2017年08月27日

2017年8月27日 主日礼拝説教「罪によって死が入る」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙5章12節〜14節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙5章12節から14節の御言葉であります。12節の御言葉をお読みします。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
 今朝の御言葉には、「一人の人」という言葉が出て来ます。「一人の人」とは、誰のことでしょうか。それは、創世記に登場する「アダム」です。即ち、「アダム」から、「罪」が世に入り、その「罪」によって「死」が、この世を支配するようになったのだと、ここで言われています。
 しかし、ここで気をつけなければいけないことがあります。それは、私達の罪と死の責任を、アダム一人に押しつけることはできないのだと言うことです。パウロは、ここで記しています。「全ての人が罪を犯したから、死は全ての人に及んだのだ」と記しています。つまり、アダムが問題なのではなく、アダムから始まった人間の罪が、まるで小石を池に投げたかのように波及し、この世界に生きる全ての人間が、罪の支配と死の支配のもとに生きるようになってしまったのであります。
 それでは、ここで言われている「罪」とは何でしょうか。アダムから示されていく全人類の罪とは、何でしょうか。ここで大切なことがあります。それは、決して、アダムの行いや人間の行いに注目してはいけないということです。即ち、アダムが禁断の果実を食べたことが「罪」なのだ、アダムの行為が、「罪」なのだと考えてはいけないということです。
 そこで、今朝の御言葉の13節から14節の御言葉を読んでみたいと思います。「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪を罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来たるべき方を前もって表す者だったのです。」
 ユダヤ人にとって、「救い」とは何でしょうか。それは、神様の掟−律法−を守ることによって、神様に受け入れられることです。逆に言います。ユダヤ人にとって、「罪」とは何でしょうか。それは、神様の掟−律法−を守らないことです。即ち、律法を守るか、守らないか。それが、救いか滅びかの基準となります。それを更に詳しく言うならば、神様の掟を守れば、罪には定められないということになります。それは即ち、神様の掟を守れば、罪に定められることも、死ぬこともないのだということです。
 これと同じことが「アダム」にも言えます。禁断の果実を食べたことが、「人類の罪」であるならば、禁断の果実を食べなければ、人類は罪に定められることも、あるいは、死に定められることもないということになります。つまり、「人間の力」によって、「罪の支配」、あるいは「死の支配」を食い止めることができるのだということになるのです。
 しかし、「律法」が授与される、遙か前から、「人は死に定められて」います。禁断の果実を食べなくても「人は死に定められて」います。つまり、律法があろうとなかろうと、禁断の果実を食べようと食べまいと、人間は、必ず、最後に死を迎えることになっているのであります。それは即ち、人間には人間の行いとは関係なく、逃れることのない「罪」があるのだということになるのではないでしょうか。
 私達はどうしても、「罪」と言う時、何か具体的な行いを想像します。しかし、聖書の示す「罪」とは、具体的な・目に見える人間の行いではなく、もっと内面的な出来事であり、目には見えない心の中の動きなのだということが、ここから示されていくのであります。
 主イエスもまた、マタイによる福音書5章27節以下で、次のように語っています。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じれている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者だれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」このように、「罪」とは、人間の現れた行いにあるのではなく、その心の中から始まることなのだと言うことでありましょう。
 そして、何よりも、全ての人が例外なく、死に向かって行く以上、全ての人の心の中には必ず「罪」があるのだということが分かります。それは即ち、人間の力では、死から逃れることも出来ないように、罪から逃れることが出来ないのだということでもあるのです。それが、ここで強調されていくことではないかと言えるのであります。
 それでは、最初の問いに戻ります。つまり、アダムから示される全人類の罪とは何でしょうか。そもそも、アダムはなぜ、禁断の果実に手を出したのでしょうか。蛇に誘惑されたからです。蛇はどのように誘惑したのでしょうか。「食べれば神のようになれる」と誘惑しました。そして、アダムは、それを求めて禁断の果実に手を出したのであります。
 つまり、アダムの罪、全人類に及ぶ罪とは何でしょうか。「神のようになりたい」という心であります。自分が世界の中心になるのだという心であります。神様の御心よりも、神様の御支配よりも、自分が中心でありたい。そういう心です。
 そして、もう一つ、決定的な罪があります。それが、今朝の旧約聖書の御言葉、創世記3章12節の御言葉です。「アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」アダムが犯した決定的な罪。それは、自分の罪を認めず、女のせいにし、神様のせいにしたこと。つまり、自分の罪を認めるのではなく、自分の正しさを申し立て、責任転嫁をしたということです。
