉を口にするのです。マリアは、天使の言葉に釣られて、良い知らせを信じ、喜ぶことができたのです。だから、マリアは、受胎告知の後すぐに、ナザレからエルサレムという遠距離を、急いで行って、身重のエリサベトに会っています。私たちは、悪い知らせを信じるようにとは、一切言われていません。良い知らせを信じるようにと言われています。今日から待降節(アドベント)の期間に入りました。それは、到来や来臨を意味する言葉で、イエスさまが来てくださるという良い知らせを待ち望む期間です。私たちは、この期間に訓練されるのです。良い知らせを信じて待ち望むという訓練です。イエスさまの十字架の救いも復活も、昇天も再臨も、すべて良い知らせです。信仰とは、良い知らせを喜んで受け入れる心なのです。
2023年12月03日
2023年12月3日 主日礼拝「ザカリアの不信仰」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:19| 日記
2023年12月01日
2023年12月10日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書1章26節〜38節
説教:「マリアへの御告げ」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書1章57節〜66節、創世記21章1節〜8節
説 教:「ザカリアの信仰」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:ルカによる福音書1章26節〜38節
説教:「マリアへの御告げ」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書1章57節〜66節、創世記21章1節〜8節
説 教:「ザカリアの信仰」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:00| 日記
2023年11月26日
2023年11月26日 主日礼拝「生命を与える主イエス」大坪信章牧師
ルカによる福音書7章11節〜17節、列王記下4章32節〜37節
説 教 「生命を与える主イエス」
今日の福音書の出来事は、これまで私たちが見てきたイエスさまの御業の中では、最たるものと言えます。これまで、イエスさまは、度々、悪霊に取りつかれた男を癒し、病人を癒し、体の不自由な人を癒されました。いわゆる、イエスさまの宣教の業は『いやしと教え(御言葉)』です。けれども、今日の出来事は、これまでのような癒しではなく、死んだ生命が、何と、もう一度、生きる、生き返るという死者のよみがえりです。すなわち、平行の癒しではなく垂直の癒しです。これをもって、イエスさまの癒しの業は、ひとまず頂点に達しました。そして、この時点でイエスさまの業は、1つの区切り目を迎えたのです。なぜなら、この出来事は、17節を見ると次のように言われているからです。「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」と。そして、18節以降では、この広まった死者のよみがえりの話しを、あの洗礼者(バプテスマの)ヨハネの弟子たちが耳にし、やがて、それが牢獄に繋がれていた洗礼者ヨハネ自身の知るところとなるのです。そこでヨハネは、2人の弟子をイエスさまの下に送って言わせました。19節「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。それは、ヨハネが抱いていた救い主像が、罪人や悪人を裁く裁き主だったからです。しかし、自分の弟子たちが巷で聞いてきた噂は、自分の救い主像とは、全くかけ離れていました。それで、イエスさまは、ヨハネの弟子たちに、こう答えられました。22節23節 「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と。要するに、ヨハネは、イエスさまに躓いたのです。また、この後、30節には「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」が「自分に対する神の御心を拒んだ」とありますが、要するに、彼らも躓いたのです。どうして躓いたのかと言えば、それは「自分の考えが正しい」と思っているからです。このように、自分が正しいと思っている人々が、神の寵愛や恵みを受けることは決してありません。昨日、滋伝協(滋賀伝道協力)教育委員会主催の『教会芸術を学ぶ集い』〜賛美歌で祝うクリスマス〜のコンサートに参加しました。アヴェ・マリアなどの歌やオルガン演奏等を聞きながら、満ち足りた一時を過ごしました。開会礼拝では「分かち合う」と題して、エフェソの信徒への手紙5章6節〜20節を通してメッセージをいただきました。「暗いこの世だから、私たちは賛美を歌うのです」と。また「時には、躓くようなことがあるかもしれない。だから、私たちは、共に歌を分かち合い、言葉を分かち合い、思いを分かち合うのです」と。つまり、礼拝を守るのです。それは、自分の命を守るのです。
