2017年12月24日

2018年1月1日 元旦礼拝予告

〇元旦礼拝 11時〜
主題:「今こそ、救いの日」須賀 工 牧師
聖書:コリントの信徒への手紙二6章1節〜10節

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:20| 日記

2017年12月31日 礼拝予告

〇教会学校 休会です。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「神の子と呼ばれる」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙8章12節〜17節
礼拝後、五分の集い、信仰の学びを行います。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:18| 日記

2017年12月24日 イヴ礼拝説教「星に導かれて」須賀 工 牧師

聖書:マタイによる福音書2章1節〜12節

 今、私達は、クリスマス・イヴ礼拝を捧げています。クリスマスの喜びを共に、味わうことが許されていますことを、とても嬉しく感じています。
 そもそも、「クリスマス」とは何でしょうか。「イエス・キリストの誕生を記念する日」です。
しかし、正確に申し上げますならば、「クリスマス」とは、「キリストの誕生を記念して『礼拝』」をする日でもあります。「クリスマス」は、「キリスト」という言葉と「ミサ」−礼拝−という言葉が合わさった言葉だからであります。
このように、本当のクリスマスとは、「キリストを礼拝する」ことによって、その意味を満たしていることになります。
では、このキリスト礼拝に、招かれたのは、誰だったのでしょうか。それが、今、お読みしましたように「博士」たちだったのであります。
この博士たちは、イエス様がお生まれになった国の人ではありません。遠い東の国の人でありました。当時、ユダヤ人にとって、異国の人は、救われない人々であると考えられていたそうです。つまり、神様の救いからもれてしまったような人。彼らは罪人と呼ばれていました。そう呼ばれていた人々が、導かれて、守られて、イエス様の誕生に招かれていく。キリストを礼拝する場へと招かれていく。本来ならば、招かれるべきではない人が、キリストと出会う最初の礼拝へと招かれていく。これが、このクリスマス物語の大きな恵みなのであります。
博士たちには、当然、拝むべき自分の国の王もいました。彼らには、礼拝すべき他の神様もいました。彼らには、博士としての権威や地位もありました。彼らには、救い主を必要としないほどの十分な財産や力もありました。
そんな彼らがなぜ、救い主を求めたのでしょうか。それは、どれだけ、目に見える幸せを得たとしても、それが、本当の喜びにはならなかったからであります。どれだけ沢山のものに満ちあふれていても、喜びがあふれるほどのものにならなかったのであります。彼らは星の博士であったと言われていますが、星を観察することによって、人間の運命や国の運命を決めていたようです。
しかし、人間の運命を星で占ったところで、行き着く先には、等しく「死」が待っています。運命を知るということは、人間がいつか死んで行く運命であるということを知るだけのことであります。どれだけ豊かな人生を送っていても、死ぬだけの運命。それが人間であります。その意味において、彼らは、沢山のものに溢れていても、本当の喜びを持つことは出来なかったのではないか。そのように思うのです。
しかし、そのような、空しさの中でこそ、救い主の光があるのです。そのような空しさの中でこそ、本当の輝きが現れ出てくる。博士達の苦しみを知り、光を与え、星をもって導かれる。人間の普遍的な苦しみを、神様が知っていてくださり、キリストのもとへと導いて下さる。これが、このクリスマスの物語なのであります。
恐らく、博士達の中にも葛藤があっただろうと思います。この星の輝きを信じて良いのだろうか。救い主を受け入れて、本当に大丈夫なのか。今まで拝んできた王や神ではなく、この神様を信じて良いのだろうか。そういう葛藤はあっただろうと思います。
しかし、そのような葛藤の中においてもなお、神様は、星の光をもって彼らを導き、御子イエス・キリストと出会わせてくださる。そして、彼らを真の喜びへと導かれる。死を越えていけるほどの、喜びを与えてくださる。彼らが、救い主を見出したのではなく、星が先立って彼らを導き、つまり、神様が、彼らの心を知り、彼らを導き続けてくださる。そして、本当の喜び、死の運命すらも凌駕するほどの、大きな喜びの中へと導いて下さったのであります。
 このような博士達とは対照的な人もいます。それが、ヘロデやユダヤの人々です。なぜ、彼らはイエス・キリストを受け入れられなかったのでしょうか。それは、彼らが「恐れた」からであります。イエス様の存在を恐れたからです。なぜ、恐れたのか。自分たちの権威をなくすことを恐れたからです。ユダヤ人たちの立場から言えば、変化すること、何か新しくなることを恐れたからであります。今までの自分を捨てきることができなかった。今までの古い自分をぬぐい去れなかった。このままで良いと思った。だから、イエス様の誕生を受け入れられなかった。真の救い主の登場を素直に受け入れることが出来なかった。
 これは、決して、ヘロデだけの問題ではないと思います。私達一人一人の問題でもある。私達も又、イエス様を受け入れられないほどに、自分に固執することがある。自分が中心でいたい。自分が一番でありたい。そのように誰もが願うものであります。その時、私達もまた、救い主を恐れ、受け入れられない自分になっているのかもしれません。
しかし、このような人間の心の中にも、ちゃんとイエス様の存在は伝えられます。そして、招かれていく。ヘロデやユダヤ人達も招かれている者の一人であります。
しかし、大事なことは、自分の心にイエス様を迎えること。その時、私達は、本当の喜びに溢れることができる。死の運命に絶望するよりも、更に大きな救いと恵みを味わい知るものとされる。その大いなるメッセージこそが、クリスマスの大きな御言葉なのです。
どうか、この救い主を、皆様の救い主として迎え入れてください。今、救い主の誕生は、ここにいるあなたのために実現しているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:15| 日記

