2017年12月24日

2017年12月24日 主日礼拝説教「救い主の誕生」須賀 工 牧師

聖書:ルカによる福音書2章1節〜7節

 今朝、私達は、2017年のクリスマスを迎えています。このようにして、多くの方々と共に、クリスマスの恵みに与れますことを心より感謝するものであります。
 ただし、このような喜びに対して、様々な事情で、礼拝に来ることができなかった友、家族、そして、兄弟姉妹がいることも覚えたいと思います。一人一人の内に、クリスマスの恵みと祝福が豊かに与えられますことを、心よりお祈り申し上げます。
 今年のクリスマスに向けて、教会では、様々な準備がなされてきました。アドベントの準備がありました。聖歌隊の練習もありました。教会学校のクリスマスの準備もありました。この礼拝のための準備もありました。特に、今年は、帝人姉妹が、聖歌隊に参加することが出来ました。なかなか、教会に来て練習ができなかった姉妹は、聴くところによりますと、ご自宅で讃美歌の練習を積み重ねてきたのだと言われました。
 このように、見えるところだけではなく、見えないところで、救い主の誕生を迎えるための準備がなされてきました。祈りをもって備えた人もいれば、アドベントの礼拝ごとに心の備えをした人もいるかもしれません。クリスマスを迎えるために、本当にそれぞれが、それぞれの出来る備えをしてくださった。そのことを改めて感謝したいと思います。
 このような感謝と喜びを深く、心に留めながら、改めて、世界で最初のクリスマスの物語に思いを馳せていきたいと思います。
 今朝の御言葉の1節から3節の御言葉をお読みします。「そのこと、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅だった。」
 「皇帝アウグストゥス」とは、一体誰でしょうか。彼は、ローマ帝国における最初の皇帝であると言われた人物です。つまり、歴史上の偉人が、イエス・キリスト誕生物語の最初に登場するのです。
 それでは、この1節から3節は、一体、何が言いたいのでしょうか。それは、「ユダヤの国」が、「ローマ帝国によって支配されていたのだ」ということを言いたいのです。
 そもそも、何のために「住民登録」をさせるのでしょうか。国民を管理するためであります。その管理責任者が、ローマ帝国なのです。つまり、ローマ帝国によって、ユダヤの人々は管理され、支配されていたということが、ここで強調されていることなのであります。
 主イエス・キリストが、お生まれになった時代、そこは、神が人を支配するのではなく、人が人を支配する世界だったのです。人が人を支配する世界。言い換えるならば、人が中心となる世界。その世界の中にあって、御子イエス・キリストが、救い主としてお生まれになったのであります。
 それでは、人が中心となる世界とは、どのような世界なのでしょうか。今朝の御言葉の7節をお読みします。「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
 人が中心となる世界とは、一言で申し上げるならば、「救い主に宿を与えない世界」なのです。もう少し言い方を変えて申し上げるならば、「救い主を迎えられない世界」とも言えるかもしれません。それが、「人中心の世界」なのであります。救い主を必要とせず、神様を必要としない世界。それが。「人中心の世界」なのです。
 しかし、これは、決して、私達と無関係ではないかもしれません。私達の心もまた、自分中心の世界が広がっているかもしれません。自分を中心とし、神様や救い主を必要としていない心があるかもしれない。あるいは、そういう心があっても、自分にとって、都合の良い神様や救い主を望んでいるかもしれない。そう考えるならば、この世界的な出来事は、今の私達の心の内にも起きていることなのかもしれません。
 しかし、神様は、そのような世界の中に、救い主を与えて下さった。同じように、そのような私達の心の内にも、救い主を与えて下さる。人間を滅ぼし、罰するためではなく、そのような闇の中にこそ、救い主の光を与えて下さる。これがクリスマスの大きな恵みなのであります。
  今朝の御言葉の3節から6節をお読みします。「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅だった。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、」
 イエス・キリストは、どのような御方として、お生まれになられたのでしょうか。まず、イエス・キリストは、マリアとヨセフの間に生まれた。即ち、一人の「人間」としてお生まれになりました。私達と同じ人間となって、神の御子はお生まれになられたのです。神の御子は、私達と遠い存在ではありません。私達と近い存在として、私達人間の全てを知っておられる一人の人間として、お生まれになってくださった。これが、イエス様であります。