 アダムから教えられる人類の罪がここにあります。即ち、神様よりも自分を中心とし、自分の正しさを貫こうとする心。そして、その罪を認めず、自分の正しさに固執したこと。ここに人類の普遍的な罪がある。そして、その罪の先に滅びがあるのです。
 このように、人間の罪を見直した時、あるいは、自分自身の生活を見つめ直した時、私達は、決して、罪とは無関係ではないという事実と向き合うことができるかもしれません。私達もまた、生活の中にあって、自分を中心とすることがあるかもしれない。神様よりも、自分自身を世界の真ん中に置き、自分の正しさや自分の意志を貫こうとしてしまうことがあるかもしれない。その意味で、私達は正に罪人であり、滅びに至る存在であると言えるでありましょう。
 私達は、このような悲惨な現実に気づかないほどに、罪の闇の中にいるのかもしれません。あるいは、それを認められないほど、闇の中で安住しているのかもしれない。いや、人間の罪とは、そのように私達の気づかぬ間に、私達を支配するものではないかと思うのであります。実際に、私達は、アダムから教えられる罪を、何度も繰り返し行っている。それほどまでに、罪に対して盲目なのかもしれません。
 しかし、そのような悲惨な人間の罪の歴史と現実の只中に、主イエス・キリストが現れていくのであります。アダムを通して示される罪の現実の中に、主イエス・キリストが来て下さる。そして、その罪を背負い、死んで復活される。このキリストに結ばれていく時、全ての人が、例外なく、罪を越え、死を越えていくことができる。ここに、キリスト教の福音があるのです。私達は、このキリストの十字架を通して、私達の内にある罪に気づかされます。しかし、同時に、キリストによって、罪と死に勝利した幸いを知る者とされています。
 アダムから始まる罪は、私達には見えにくい罪の現実かもしれません。そうでなければ、この世界で罪が繰り返されることはないでありましょう。あるいは、私達も又、罪を繰り返すこともなかったかもしれません。私達が、罪を繰り返していくのは、私達が、罪に対して目を閉じているからでありましょう。
 しかし、その罪がはっきりと見えるようになるのです。それが、キリストの十字架であります。あの十字架を見上げた時、私達は、アダムから始まる、全人類の罪の現実に、はっきりと気づかされていく。あの十字架が、私のための十字架であると信じる時、私達の罪の悲惨さや痛みを、心から味わうことができる。アダム以来の罪をはっきりと認識することができる。何度でも、何度でも、私達は、自分たちの存在の根本にある罪の現実に気づかされていく。アダムによって罪を知ることができます。しかし、来たるべき方によって、その罪が、私の罪としてはっきりとさせられていく。それが、今朝の御言葉の最後に込められた言葉ではないかと思うのであります。
 ただ、私達は、決して、罪を知るだけでは留まりません。キリストの十字架の内に、私達の罪を知ります。しかし、そこでこそ、この私の罪が、キリストによって担われていることも知ることが出来る。この私が受けるべき罰と滅びを、キリストが負っていてくださることを知ることが出来る。十字架の前で、罪を知る時、既に、この私が救われ、愛され、罪赦され、死を越えて、神の子とされていることを知ることができるのであります。
 私達は、キリスト者とされました。キリストによって救われ、キリストと結ばれることによって、罪から解放され、死の滅びから救われました。しかし、私達は、この地上にある限り、死へと向かいます。キリストに救われても、死を意識しながら、あるいは罪を意識しながら生きるものであります。
 しかし、私達は、この絶望に留まることはありません。私達が、死を心から恐れるのは、私達が既に、自分の罪を知っているからであります。そして、私達が自らの罪を知っているということは、私達は、もう既に、キリストの十字架の死と復活のうちに、生きている証拠であります。私達は、いつでも、キリストの救いの光の中で、死を見つめ、罪を見つめます。しかし、その光の中で、何度でも立ち上がり、主に向かって歩み出すことができるのです。その幸いこそ、私達キリスト者に与えられた大きな恵みではないかと言えるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:12| 日記

2017年9月3日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」
聖書:マルコによる福音書16章19節〜20節
※礼拝後、今月の誕生者を覚えて祈りを捧げます。
※礼拝後、絵本の読み聞かせがあります。
※保護者の方々もぜひお越し下さい。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「救いは一人の御方から」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙5章15節〜17節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:10| 日記

2017年08月21日

2017年8月27日 礼拝予告

〇教会学校 8月中はお休みです。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「罪によって死が入る」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙5章12節〜14節
※礼拝後、五分の集い、コーヒーブレイク、青年会例会があります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:50| 日記