開会礼拝では、奏楽を担いましたが、そのメッセージ後に歌った讃美歌は、讃美歌21の81番『主の食卓を囲み』でした。それを伴奏しながら、メッセージが更に力を増したように思えました。イエスさまは「目の見えない人」の目を開き「足の不自由な人」を歩かせ「重い皮膚病を患っている人」を清くし「耳の聞こえない人」の耳を開かれました。そして「死者」を生き返らせ「貧しい人」に福音を告げ知らせる救い主です。そのことが信じられないなら、どうして、次の事実を信じられるでしょうか。イエスさまは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかって死んでくださる主(救い主)なのです。これから迎えるクリスマスは、イエスさまが十字架に架かって死ぬためにお生まれになる日、ということを忘れてはなりません。この主の歌である賛美を分かち合い、この主の言葉である御言葉を分かち合い、この主の思いである御心を分かち合いながら、私たちは、数多の躓きを乗り越えていくのです。『主の食卓を囲み』を弾きながら、その食卓で、私たちは、イエスさまの裂かれた肉と流された血潮を分かち合うことを思い、豊かな気持へ導かれました。この物語の中で、イエスさまが死者をよみがえらせたことによって、待ち望むべき救い主は、どのような方であるのかが、はっきりと世に示されたのです。そう意味で、1つの区切り目を迎えたのです。また、それは、このルカ福音書を書いたルカにとっても1つの区切り目でした。というのは、13節を見ると、ルカは初めて、この物語の中でイエスさまを「主」と呼んだからです。つまり、この死者のよみがえりの出来事が、医者であるルカをして、そう言わせたのです。だから、この死者のよみがえりの出来事は、単なる奇跡物語ではないのです。奇跡物語は「そんなことがあるはずはない」とか「信じられない」という反応を、私たちに求めていません。そもそも、奇跡は、イエスさまが主であり、イエスさまの教えが確かであることを指し示す出来事です。だから、奇跡物語というのは、逆に、自分が正しい人間だという思いや、自分の考えが、すべてだと思う思いを、完全に打ち砕く出来事でもあると言えるのです。
それでは、この死者のよみがえりの物語を見ていきます。11節「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」とあります。この前の『百人隊長の物語』は、ガリラヤ湖の北西岸にあるカファルナウムが舞台でしたが、ナインは、そこから南西に約30キロ降った、丁度ナザレの南、タボル山の近くです。標高差が400mもある上り坂なので大変な道のりです。けれども、イエスさまは、そこに一日強の時間を掛けて向かわれたのです。そうして、12節「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった」のです。イエスさまの後に従ってきた弟子と群衆の行列は、期待と希望に満ちていましたが、ナインの町の門から外に出てきたのは、諦めと絶望に満ちた葬送の行列でした。イエスさまが遠路遥々、険しい坂道を上って来られたのは、この行列の先頭を歩く、死んだ一人息子の母親に会うためでした。この息子は40歳以下の若者だったので、母親は、働き盛りの愛する一人息子を失ったのです。今、働き盛りを強調したのは、家計簿が、この一人息子にかかっていたからです。その事実の補足として「その母親はやもめ」で「町の人が大勢そばに付き添って」いたともあります。つまり、この母親はやもめで、身寄りのない捨てられた女のようになっていたのです。町の人が大勢付き添っていても、多数は泣き女であり、やもめの周りは悲しみが渦巻いていました。すると、13節「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」のです。 そして、14節「近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた」のです。イエスさまは、この二言を言うために、一日強の時間を掛けて険しい上り坂を歩いて来られたのです。イエスさまは、やもめの痛々しい姿に心を痛め、深い同情を示されました。「憐れに思い」という言葉は、腸がちぎれるほどの痛みを持って、イエスさまが、この母親の痛みを共有されたことを意味します。中々できることではありませんが、そのあとの言葉「もう泣かなくともよい」と言うだけなら誰でも言えます。ただ、そのあとには「いつまでも、泣いていたって仕様がないじゃないか」と言葉を足すはずです。人は、これ以上の言葉をかけられないのです。しかし、イエスさまは、もう1つの言葉を持っておられました。イエスさまは、木製の担架のような「棺」に手を触れて言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と。すると、15節「死人は起き上がってものを言い始めた」ので、イエスさまは「息子をその母親にお返しになった」のです。その時、16節「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった」と言った』のです。