 しかし、イエス・キリストは、単なる人間ではありません。真の人でありながら、真の神に属する御方です。5節には、次のように記されています。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」
 聖書を知っている方、あるいは、信仰を持っている方であるならば、この言葉には大きな矛盾があることに気づかれるかもしれません。当時のユダヤ教の律法によれば、「いいなずけが身ごもる」ということはありえません。もし、これが事実であるならば、婚前交渉をしたことになります。当然、マリアは、「姦淫罪」によって「死刑」を受けることになりますから、住民登録は愚か、人前にさえも出てこれないはずでありましょう。
 つまり、ここで何が言いたいのでしょうか。マリアは、罪を犯すことなく、主イエスを身ごもったのだ、ということが言いたいのです。少し言い方を変えるならば、人の手を借りることなく、主イエスを身ごもったのだということです。
 では、誰の手を借りて、主イエスを身ごもったのでしょうか。神様の御手によって、主イエスを身ごもったのであります。私達の信仰告白−使徒信条−に基づいて言うならば、「聖霊によって処女マリアのうちに、イエス様は宿られた」のです。人間の手を借りることなく、ただ、神様が救いのために働いて下さった。救い主を与えて下さった。そのような意味で、正に、主イエスは、ただの人ではないのです。真の人ではあるけれど、真の神による存在。それが、私達の主イエス・キリストなのであります。
 私達は今、主イエスについて二つのことを知りました。主イエスが、真の人であるということ。そして、主イエスは、真の神であるということ。真の人、真の神として、主イエスは、お生まれになったのです。
 しかし、もう一つ、大切なことを付け加えておきます。主イエスは、真の人、真の神として生まれました。しかし、それは、決して、人間の作り上げた伝説ではありません。この出来事は、あくまでも、神様のご計画の一つであります。
 旧約聖書のミカ書5章1節によれば、救い主は、ダビデの町ベツレヘムで生まれるのだと言われています。つまり、イエス様が、ベツレヘムで生まれたのは、偶然ではなく、必然なのだということです。いや、全ては、神様のご計画なのだということです。
 先ほどの3節から6節を読んで、違和感はなかったでしょうか。恐らく、マリアもヨセフも自分たちが、生活をしていたガリラヤで、子どもを産みたかったのかもしれません。
 ところが、6節にも示されているように、「ところが」人間の計画通りにならずに、ベツレヘムで生まれた。なぜでしょうか。神様の預言、神様の計画が成就するためであります。主イエスが真の救い主として生まれたからであります。
 このように、真の神、真の人なるイエス様は、人間が作り上げた伝説の人物なのではなく、神様が約束し、神様が計画されていた通りの、救い主であったということ。それが、今朝の御言葉から強く示されていくのであります。もう少し、砕いて言うならば、救いとは、人間の計画や逸話からではなく、神様の現実的な、具体的な働きによって与えられるものなのだということ。それが、ここで示されていることなのであります。
 では、真の人、真の神として、イエス様が生まれたのは、何のためでしょうか。どうして、救い主は、真の人、真の神として生まれる必要があったのでしょうか。それは、神と人を結ぶためであります。神と人の仲介に立つためであります。神と人とを和解へと導くためであります。そのために、真の人、真の神でなければいけなかったのであります。
 人間が中心となる世界は、神と人との関係が断ち切られていた世界とも言えるかもしれません。しかし、その破れを修復するためには、神の側に立ち、かつ人の側にたてる存在である必要があったのであります。それが、主イエス・キリストなのであります。
 そして、その主イエス・キリストは、最後に、十字架をもって、神と人を結びます。御自身が命を捧げることで、人の罪の犠牲となり、それが神様との和解となった。神と人とを、命がけでつないでくださった。その幸いを、改めて深く心に留めていくものでありたいのです。
 この恵みは、決して2000年前の歴史の出来事ではありません。救い主がお生まれになったのは、今、ここに生きる、わたしのため、あなたのためであります。どうか、この幸いを強く受け止め、この救いの恵みを自分の恵みとして味わって頂ければと願うものであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:07| 日記

