2017年10月31日

2017年11月5日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ローマの信徒への手紙3章21節〜26節
主題:信仰のみ
※礼拝後、誕生者祝福の祈りを捧げます。絵本の読み聞かせもあります。
※保護者の方々もぜひ、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙7章1節〜6節
主題:「神に対して実を結ぶ」須賀 工 牧師
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びの会があります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し挙げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:20| 日記

2017年10月29日 主日礼拝説教「永遠の命に与る」須賀 工牧師

聖書:ローマの信徒への手紙6章15節〜23節

 今朝、私達は、永眠者記念礼拝を迎えています。過ぐる日、主の御下へと召されていかれた信仰の先達たちの面影を偲びつつ、また、ご遺族・近親の方々の慰めを祈りながら、改めて、「信仰者として生きるとは何か」、あるいは「信仰者として主の御下に召されていくとは何であるのか」、そのことに思いを共に馳せていきたいと思います。
 まず、「信仰者として生きる」とは何でしょうか。今朝の御言葉の16節以下をお読みします。「知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」
 「キリスト者として生きるとは何でしょうか」。それは、一言で申し挙げるならば、「神様の奴隷になるということ」です。「神様のものにされるということ」でもあります。
 「神様の奴隷であるということ」。それは、どこか不自由な気持ちにさせられるかもしれません。しかし、違う視点で申し上げるならば、私達は、神様以外のものに対しては、「自由」であり、「束縛」されていないのだということです。あらゆる地上に属するものから自由にされている。地上の何ものにも捕らえられていない。それが、神様の奴隷であると言うことの意味でありましょう。神様の御手の中で、私達は、全てのものから解き放たれて自由に生きることが許されている。神様の御手の中にあって、私達は、それ以外のものに対しては、自由な意志をもって生きることが許されている。それがキリスト者として生きることの幸い。今、私達は、その恵みの中で生きている。そして、信仰の先達たちもまた、その幸いの中を生きるものとされていたのであります。
 いや、神様にも縛られないことが本当の自由ではないか。そう思われる方もいるかもしれません。それは違います。神様の御手から離れた自由は、神様に対して自由であっても罪に対しては奴隷なのです。そして、罪の奴隷である以上、その行き着く先は、「死」なのだと言われています。死によって限界付けられた自由が、本当の自由であると言えるのでしょうか。
 それでは、神のものとされた人が受ける自由とは、どのような広がりをもった自由なのでしょうか。22節から23節の御言葉をお読みします。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
 信仰者が行き着くところはどこなのでしょうか。それは、「永遠の命」であります。最後は「死」で終わらない。死から解放された命。死を越えた命。死に縛られない命。信仰者が受ける自由とは、死すらも縛ることのない自由なのであります。
 私達もまた、かつては、罪の奴隷であったと言われています。罪に捕らわれていたのです。罪に支配されていたのです。そして、やはり、その行き着く先には「死」「滅び」しかありませんでした。そのように、今朝の御言葉は示しています。私達は、かつては、そのような絶望の中を生きるものだったのであります。
 しかし、今は違うのです。今は、「罪の奴隷」から「神の奴隷」とされているのです。私達の人生を支配する主人が替わっているのです。罪の奴隷であった私達が、新しい主人−主なる神−のものとされるのであります。
 新しい主人が、奴隷を得るためには、それ相応の支払いをしなければいけません。神様が、罪に対して支払った代償は何であったでしょうか。それが、御子イエス・キリストの命でありましょう。御子の命を支払いに用いられた。それほどまでに、私達は、価値あるものとされている。それほどまでに、私達は、神様に愛されている。
 私達がキリスト者として生きるということは、ただ、神様の御手の中で自由に生きることではないのです。神様に愛され、神様に価値あるものとして受け入れられていることを知りながら生きることであります。御子を惜しみなく捧げてしまうほどの、深く、広い、神様の愛を強く味わいながら生きるということでありましょう。これがキリスト者の生涯でありましょう。今、私達は、その恵みを深く味わいながら生きるのであります。信仰の先達たちもまた、その恵みを味わいつつ、その喜びに満たされながら、キリスト者として生きたのであります。
 しかし、キリスト者であっても肉体は滅び、死んでいきます。死から逃れることはできないのが私達の現実であります。
 しかし、そこで改めて思いを向けたいことがあります。即ち、今や、「死の意味」そのものが、キリストによって変わっているのだということであります。即ち、私達にとって「死は終極ではない」のだということです。死を越えて、永遠の命がある。キリストが死んで復活し、死を越えていかれたように、私達もまた、死に勝利するのであります。この勝利を、賜物として、私達は与えられているのであります。
 かつては、単なる滅びとしての死に属するものであったのです。しかし、今、キリストによって買い取られた私達は、神様のものであり、永遠の命に属するものとされている。 「キリスト者として召されていく」とは、何でしょうか。それは、ただ肉体が滅びることを意味しているのではないのです。死の意味が、絶望として定義されなくなるのであります。キリストによって、罪と死から解放され、神様の目に相応しい存在として受け入れられ、そして、神様のものとして、神様の御手の中で、永遠の平安と復活の希望を見出しながら憩うこと。ここに私達キリスト者が召されていくことの何たるかがあるといえるのでありましょう。
 過ぐる日、召されたる聖徒たちは、この恵みの中で平安の内に、神様の御手の中で生かされています。私達も又、この平安に希望を抱いて、今を得ています。私達は、天と地にあって、同じ希望と恵みと平安を知るものとして、いつも繋がっているのではないでしょうか。
 私達が、今、目の前にしている信仰の先達たちの姿は、今、そのような深い慰めと平安の中に置かれているのであります。それを、今を生きる私達が、今、思い起こさせていただくのです。そして、私達が天と地にあって、同じ希望に生き、同じ信仰でつながり、同じ礼拝で結ばれていることを改めて、思い起こさせるところにこそ、今朝の礼拝の深い恵みがあるのではないかと思うのであります。
 代々の聖徒と共に信徒信条を告白するのは、天と地が、信仰によって、礼拝によって繋がっていることを意味している。天の御民と地にある民が、礼拝の最後に主を賛美できるのは、私達が、天と地で離ればなれではなく、いつも主にあって交わっていることを意味している。わたしたちは、天にあっても地にあっても、同じ主のものであり、同じ希望と平安の中に生きるものとされている。改めて、キリスト者として生き、キリスト者として召されていくことを思い起こし、希望を新たにするものでありたいと思います。
 そして、この幸いを新たに心に留めつつ、復活の時、また、再び、お互いにまみえる時を待望しつつ、主が再び来たる終末の時を祈りをもって待ち望みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記

2017年10月24日

2017年10月29日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「キリストのみ」
聖書:ヘブライ人への手紙7章26節〜28節
※礼拝後、分級があります。
※保護者の方々も是非、共にお越し下さい。

〇主日礼拝(永眠者記念礼拝) 10時30分〜
主題:「永遠の命に与る」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙6章15節〜23節
※信仰の先達の面影を偲びつつ、礼拝を捧げます。
※礼拝後、五分の集い、墓前礼拝を行います。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:28| 日記