2017年12月18日

2017年12月24日 礼拝予告

〇教会学校 −休会− ※24日、31日は休会です。次回は1月7日です。

  23日(土)10時より、教会学校のクリスマス礼拝を行います。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「救い主の誕生」須賀 工 牧師
聖書:ルカによる福音書2章1節〜7節
※礼拝後、写真撮影、クリスマス愛餐会があります。

〇イヴ礼拝 19時〜
主題:「星に導かれて」須賀 工 牧師
聖書:マタイによる福音書2章1節〜12節

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:54| 日記

2017年12月17日 主日礼拝説教「神の霊を受けて生きる」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章5節〜11節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章5節〜11節の御言葉であります。
 5節の御言葉を、改めてお読みします。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」
 「キリスト者とは、一体何者でしょうか」。端的に言うならば、「キリスト者」とは、キリスト教の信仰を受け入れ、信仰を公に告白した人、あるいは、「洗礼」を受けた人のことを指しています。
 しかし、「洗礼」は、単なる入会儀礼ではありません。「洗礼」は、「私達」と「主イエス・キリスト」を一つに結びつけます。そして、キリストと一つになった私達は、罪を赦され、清められ、神様の目に相応しいものへと導かれます。
 つまり、私達は、洗礼を通して、キリストと一つになることで、「キリストのもの」となり、そして、同時に「神様のもの」として新たに生きることになるのです。ここに、キリスト者の姿があります。そして、ここに私達の姿があります
 しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。それは、決して難しいことではありません。それは、キリスト者になった以上、キリスト者としての新しい生活が始まるということです。これを忘れてはいけないでしょう。キリストと一つになった以上、キリストのものとして、あるいは神様のものとしての新しい生活が始まるのであります。
 それでは、新しい生活とは、どのような生活でしょうか。それが、「霊的な生活」であります。「霊的な生活」とは、どのような生活でしょうか。「神の霊、キリストの霊に支配された生活」とも言えるかもしれません。あるいは、更に砕いて言うならば、「神様を中心とした生活」とも言えるだろうと思います。ここに、私達キリスト者の生活があります。そこに「中立」はありません。半分霊的、半分肉的という生活はないのです。キリストのものである以上、私達は、神様の霊に支配されて生きている。神様によって支配されて生かされているのであります。
 それでは、「聖霊に支配された生活」には、何があるのでしょうか。ローマの信徒への手紙5章5節以下には、次のように記されています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」。聖霊に支配された生活。それは、神様の愛を注がれ、キリストの愛を受けて生きる生活であると言えます。自分が、愛されていることを知っている生活であります。その幸いが、私達キリスト者の内に与えられているのであります。
 では、反対に、「肉に属する生活」とは、どのような生活なのでしょうか。6節から8節をお読みします。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」
 「肉の思い」とは、言い換えるならば、「罪に支配された心」とも言えるかもしれません。どれだけ、偉大な人であっても、どれだけ、神様を愛し、神の教えを知っていても、キリストと一つでなければ、肉なる人です。そして、その人は、例外なく神の敵であり、神の御心に適うことありません。よって、「神に喜ばれることはない」のであります。だから、その先には、死の滅びしかない。人間の目には、どれほど偉大な人物として見えていても、キリストと結ばれていない人は、肉なる人でしかない。神の御言葉に従い得ない存在なのだと、ここで示されているのであります。
 このことを深く踏まえた上で、それぞれの信仰生活を省みたいと思います。私達は、霊的な生活を送っているでしょうか。肉的な生活を送っていないでしょうか。神様を中心とした生活から離れ、自分を中心とする肉的な生活に身を委ねていないだろうか。自らの心を深く省みるならば、なんだか恐ろしい気持ちに支配されるように思います。
 しかし、聖書の御言葉は、さらに次のように続いています。9節から10節をお読みします。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがは肉ではなく、霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても“霊”は義によって命となっています。」
 私達がどのような信仰生活にあっても、私達がどのような現状にあったとしても、わたしたちの内に、神様の霊は宿っているのだと言うのです。「〜かぎり」という言葉は意訳です。本来は、「私達の内に宿っているものだ」というポジティブなニュアンスが強いとされています。肉的な生活にあっても、「あなたがたが神の霊を宿している限り、大丈夫だよ」という意味が強いのであります。
 つまり、私達の信仰生活が、肉的な方向に向かって行く、そのような絶望の只中であっっとしても、厳密に言うならば、私達から、神様の霊が取り除かれていないのだということです。どれだけ、私達の罪が深いものであったとしても、神様の霊が、取り除かれるほど、神様は弱くないということであります。神様の霊的な力は、人間の罪を越えて強いものなのだということであります。たとえ、私達が不義なる者に向かっていったとしても、あなたがたの内には、神の霊が生きている。キリストの霊が生きている。その霊によって義とされ、命を受けている。この計り知れない深い憐れみが、ここに示されていると言えるのではないでしょうか。
 だからこそ、大事なことは、神様の愛に甘えて、「罪を犯してもよい」と言うのではありません。この深い恵みや憐れみ、そして、計り知れない愛に立ち帰り、霊的な生活に思いを向け直して生きていること。私の内には、神の霊が宿っている。私の内には、神様御自身が生きておられる。その幸いに立ち帰り続けていくこと。これが、信仰生活の中で、とても大切なことなのではないかと思うのであります。人間は、失敗の多い存在です。しかし、失敗しても、なお、私達は立ち帰ることができる。神が支配する生活とは、そのような幸いありきの生活なのではないかと思うのであります。
 今朝の御言葉の11節をお読みします。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
 私達が、どれだけ強く、主イエス・キリストと結ばれていても、私達の人生は、いつか死に向かって行きます。それでは、「死」をもって、私達は、神様から離れるのでしょうか。
 私達が結ばれている御方は、「復活のキリスト」であり、「キリストを復活へと導いた神様」です。私達と結び付いているのは、「死を越えたキリスト」と「永遠なる神様」です。その御方と霊的に結ばれ、そして今を得ている。それが、私達であります。
 だから、私達の生は、死をもって終わらない。神様との関係も、キリストとの結び付きも、あるいは、神様の愛からも、私達を引き離すものは何もない。たとえ、死であっても、私達と神様を引き離すことはない。
 なぜなら、キリストによって、神が、私達の内に強く臨んでいて下さるから。永遠なる方と結ばれているから。だから、死すらも、神様と私達を引き裂くことができない。この深い恵みを何度も味わい尽くせるところに、キリスト者の幸いなる生活があり、私達の立つべき信仰があるのです。
 私達は、今、クリスマスに向かって歩みを進めています。羊飼いたちに対して、天使達は、次のように語ります。「あなたがたのために救い主は生まれたのだ」と。羊飼いは、神様から遠く隔てられた人たちです。私達も同じです。罪の故に、肉の故に、神から遠く隔てられた存在だった。
 しかし、その「私達のために救い主は生まれた」。何のためにか。私達と神様とを固く結びつけ、死を越えてもなお、共に生きるために。私達は、今、その幸いを得ています。そして、その幸いは、死をもってしても、変わることはないのです。
 その恵みを改めて、このアドベントの時に思い起こしたい。そして、悔い改めをもって、主を待ち望むクリスマスへと向かって心の備えをなすものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:49| 日記