2017年12月18日

2017年12月24日 礼拝予告

〇教会学校 −休会− ※24日、31日は休会です。次回は1月7日です。

  23日(土)10時より、教会学校のクリスマス礼拝を行います。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「救い主の誕生」須賀 工 牧師
聖書:ルカによる福音書2章1節〜7節
※礼拝後、写真撮影、クリスマス愛餐会があります。

〇イヴ礼拝 19時〜
主題:「星に導かれて」須賀 工 牧師
聖書:マタイによる福音書2章1節〜12節

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:54| 日記

2017年12月17日 主日礼拝説教「神の霊を受けて生きる」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章5節〜11節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章5節〜11節の御言葉であります。
 5節の御言葉を、改めてお読みします。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」
 「キリスト者とは、一体何者でしょうか」。端的に言うならば、「キリスト者」とは、キリスト教の信仰を受け入れ、信仰を公に告白した人、あるいは、「洗礼」を受けた人のことを指しています。
 しかし、「洗礼」は、単なる入会儀礼ではありません。「洗礼」は、「私達」と「主イエス・キリスト」を一つに結びつけます。そして、キリストと一つになった私達は、罪を赦され、清められ、神様の目に相応しいものへと導かれます。
 つまり、私達は、洗礼を通して、キリストと一つになることで、「キリストのもの」となり、そして、同時に「神様のもの」として新たに生きることになるのです。ここに、キリスト者の姿があります。そして、ここに私達の姿があります
 しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。それは、決して難しいことではありません。それは、キリスト者になった以上、キリスト者としての新しい生活が始まるということです。これを忘れてはいけないでしょう。キリストと一つになった以上、キリストのものとして、あるいは神様のものとしての新しい生活が始まるのであります。
 それでは、新しい生活とは、どのような生活でしょうか。それが、「霊的な生活」であります。「霊的な生活」とは、どのような生活でしょうか。「神の霊、キリストの霊に支配された生活」とも言えるかもしれません。あるいは、更に砕いて言うならば、「神様を中心とした生活」とも言えるだろうと思います。ここに、私達キリスト者の生活があります。そこに「中立」はありません。半分霊的、半分肉的という生活はないのです。キリストのものである以上、私達は、神様の霊に支配されて生きている。神様によって支配されて生かされているのであります。
 それでは、「聖霊に支配された生活」には、何があるのでしょうか。ローマの信徒への手紙5章5節以下には、次のように記されています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」。聖霊に支配された生活。それは、神様の愛を注がれ、キリストの愛を受けて生きる生活であると言えます。自分が、愛されていることを知っている生活であります。その幸いが、私達キリスト者の内に与えられているのであります。
 では、反対に、「肉に属する生活」とは、どのような生活なのでしょうか。6節から8節をお読みします。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」
 「肉の思い」とは、言い換えるならば、「罪に支配された心」とも言えるかもしれません。どれだけ、偉大な人であっても、どれだけ、神様を愛し、神の教えを知っていても、キリストと一つでなければ、肉なる人です。そして、その人は、例外なく神の敵であり、神の御心に適うことありません。よって、「神に喜ばれることはない」のであります。だから、その先には、死の滅びしかない。人間の目には、どれほど偉大な人物として見えていても、キリストと結ばれていない人は、肉なる人でしかない。神の御言葉に従い得ない存在なのだと、ここで示されているのであります。