「大預言者」これは、聖書の旧約に出て来る偉大な預言者と呼ばれたエリヤや、今日、聖書で朗読されたエリヤの後継者エリシャの物語を読めば分かります。彼らの働きも、死者のよみがえりだったからです。ここで「恐れを抱き、神を賛美」した人々は、その物語を思い出したのでしょう。恐れというのは、勿論、畏れ敬う気持であるのは当然ですが、漢字が使い分けられているように、同時に、恐いという「恐れ」もあったに違いないのです。「神にできないことは何一つない」と言った受胎告知後のマリアの反応のように「神は何を為さるか分からない」そういう恐さがあるのです。それは、時に、私たちの驚きや感動となって、ここで人々が言ったように「神はその民を心にかけてくださったと」言うのです。それは「神は、その民を訪れてくださった」と言うのです。
自分のこととして、置き換えれば分かるはずです。死人が起き上がってものを言い始めるわけですから、畏怖の前に、正直、恐れが先に立ちます。今の時代は、非暴力が叫ばれていますが、聖書の物語でさえ、虐待や脅しを心に植えつけるので、教育上宜しくないという話しも聞きます。しかし、根本的に、神に対する畏れもそうですが、恐れを失えば、人間は、一体どこに向かうか行き先は明瞭です。人間は弱く愚かですが、何度も罪を冒し、何度も同じことを繰り返すのでしょうか。そうして、神の忍耐を試し、この世から見捨てられたような一やもめを愛した、神の腸がちぎれるほどの痛みを伴う、その愛を弄ぶのでしょうか。と言ったところで、実際は、そうなのかもしれません。それが人間なのかもしれません。ただ、今、終末、再臨が遅れていると言われて久しいですが、その理由が聖書に書いてあります。ペトロの手紙2、3章9節〜14節「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」と。神は、一人でも多くの人々が悔い改め、立ち帰るように待っておられるのです。はっきり言って、自分が自分の罪のために滅ぼされてしまうと言うなら恐ろしいです。別に、神がそう仰り、そう為さると言われなくても、それは、自分の心が一番良く分かっていることです。私は、若い頃に神さまに怒られましたが、怒られて良かったと思っています。何度も同じことを繰り返せば、たとえ神が自分を赦してくださったとしても、おそらく自分が自分を赦せなくなったと思うからです。私が、今こうして、ここに立っているのは、神への恐れと、畏れと、感謝と、喜びがあるからです。また、聖書は、こうも言っているのです。ローマの信徒への手紙2章1節〜5節「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」と。だから、すべてが終わり、すべてが一新される、その終末、再臨が来る前に、自分の判断で、自分の決心で神を信じ、神に立ち帰り、神に従うのです。神の前に自らの力を捨て、降参し、降伏し、神の御腕に、乳飲み子のように委ねられる者となることを、神は求めておられるのです。
先週、一人の姉妹の病床を訪れました。歌が好きで、若い頃、聖歌隊をしていた彼女は、わたしの目に、白いシーツで覆われたベッドの上で器具を装着され、虚しく横たわっていたわけではありませんでした。力は大分失われ、呼吸は苦しそうでした。しかし、わたしの目に、彼女は、神の御腕の中に委ねられている者、それは、安心して自分を任せる神の子どもの姿に見えました。「わたしも、そうなりたい。すべての人が、そうなってほしい」と思いました。勿論「死の床に伏せろ」と言っているのではありません。自分の力を捨てて「神の御腕の中に委ねられた者となりたい、なってほしい」と思ったのです。詩篇131編2節3節に「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」とあります。イエスさまは、今日言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と。これは命令です。主の命令です。命令です。それなのに、未だうずくまっているのですか。若者は起きました。主の命令は、命を与えます。それは、先週の百人隊長の話しの中でも言った通りです。命令とは「命を与える言いつけ」と書くのです。そして、実に「命令」と言われなくても、この「命」そのものが、その一字が、命令という意味を持っていることに気づくのです。命は、口と命令の令の字で構成されているからです。また「命」は、叩くという漢字が入ってもいるのです。だから、神が試練を与え、命を叩き、火で精錬された金のように輝かせてくださるということでもあるのです。また、その命を叩く音は、心臓の鼓動ということでしょうか。もしかしたら、心臓の鼓動は、神が私たちの命に触れ、ドアを叩くように私たちの命にノックし、私たちと、いつまでも共にいてくださろうとしているのかもしれません。ただ、今日の物語の中で、死んだ一人息子の命にイエスさまがノックされたことは、確かな事実です。そして、実に、それは、ヨハネの黙示録でも言われているのです。3章20節「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と。