2017年12月24日 主日礼拝説教「救い主の誕生」須賀 工 牧師

聖書:ルカによる福音書2章1節〜7節

 今朝、私達は、2017年のクリスマスを迎えています。このようにして、多くの方々と共に、クリスマスの恵みに与れますことを心より感謝するものであります。
 ただし、このような喜びに対して、様々な事情で、礼拝に来ることができなかった友、家族、そして、兄弟姉妹がいることも覚えたいと思います。一人一人の内に、クリスマスの恵みと祝福が豊かに与えられますことを、心よりお祈り申し上げます。
 今年のクリスマスに向けて、教会では、様々な準備がなされてきました。アドベントの準備がありました。聖歌隊の練習もありました。教会学校のクリスマスの準備もありました。この礼拝のための準備もありました。特に、今年は、帝人姉妹が、聖歌隊に参加することが出来ました。なかなか、教会に来て練習ができなかった姉妹は、聴くところによりますと、ご自宅で讃美歌の練習を積み重ねてきたのだと言われました。
 このように、見えるところだけではなく、見えないところで、救い主の誕生を迎えるための準備がなされてきました。祈りをもって備えた人もいれば、アドベントの礼拝ごとに心の備えをした人もいるかもしれません。クリスマスを迎えるために、本当にそれぞれが、それぞれの出来る備えをしてくださった。そのことを改めて感謝したいと思います。
 このような感謝と喜びを深く、心に留めながら、改めて、世界で最初のクリスマスの物語に思いを馳せていきたいと思います。
 今朝の御言葉の1節から3節の御言葉をお読みします。「そのこと、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅だった。」
 「皇帝アウグストゥス」とは、一体誰でしょうか。彼は、ローマ帝国における最初の皇帝であると言われた人物です。つまり、歴史上の偉人が、イエス・キリスト誕生物語の最初に登場するのです。
 それでは、この1節から3節は、一体、何が言いたいのでしょうか。それは、「ユダヤの国」が、「ローマ帝国によって支配されていたのだ」ということを言いたいのです。
 そもそも、何のために「住民登録」をさせるのでしょうか。国民を管理するためであります。その管理責任者が、ローマ帝国なのです。つまり、ローマ帝国によって、ユダヤの人々は管理され、支配されていたということが、ここで強調されていることなのであります。
 主イエス・キリストが、お生まれになった時代、そこは、神が人を支配するのではなく、人が人を支配する世界だったのです。人が人を支配する世界。言い換えるならば、人が中心となる世界。その世界の中にあって、御子イエス・キリストが、救い主としてお生まれになったのであります。
 それでは、人が中心となる世界とは、どのような世界なのでしょうか。今朝の御言葉の7節をお読みします。「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
 人が中心となる世界とは、一言で申し上げるならば、「救い主に宿を与えない世界」なのです。もう少し言い方を変えて申し上げるならば、「救い主を迎えられない世界」とも言えるかもしれません。それが、「人中心の世界」なのであります。救い主を必要とせず、神様を必要としない世界。それが。「人中心の世界」なのです。
 しかし、これは、決して、私達と無関係ではないかもしれません。私達の心もまた、自分中心の世界が広がっているかもしれません。自分を中心とし、神様や救い主を必要としていない心があるかもしれない。あるいは、そういう心があっても、自分にとって、都合の良い神様や救い主を望んでいるかもしれない。そう考えるならば、この世界的な出来事は、今の私達の心の内にも起きていることなのかもしれません。
 しかし、神様は、そのような世界の中に、救い主を与えて下さった。同じように、そのような私達の心の内にも、救い主を与えて下さる。人間を滅ぼし、罰するためではなく、そのような闇の中にこそ、救い主の光を与えて下さる。これがクリスマスの大きな恵みなのであります。
  今朝の御言葉の3節から6節をお読みします。「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅だった。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、」
 イエス・キリストは、どのような御方として、お生まれになられたのでしょうか。まず、イエス・キリストは、マリアとヨセフの間に生まれた。即ち、一人の「人間」としてお生まれになりました。私達と同じ人間となって、神の御子はお生まれになられたのです。神の御子は、私達と遠い存在ではありません。私達と近い存在として、私達人間の全てを知っておられる一人の人間として、お生まれになってくださった。これが、イエス様であります。
