2017年11月27日

2017年12月3日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:ヨセフへのお告げ」
聖書:マタイによる福音書1章18節〜25節
※礼拝後、誕生者の祝福の祈りを捧げます。絵本の読み聞かせもあります!
※保護者の方もぜひ、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「だれがわたしを救うのか」 須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙7章15節〜25節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:08| 日記

2017年11月26日 主日礼拝説教「罪が正体を現す」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙7章13節〜14節
 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙7章13節から14節の御言葉であります。13節の御言葉をお読みします。「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」
 ここで言われている「善いもの」とは何でしょうか。この文脈から申し上げるならば、それは「律法」であります。それでは、「律法」とは何でしょうか。先週のお話から申し上げるならば、それは、「神様の御心」あるいは「神様の御言葉」であります。
 「律法」が、「神様の御言葉」であるならば、勿論、悪いものではありません。むしろ、「律法」は「善いもの」であり、信じる者を神様の民として、豊かに生かすものであります。例えば、詩編119篇には次のような言葉があります。「あなたの仰せ(律法)を味わえば/わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。」「あなたの御言葉(律法)は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯火。」「主の御言葉(律法)のとおり/命を得させてください。」
 このように、「律法」とは、決して悪いものではありません。むしろ、信仰者に生きる目的や希望、光や命を与えるものです。あるいは、決して厳しい言葉ではなく、むしろ、私達を和ませる甘い言葉なのです。だからこそ、「律法」は、決して悪いものではなく、むしろ、善いものなのです。
 しかし、今朝の御言葉には、次のようにも記されています。「実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」
 本来、私達を生かすはずの「律法」が、私達を殺すものとなってしまうのです。本来、命をもたらすはずの「律法」が、いつの間にか「死刑判決」の言葉になってしまうのです。本来、私達と神様を結ぶはずの御言葉−律法−が、私達を神から引き離す言葉になってしまうのであります。
 なぜでしょうか。律法を通して、「罪」が正体を現すからであります。律法を利用して、罪が、その邪悪な正体を明らかにするからです。もう少し砕いて言います。律法を通して、私達は、自分の罪の邪悪さを知ることになるということです。律法を通して、この自分が、神様の前で生きる価値がないほどに罪深い。死せるものでしかない。そういう者であることを知ることになるということなのです。ここで言おうとしていることは、そのようなことなのであります。即ち、罪の邪悪さは、私達が神様の御心に触れることによって、より一層、はっきりと明らかにされていくのだということなのです。
 このように、神様の前で、人間を躓かせ、傷つけ、痛めつけ、そして、最後には信仰を捨てさせ、滅ぼす。そのところにこそ、罪が自らの正体を明らかにする目的があると言えるのかもしれません。
 先ほどの詩編51篇5節から6節を改めてお読みします。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。」
 「律法」とは、神様の御心です。いや、正確に申し上げるならば、「律法」とは、神様の「正しい御心」です。この律法に生きる時、私達は、自分の罪に気付かされる。神様の正しい御心の前では、自分の罪しか見出せないのです。この世でどのような善人であったとしても、あなたの−神様の−正しさの前では、あなたに罪を犯した自分しか見えてこないのです。律法を通してでは、救いではなく、罪の邪悪さや恐ろしい裁きしか見えてこないのです。これが人間の本質なのだということなのです。
 14節の御言葉をお読みします。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。」
 「律法」は、本来「霊的なもの」なのです。「霊的」とは何でしょうか。「霊的」であるということは、「神様のもの」であるということを意味しています。「神様に属しているもの」とも言えるかもしれません。それが、本来の「律法」の姿なのです。
 しかし、律法に生きる私達が「肉の人」なのです。罪に支配された人なのであります。だから、私達がどれだけ努力をしたとしても、律法に生きられない、いやむしろ、邪悪な罪深い自分しか見えてこないのであります。私達の本質が肉的であり、罪に満ちている以上、律法から救いを見出すことはできない。むしろ、神の御心の前で砕かれていくだけの弱い自分しか見えてこないのであります
 しかし、私は、私達が、この不可能性に立つ事が大切ではないかと思うのです。この不可能性に立つ時にこそ、救いの可能性がどこから来るのかを知るものとされるのではないかと思うのです。神様の御心に触れ、自分の罪に気付かされる人だからこそ、救いがどこからくるのか、救いは何であるかに気付けるのではないかと思うのです。神様と真剣に向き合わない人は、そもそも罪に気付かないでありましょう。だから、救いも分からないままになってしまうのではないかと思うのです。
 先ほどお読みした詩編51篇もまた、神様の正しさの前で、自分の罪に押しつぶされていく現実を経験しながら、それで終わっていくのではなく、最後の最後には、救いは神様から来るのだと確信し、主の下に立ち帰っていく。そのような詩人の姿を描いています。
 私達は、今、自分たちの不可能性に立っています。神様の御前で礼拝を捧げ、神様の御言葉に触れ、神様の御心に触れ、そのことを通して、自らの罪に改めて気付かされ、自分の弱さや至らなさに気付かされただろうと思います。
 しかし、改めて、主イエス・キリストを、その闇の中で思い起こすものでありたい。かつて主イエス・キリストは、仰せになりました。「人に出来ないことも神にはできる」と。人間の不可能性を越えて、神様は救いを可能としてくださるのです。
 あるいは、かつて、詩編の詩人は、次のように歌いました。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」詩編121篇の御言葉です。救いは、どこから来るのでしょうか。人の力でしょうか。人は皆、罪の支配の中にいます。では、「救い」はどこから来るのでしょうか。「神様のもとから来る」のです。「神様が救いを実現させる」のです。
 神様は、人間を見捨てないのです。人間の無力さを嘆かないのです。御子イエス・キリストに罪を背負わせ、御子の命と引き替えに、私達を罪の支配から買い取ってくださる。それほどまでに、私達は神様に愛された、神様に結ばれた大切な存在なのです。
 人は、律法によっては救われません。律法からは、罪しか見出せないからです。それが、罪の目的でもあります。しかし、そこで罪は失敗をしました。いや、やはり、神様の愛の力は、罪の支配よりも遙かに強いのかもしれません。なぜなら、その罪の闇の中でこそ、私達は、神様の救いの可能性と出会うからです。
 今日は、終末主日です。一年で最後の礼拝となります。来週から、主を待ち望むアドベントが始まります。私達の救いが、私達の内側からではなく、私達の外から、神様の下から実現する。その日を共に待ち望みます。その主の御降誕に向けて、それぞれが、神様と向き合い、自らの罪を明らかにされながらも、しかし、同時に、その闇の中でキリストがお生まれになったのだということを、改めて心に刻みつつ、アドベントへと向かって行くものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:04| 日記

2017年11月22日

2017年11月26日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「教会・・・キリストの体」
聖書:エフェソの信徒への手紙1章20節〜23節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「罪が正体を現す」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙7章13節〜14節
※礼拝後、教会大掃除が行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:07| 日記