ところで、今日の説教は『生命を与える主イエス』と題しましたが「命」ではなく「生命」です。その通り、この死んだ一人息子は、起き上がりましたが、それは、生命としての命を回復した。つまり、よみがえりはよみがえりでも、蘇生としての蘇りに過ぎません。それでも、この死人の復活は、驚きを通り越していますが、神の御業は、こんなもんじゃないのです。蘇りではなく、甦り、それは、更に生まれると書いた甦りだからです。それは、罪と死に支配された生命ではなく、蘇生したとしても、やがては必ず死に至る生命ではなく、罪の赦しが与えられた永遠の命です。このように、神の怒りを受け、断罪されるしかない私たちの命は、その神の怒りを受け、断罪された救い主イエスさまによって贖われたのです。この主イエスの御言葉に聞き従い、この肉体が、ただの肉体となることがないように、やがては栄光に輝く復活の体となるように、健全な魂を宿す者となりましょう。
説 教 「生命を与える主イエス」
今日の福音書の出来事は、これまで私たちが見てきたイエスさまの御業の中では、最たるものと言えます。これまで、イエスさまは、度々、悪霊に取りつかれた男を癒し、病人を癒し、体の不自由な人を癒されました。いわゆる、イエスさまの宣教の業は『いやしと教え(御言葉)』です。けれども、今日の出来事は、これまでのような癒しではなく、死んだ生命が、何と、もう一度、生きる、生き返るという死者のよみがえりです。すなわち、平行の癒しではなく垂直の癒しです。これをもって、イエスさまの癒しの業は、ひとまず頂点に達しました。そして、この時点でイエスさまの業は、1つの区切り目を迎えたのです。なぜなら、この出来事は、17節を見ると次のように言われているからです。「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」と。そして、18節以降では、この広まった死者のよみがえりの話しを、あの洗礼者(バプテスマの)ヨハネの弟子たちが耳にし、やがて、それが牢獄に繋がれていた洗礼者ヨハネ自身の知るところとなるのです。そこでヨハネは、2人の弟子をイエスさまの下に送って言わせました。19節「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。それは、ヨハネが抱いていた救い主像が、罪人や悪人を裁く裁き主だったからです。しかし、自分の弟子たちが巷で聞いてきた噂は、自分の救い主像とは、全くかけ離れていました。それで、イエスさまは、ヨハネの弟子たちに、こう答えられました。22節23節 「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と。要するに、ヨハネは、イエスさまに躓いたのです。また、この後、30節には「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」が「自分に対する神の御心を拒んだ」とありますが、要するに、彼らも躓いたのです。どうして躓いたのかと言えば、それは「自分の考えが正しい」と思っているからです。このように、自分が正しいと思っている人々が、神の寵愛や恵みを受けることは決してありません。昨日、滋伝協(滋賀伝道協力)教育委員会主催の『教会芸術を学ぶ集い』〜賛美歌で祝うクリスマス〜のコンサートに参加しました。アヴェ・マリアなどの歌やオルガン演奏等を聞きながら、満ち足りた一時を過ごしました。開会礼拝では「分かち合う」と題して、エフェソの信徒への手紙5章6節〜20節を通してメッセージをいただきました。「暗いこの世だから、私たちは賛美を歌うのです」と。また「時には、躓くようなことがあるかもしれない。だから、私たちは、共に歌を分かち合い、言葉を分かち合い、思いを分かち合うのです」と。つまり、礼拝を守るのです。それは、自分の命を守るのです。
開会礼拝では、奏楽を担いましたが、そのメッセージ後に歌った讃美歌は、讃美歌21の81番『主の食卓を囲み』でした。それを伴奏しながら、メッセージが更に力を増したように思えました。イエスさまは「目の見えない人」の目を開き「足の不自由な人」を歩かせ「重い皮膚病を患っている人」を清くし「耳の聞こえない人」の耳を開かれました。そして「死者」を生き返らせ「貧しい人」に福音を告げ知らせる救い主です。そのことが信じられないなら、どうして、次の事実を信じられるでしょうか。イエスさまは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかって死んでくださる主(救い主)なのです。これから迎えるクリスマスは、イエスさまが十字架に架かって死ぬためにお生まれになる日、ということを忘れてはなりません。この主の歌である賛美を分かち合い、この主の言葉である御言葉を分かち合い、この主の思いである御心を分かち合いながら、私たちは、数多の躓きを乗り越えていくのです。『主の食卓を囲み』を弾きながら、その食卓で、私たちは、イエスさまの裂かれた肉と流された血潮を分かち合うことを思い、豊かな気持へ導かれました。