 しかし、イエス・キリストは、単なる人間ではありません。真の人でありながら、真の神に属する御方です。5節には、次のように記されています。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」
 聖書を知っている方、あるいは、信仰を持っている方であるならば、この言葉には大きな矛盾があることに気づかれるかもしれません。当時のユダヤ教の律法によれば、「いいなずけが身ごもる」ということはありえません。もし、これが事実であるならば、婚前交渉をしたことになります。当然、マリアは、「姦淫罪」によって「死刑」を受けることになりますから、住民登録は愚か、人前にさえも出てこれないはずでありましょう。
 つまり、ここで何が言いたいのでしょうか。マリアは、罪を犯すことなく、主イエスを身ごもったのだ、ということが言いたいのです。少し言い方を変えるならば、人の手を借りることなく、主イエスを身ごもったのだということです。
 では、誰の手を借りて、主イエスを身ごもったのでしょうか。神様の御手によって、主イエスを身ごもったのであります。私達の信仰告白−使徒信条−に基づいて言うならば、「聖霊によって処女マリアのうちに、イエス様は宿られた」のです。人間の手を借りることなく、ただ、神様が救いのために働いて下さった。救い主を与えて下さった。そのような意味で、正に、主イエスは、ただの人ではないのです。真の人ではあるけれど、真の神による存在。それが、私達の主イエス・キリストなのであります。
 私達は今、主イエスについて二つのことを知りました。主イエスが、真の人であるということ。そして、主イエスは、真の神であるということ。真の人、真の神として、主イエスは、お生まれになったのです。
 しかし、もう一つ、大切なことを付け加えておきます。主イエスは、真の人、真の神として生まれました。しかし、それは、決して、人間の作り上げた伝説ではありません。この出来事は、あくまでも、神様のご計画の一つであります。
 旧約聖書のミカ書5章1節によれば、救い主は、ダビデの町ベツレヘムで生まれるのだと言われています。つまり、イエス様が、ベツレヘムで生まれたのは、偶然ではなく、必然なのだということです。いや、全ては、神様のご計画なのだということです。
 先ほどの3節から6節を読んで、違和感はなかったでしょうか。恐らく、マリアもヨセフも自分たちが、生活をしていたガリラヤで、子どもを産みたかったのかもしれません。
 ところが、6節にも示されているように、「ところが」人間の計画通りにならずに、ベツレヘムで生まれた。なぜでしょうか。神様の預言、神様の計画が成就するためであります。主イエスが真の救い主として生まれたからであります。
 このように、真の神、真の人なるイエス様は、人間が作り上げた伝説の人物なのではなく、神様が約束し、神様が計画されていた通りの、救い主であったということ。それが、今朝の御言葉から強く示されていくのであります。もう少し、砕いて言うならば、救いとは、人間の計画や逸話からではなく、神様の現実的な、具体的な働きによって与えられるものなのだということ。それが、ここで示されていることなのであります。
 では、真の人、真の神として、イエス様が生まれたのは、何のためでしょうか。どうして、救い主は、真の人、真の神として生まれる必要があったのでしょうか。それは、神と人を結ぶためであります。神と人の仲介に立つためであります。神と人とを和解へと導くためであります。そのために、真の人、真の神でなければいけなかったのであります。
 人間が中心となる世界は、神と人との関係が断ち切られていた世界とも言えるかもしれません。しかし、その破れを修復するためには、神の側に立ち、かつ人の側にたてる存在である必要があったのであります。それが、主イエス・キリストなのであります。
 そして、その主イエス・キリストは、最後に、十字架をもって、神と人を結びます。御自身が命を捧げることで、人の罪の犠牲となり、それが神様との和解となった。神と人とを、命がけでつないでくださった。その幸いを、改めて深く心に留めていくものでありたいのです。
 この恵みは、決して2000年前の歴史の出来事ではありません。救い主がお生まれになったのは、今、ここに生きる、わたしのため、あなたのためであります。どうか、この幸いを強く受け止め、この救いの恵みを自分の恵みとして味わって頂ければと願うものであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:07| 日記