2017年07月30日

2017年8月6日 礼拝予告

〇教会学校
8月中はお休みです!

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「罪人のために」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙5章6節〜11節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます!!
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:29| 日記

2017年7月30日 主日礼拝説教「希望は欺かない」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙5章3節〜5節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙5章3節から5節の御言葉であります。改めて3節から4節の御言葉をお読みします。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
 キリスト教の「希望」とは何でしょうか。それは、一言で申し上げるならば、「神様に受け入れられること」であります。それでは、「神様に受け入れられるため」には、どうしたらよいのでしょうか。それは、「神様の目に相応しい者となること」です。
 しかし、パウロは、かつて、次のように記しました。「正しい者は一人もいない」と。ローマの信徒への手紙3章9節以下の御言葉であります。あるいは、3章23節で、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていた」とも記しています。
 人間には、「罪」があるのです。ギリシア人であろうと、ユダヤ人であろうと、日本人であろうと、人間は分け隔てなく、罪があるのです。どのような人間であろうと、罪に支配されているのです。そうである以上、全ての人間は、例外なく「神様の目には相応しくなかった」のだと言えるでしょう。
 しかし、神様は、神様と私達との間に、主イエス・キリストを立ててくださいました。そして、主イエス・キリストは、私達の罪のために死に渡され、私達が義とされるために復活させられました。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神様は、私達に救いの道を実現して下さったのであります。
 この主イエス・キリストと固く結ばれること。ここに信仰があります。そして、この信仰によって、私達は、生きるにしても、死ぬにしても、神様に受け入れられていくのであります。主イエス・キリストによって、あるいは、主イエス・キリストと結ばれていく信仰によって、神様の目に相応しい者とされていくのであります。ここに、キリスト教の示すところの「私達の希望」があるのです。どのような立場や状況に立たされていても、主イエス・キリストと結ばれている。ただ、その信仰によって、私達は、神様の目に相応しいものとされ、そして神様に受け入れられる存在へと導かれていく。ここにキリスト教の希望があるのです。
 しかし、キリスト教は、決して、「希望」だけを語る宗教ではありません。同じように「苦難」についても語ります。「苦難」を無視して、あるいは、「苦難」から逃避して、「希望」があるのだとは言いません。即ち、キリスト教は、「苦難」があることを包み隠すようなことはしないのです。
 人間は誰もが、「苦難」を乗り越えたいと願うものです。「苦難」から避けるために、宗教を受け入れる人もいるでしょう。あるいは、「苦難」から逃れるために信仰を持つ人も多いかもしれません。特に日本人の場合は、どちらかと言うと、御利益を求めた信仰者が多いのではないかと思います。「苦難」を遠ざけてくれる神様。「苦難」から助けてくれる神様。自分に利益をもたらしてくれる神様。このような神様こそ、信じるに価する。そのように考える人もいるだろうと思います。
 しかし、キリスト教は、決して「苦難」を否定しません。「苦難」があることを包み隠さず認めるのです。信仰者であろうと、「苦難」がある。「苦しいこと」がある。「悲しいこと」がある。その現実を認めているのです。これがキリスト教の特殊な面であると言えるかもしれません。
 では、キリスト教は、「苦難」をどのように見つめているのでしょうか。パウロの記した言葉に従って申し上げるならば、「苦難も誇り」なのです。この「誇り」は、「喜び」という意味もあります。つまり、「苦難」すら「喜び」の中に入れられているのであります。ここにキリスト教の持っている特殊な姿があると言えるかもしれません。「苦難」と「喜び」が、全く別の事柄ではないのです。キリストにあって−キリストと結ばれることによって、神様に受け入れられている幸いの中で−、私達は、果てしない大きな喜びの中で、苦難と向き合うことができるのであります。
 人間には、必ず「苦難」があります。信仰者にも「苦難」はあるのです。「苦難」は時に、私達の信仰を危うくすることがあるかもしれません。「苦難」の中で神様が見えなくなることがあるかもしれません。信仰が衰えてしまうことがあるかもしれません。神に見放されたのではないか。そのように悲しむこともあるかもしれません。
 しかし、このような深い苦難も実は、喜びの外にあるのではなく、大きな喜び、大きな希望の中に入れられているのであります。喜びの中で、苦難と向き合えるのであります。私達の受けている喜びとは、それほどまでに大きな喜びなのです。それが、キリストに結ばれた私達の幸いなのであります。