この物語の中で、イエスさまが死者をよみがえらせたことによって、待ち望むべき救い主は、どのような方であるのかが、はっきりと世に示されたのです。そう意味で、1つの区切り目を迎えたのです。また、それは、このルカ福音書を書いたルカにとっても1つの区切り目でした。というのは、13節を見ると、ルカは初めて、この物語の中でイエスさまを「主」と呼んだからです。つまり、この死者のよみがえりの出来事が、医者であるルカをして、そう言わせたのです。だから、この死者のよみがえりの出来事は、単なる奇跡物語ではないのです。奇跡物語は「そんなことがあるはずはない」とか「信じられない」という反応を、私たちに求めていません。そもそも、奇跡は、イエスさまが主であり、イエスさまの教えが確かであることを指し示す出来事です。だから、奇跡物語というのは、逆に、自分が正しい人間だという思いや、自分の考えが、すべてだと思う思いを、完全に打ち砕く出来事でもあると言えるのです。
それでは、この死者のよみがえりの物語を見ていきます。11節「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」とあります。この前の『百人隊長の物語』は、ガリラヤ湖の北西岸にあるカファルナウムが舞台でしたが、ナインは、そこから南西に約30キロ降った、丁度ナザレの南、タボル山の近くです。標高差が400mもある上り坂なので大変な道のりです。けれども、イエスさまは、そこに一日強の時間を掛けて向かわれたのです。そうして、12節「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった」のです。イエスさまの後に従ってきた弟子と群衆の行列は、期待と希望に満ちていましたが、ナインの町の門から外に出てきたのは、諦めと絶望に満ちた葬送の行列でした。イエスさまが遠路遥々、険しい坂道を上って来られたのは、この行列の先頭を歩く、死んだ一人息子の母親に会うためでした。この息子は40歳以下の若者だったので、母親は、働き盛りの愛する一人息子を失ったのです。今、働き盛りを強調したのは、家計簿が、この一人息子にかかっていたからです。その事実の補足として「その母親はやもめ」で「町の人が大勢そばに付き添って」いたともあります。つまり、この母親はやもめで、身寄りのない捨てられた女のようになっていたのです。町の人が大勢付き添っていても、多数は泣き女であり、やもめの周りは悲しみが渦巻いていました。すると、13節「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」のです。 そして、14節「近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた」のです。イエスさまは、この二言を言うために、一日強の時間を掛けて険しい上り坂を歩いて来られたのです。イエスさまは、やもめの痛々しい姿に心を痛め、深い同情を示されました。「憐れに思い」という言葉は、腸がちぎれるほどの痛みを持って、イエスさまが、この母親の痛みを共有されたことを意味します。中々できることではありませんが、そのあとの言葉「もう泣かなくともよい」と言うだけなら誰でも言えます。ただ、そのあとには「いつまでも、泣いていたって仕様がないじゃないか」と言葉を足すはずです。人は、これ以上の言葉をかけられないのです。しかし、イエスさまは、もう1つの言葉を持っておられました。イエスさまは、木製の担架のような「棺」に手を触れて言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と。すると、15節「死人は起き上がってものを言い始めた」ので、イエスさまは「息子をその母親にお返しになった」のです。その時、16節「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった」と言った』のです。「大預言者」これは、聖書の旧約に出て来る偉大な預言者と呼ばれたエリヤや、今日、聖書で朗読されたエリヤの後継者エリシャの物語を読めば分かります。彼らの働きも、死者のよみがえりだったからです。ここで「恐れを抱き、神を賛美」した人々は、その物語を思い出したのでしょう。恐れというのは、勿論、畏れ敬う気持であるのは当然ですが、漢字が使い分けられているように、同時に、恐いという「恐れ」もあったに違いないのです。「神にできないことは何一つない」と言った受胎告知後のマリアの反応のように「神は何を為さるか分からない」そういう恐さがあるのです。それは、時に、私たちの驚きや感動となって、ここで人々が言ったように「神はその民を心にかけてくださったと」言うのです。それは「神は、その民を訪れてくださった」と言うのです。