 このことを深く踏まえた上で、それぞれの信仰生活を省みたいと思います。私達は、霊的な生活を送っているでしょうか。肉的な生活を送っていないでしょうか。神様を中心とした生活から離れ、自分を中心とする肉的な生活に身を委ねていないだろうか。自らの心を深く省みるならば、なんだか恐ろしい気持ちに支配されるように思います。
 しかし、聖書の御言葉は、さらに次のように続いています。9節から10節をお読みします。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがは肉ではなく、霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても“霊”は義によって命となっています。」
 私達がどのような信仰生活にあっても、私達がどのような現状にあったとしても、わたしたちの内に、神様の霊は宿っているのだと言うのです。「〜かぎり」という言葉は意訳です。本来は、「私達の内に宿っているものだ」というポジティブなニュアンスが強いとされています。肉的な生活にあっても、「あなたがたが神の霊を宿している限り、大丈夫だよ」という意味が強いのであります。
 つまり、私達の信仰生活が、肉的な方向に向かって行く、そのような絶望の只中であっっとしても、厳密に言うならば、私達から、神様の霊が取り除かれていないのだということです。どれだけ、私達の罪が深いものであったとしても、神様の霊が、取り除かれるほど、神様は弱くないということであります。神様の霊的な力は、人間の罪を越えて強いものなのだということであります。たとえ、私達が不義なる者に向かっていったとしても、あなたがたの内には、神の霊が生きている。キリストの霊が生きている。その霊によって義とされ、命を受けている。この計り知れない深い憐れみが、ここに示されていると言えるのではないでしょうか。
 だからこそ、大事なことは、神様の愛に甘えて、「罪を犯してもよい」と言うのではありません。この深い恵みや憐れみ、そして、計り知れない愛に立ち帰り、霊的な生活に思いを向け直して生きていること。私の内には、神の霊が宿っている。私の内には、神様御自身が生きておられる。その幸いに立ち帰り続けていくこと。これが、信仰生活の中で、とても大切なことなのではないかと思うのであります。人間は、失敗の多い存在です。しかし、失敗しても、なお、私達は立ち帰ることができる。神が支配する生活とは、そのような幸いありきの生活なのではないかと思うのであります。
 今朝の御言葉の11節をお読みします。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
 私達が、どれだけ強く、主イエス・キリストと結ばれていても、私達の人生は、いつか死に向かって行きます。それでは、「死」をもって、私達は、神様から離れるのでしょうか。
 私達が結ばれている御方は、「復活のキリスト」であり、「キリストを復活へと導いた神様」です。私達と結び付いているのは、「死を越えたキリスト」と「永遠なる神様」です。その御方と霊的に結ばれ、そして今を得ている。それが、私達であります。
 だから、私達の生は、死をもって終わらない。神様との関係も、キリストとの結び付きも、あるいは、神様の愛からも、私達を引き離すものは何もない。たとえ、死であっても、私達と神様を引き離すことはない。
 なぜなら、キリストによって、神が、私達の内に強く臨んでいて下さるから。永遠なる方と結ばれているから。だから、死すらも、神様と私達を引き裂くことができない。この深い恵みを何度も味わい尽くせるところに、キリスト者の幸いなる生活があり、私達の立つべき信仰があるのです。
 私達は、今、クリスマスに向かって歩みを進めています。羊飼いたちに対して、天使達は、次のように語ります。「あなたがたのために救い主は生まれたのだ」と。羊飼いは、神様から遠く隔てられた人たちです。私達も同じです。罪の故に、肉の故に、神から遠く隔てられた存在だった。
 しかし、その「私達のために救い主は生まれた」。何のためにか。私達と神様とを固く結びつけ、死を越えてもなお、共に生きるために。私達は、今、その幸いを得ています。そして、その幸いは、死をもってしても、変わることはないのです。
 その恵みを改めて、このアドベントの時に思い起こしたい。そして、悔い改めをもって、主を待ち望むクリスマスへと向かって心の備えをなすものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:49| 日記