 パウロは続いて記しています。5節の御言葉です。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 苦難の中でも希望は失われません。どれだけ大きな苦難の中にあっても、神様の希望は、取り去られていないのであります。どれだけ苦しい局面に立たされていても、神様の希望は、決して、私達を裏切らないのであります。神様の与える希望や救いは、いかなる苦難よりも遙かに大きく、力強いものなのであります。
 なぜ、そのようなことが真剣に言えるのでしょうか。それは「苦難」の中でも「神様の愛」が聖霊によって注がれているからであります。この愛の注ぎに満たされて、私達は、苦難を迎えることができるのです。あるいは、この神様の愛に支えられて、私達は苦難を経験することができるのであります。苦難の中でも、神様が愛を注ぎ続けて下さる。愛をもって支え続けて下さる。
 だからこそ、「希望」が、私達を欺くことがない。そのことを改めて、確かにすることができる。希望を「更に確かなもの」とすることができる。苦難の中でも、神様の確かな愛に支えられ続けているからこそ、希望をますます確かにすることができる。その意味で、苦難は、大きな喜びや希望の中に位置づけられていくのであります。もし、苦難の中で、喜びを見出せないのであれば、それは、苦難しか見えていないからです。苦難の中で、それでも神様の愛は変わることなく与えられている。注がれている。その幸いに心を向けるとき、そこで初めて、希望の確かさに立ち帰る者へと導かれるのであります。
 この大きな恵みの中にあってパウロは、次のように語ります。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と。これだけを切り取って読むならばどうでしょうか。まるで「苦難」が、人を強くし、希望を確かにするのだから、苦難から逃げるな。そのような教えに読めてしまうかもしれません。諺で言うならば、「艱難汝を玉(たま)にする」−逆境は、人間を賢くする(孔子)−と言えるかもしれません。
 しかし、パウロがここで示していることは、そのような教えなのでしょうか。「苦難」は「人」を強くするのでしょうか。それは違うと思います。もし、私達が、苦難を忍耐できるとするならば、あるいは、それによって、練達し、希望を確かにすることが出来るとするならば、それは、どのような苦難の中にあっても、ここに神様の愛があることを知っているからでありましょう。神様の愛の内にいるからこそ、神様の愛に支えられているからこそ、苦難の中を立つことができるのであります。
 その意味で言うならば、「忍耐」とは、単なる「辛抱」ではありません。神様の愛に立ち続けることでもあります。「練達」もまた、単なる「熟練」とは違います。神様の愛に立って、いかなるものを捨てて−不純なものを取り払うことが練達−神様だけを見続けることです。神様の愛に立ち、神様を見続ける以上、希望は決して見失われないものです。いや、むしろ、苦難の中でこそ、神様の愛を益々、豊かに知る者とされ、希望を確かにすることができるかもしれません。
 苦難が人を強くするのではありません。苦難は、むしろ、私達の弱さを教えるものです。私達の無力さを知ることでもあるかもしれません。しかし、同時に、どのような苦難があっても、神様の愛が注がれていること、そして、そのことによって神様の希望が失われていないことを知ることができます。
 繰り返しになりますが、苦難の中で知ることは、私達の強さではありません。むしろ、私達の弱さでしかない。しかし、そんな弱い私達を包む、大きな愛を、苦難の中にあっても知ることができる。だからこそ、私達は、忍耐することができる。ただ神様の希望に思いを向け続けることができる。忍耐し、練達し、ますます希望を確かにすることができる。
 信仰生活は、喜びの連続とは限らないのです。悲しいことも辛いことも、苦難もあるのです。しかし、その苦難の中で、自分自身の無力さを知る時、そこにある神様の愛の深さを知り、そのことによって希望を失うことはないのです。
 神様は、今も、キリストによって、愛を示し続けています。皆様の中には、今、正に苦難の最中にいる人もいるかもしれません。しかし、苦難だけを見ていてはいけません。苦難の中で、しかし、神様の愛は、今も、注がれています。キリストによる愛は、いつも私達の心に刻みつけられています。大事なことは、この注がれたキリストにある神の愛に自らを委ねていくことなのであります。だから、苦難と闘うのではありません。ただ、神様の愛に身を委ねていきましょう。そして、その時、私達は忍耐を経て、練達されて、新たに、希望に向かって立ち上がることができるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:28| 日記

2017年07月24日

2017年7月30日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヨハネによる福音書1章14節〜18節
主題:「その独り子、我らの主イエス・キリスト」
※礼拝後、8月の誕生者祝福を行います。
※保護者の方々も是非、共に礼拝にお越し下さい。
※8月中の教会学校はお休みです。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙5章3節〜5節
主題:「希望は欺かない」須賀 工 牧師
※礼拝後、コーヒーブレイク、五分の集いを行います。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:35| 日記