自分のこととして、置き換えれば分かるはずです。死人が起き上がってものを言い始めるわけですから、畏怖の前に、正直、恐れが先に立ちます。今の時代は、非暴力が叫ばれていますが、聖書の物語でさえ、虐待や脅しを心に植えつけるので、教育上宜しくないという話しも聞きます。しかし、根本的に、神に対する畏れもそうですが、恐れを失えば、人間は、一体どこに向かうか行き先は明瞭です。人間は弱く愚かですが、何度も罪を冒し、何度も同じことを繰り返すのでしょうか。そうして、神の忍耐を試し、この世から見捨てられたような一やもめを愛した、神の腸がちぎれるほどの痛みを伴う、その愛を弄ぶのでしょうか。と言ったところで、実際は、そうなのかもしれません。それが人間なのかもしれません。ただ、今、終末、再臨が遅れていると言われて久しいですが、その理由が聖書に書いてあります。ペトロの手紙2、3章9節〜14節「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」と。神は、一人でも多くの人々が悔い改め、立ち帰るように待っておられるのです。はっきり言って、自分が自分の罪のために滅ぼされてしまうと言うなら恐ろしいです。別に、神がそう仰り、そう為さると言われなくても、それは、自分の心が一番良く分かっていることです。私は、若い頃に神さまに怒られましたが、怒られて良かったと思っています。何度も同じことを繰り返せば、たとえ神が自分を赦してくださったとしても、おそらく自分が自分を赦せなくなったと思うからです。私が、今こうして、ここに立っているのは、神への恐れと、畏れと、感謝と、喜びがあるからです。また、聖書は、こうも言っているのです。ローマの信徒への手紙2章1節〜5節「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」と。だから、すべてが終わり、すべてが一新される、その終末、再臨が来る前に、自分の判断で、自分の決心で神を信じ、神に立ち帰り、神に従うのです。神の前に自らの力を捨て、降参し、降伏し、神の御腕に、乳飲み子のように委ねられる者となることを、神は求めておられるのです。
先週、一人の姉妹の病床を訪れました。歌が好きで、若い頃、聖歌隊をしていた彼女は、わたしの目に、白いシーツで覆われたベッドの上で器具を装着され、虚しく横たわっていたわけではありませんでした。力は大分失われ、呼吸は苦しそうでした。しかし、わたしの目に、彼女は、神の御腕の中に委ねられている者、それは、安心して自分を任せる神の子どもの姿に見えました。「わたしも、そうなりたい。すべての人が、そうなってほしい」と思いました。勿論「死の床に伏せろ」と言っているのではありません。自分の力を捨てて「神の御腕の中に委ねられた者となりたい、なってほしい」と思ったのです。詩篇131編2節3節に「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」とあります。イエスさまは、今日言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と。これは命令です。主の命令です。命令です。それなのに、未だうずくまっているのですか。若者は起きました。主の命令は、命を与えます。それは、先週の百人隊長の話しの中でも言った通りです。命令とは「命を与える言いつけ」と書くのです。そして、実に「命令」と言われなくても、この「命」そのものが、その一字が、命令という意味を持っていることに気づくのです。命は、口と命令の令の字で構成されているからです。また「命」は、叩くという漢字が入ってもいるのです。だから、神が試練を与え、命を叩き、火で精錬された金のように輝かせてくださるということでもあるのです。また、その命を叩く音は、心臓の鼓動ということでしょうか。もしかしたら、心臓の鼓動は、神が私たちの命に触れ、ドアを叩くように私たちの命にノックし、私たちと、いつまでも共にいてくださろうとしているのかもしれません。ただ、今日の物語の中で、死んだ一人息子の命にイエスさまがノックされたことは、確かな事実です。そして、実に、それは、ヨハネの黙示録でも言われているのです。3章20節「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と。
ところで、今日の説教は『生命を与える主イエス』と題しましたが「命」ではなく「生命」です。その通り、この死んだ一人息子は、起き上がりましたが、それは、生命としての命を回復した。つまり、よみがえりはよみがえりでも、蘇生としての蘇りに過ぎません。それでも、この死人の復活は、驚きを通り越していますが、神の御業は、こんなもんじゃないのです。蘇りではなく、甦り、それは、更に生まれると書いた甦りだからです。それは、罪と死に支配された生命ではなく、蘇生したとしても、やがては必ず死に至る生命ではなく、罪の赦しが与えられた永遠の命です。このように、神の怒りを受け、断罪されるしかない私たちの命は、その神の怒りを受け、断罪された救い主イエスさまによって贖われたのです。この主イエスの御言葉に聞き従い、この肉体が、ただの肉体となることがないように、やがては栄光に輝く復活の体となるように、健全な魂を宿す者となりましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記