2018年01月28日

2018年2月4日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「安息日を覚えて、これを聖とせよ」
聖書:マルコによる福音書2章23節〜28節
※礼拝後、誕生者を覚えて祈りを捧げます。
※絵本の読み聞かせがあります。
※保護者の方々も是非、共にお越し下さい。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「屠られる羊のように」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙8章36節
※礼拝後、信仰の学び、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:15| 日記

2018年1月28日 主日礼拝説教「変わらぬ愛」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章35節

 キリスト教は、御利益宗教ではありません。キリスト教の信仰を持てば、苦難や困難が取り去られるというわけではありません。キリスト教の信仰を持っているからと言って、何もかもが順風満帆に行くとも限りません。信仰を持っていても、あるいは、信仰をもっていたために、苦しい経験をすることもあります。
 しかし、いかなる苦難の中にあっても、私達には、奪われないものがあります。それが、「キリストの愛」です。「キリストの愛」だけは取り去られることはありません。たとえ、全てを奪い去っていくような、大きな苦難に襲われても、キリストの愛だけは奪われません。たとえ、全てのことが変わってしまうような恐ろしい苦難の中でも、「キリストの愛」だけは変わりません。つまり、キリストを通して与えられる愛は、あらゆる苦難を越えて、力強いものなのであります。
 今朝の御言葉には、様々な言葉で、人間の苦難について記されています。「艱難」「苦しみ」「迫害」「飢え」「裸」(貧しさ)「危険」「剣(世の支配力)」。使徒パウロは、苦難を「七つ」の言葉で表現しています。「七つ」とは、「完全数」です。この世で起こり得る全ての苦難が、ここで示されているということでしょうか。
 あるいは、これらの苦難は、全て「死に直結」するほどの苦難でもあります。人間の力ではどうすることもできない死。その死に直結するほどの苦難。それは、人の目には、完全なる苦難とも言えるかもしれません。キリスト者であっても、いつでも、この苦難の中にいます。それが、この地上の現実であります。
 しかし、いかなる強大な苦難の中にあっても、あるいは、人間の力ではどうすることも出来ない苦難の中にあっても、私達から奪い去ることの出来ないものがあります。いや、それらの苦難に打ち勝つほどに、大きく、強いものがあります。それが、キリストを通して与えられた愛。それが、ここで強く強調されていくのです。
 では、「キリストを通して与えられた愛」とは何でしょうか。ヨハネの手紙一4章10節には、次のような御言葉があります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」改めて、お読みします。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 「愛」とは何でしょうか。それは、「私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになった」ということです。「罪」とは何でしょうか。それは、「神様を中心としないこと」です。「神様の御心から外れて生きること」でもあります。あるいは、「神様を必要としないで、自分を中心にして生きること」であります。
 パウロは、ローマの信徒への手紙3章23節で次のように記しています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」と。ここで記されていますように、「人は皆、罪を犯している」のです。「人は皆、例外なく、罪の支配の中にいる」のです。それが、聖書の示している人間の姿であります。
 神様に対して罪を犯している。そうであるならば、神様に対して裁きを受け、有罪判決を受け、罰せられるのが当然でありましょう。しかし、神様は、人を裁くためではなく、人を救うために御子を与えられたのです。私達の受けるべき裁きを、御子イエス・キリストに背負わせ、生け贄として捧げられた。この御子の命によって、私達の罪を赦してくださった。この御子の命と引き替えに、私達を神様の子どもとして、神様の家族として受け入れてくださった。かけがえのない、独り子を捧げてしまうほどに、私達を赦し、神様の目に貴い者としてくださった。このところに「神様の愛」があるのだと言われています。 そして、この愛は、決して、何者によっても奪い去ることはできない。死すらも奪うことはできない。つまり、その愛は、永遠なるもの。私達は、変わることのない永遠なる愛の中に、今を得ているのであります。
 かけがえのない、ただ一人の愛する御子を惜しみなく、死に渡されるほど、神様は、私達をかけがえのない存在として受け止めてくださるのです。ここに愛があるのです。そうであるならば、誰が、この愛を奪うことができるのでしょうか。神が痛みをもって御子を与えて下さるほどに、断固として、私達を受け止めてくださる。それほどまに神様の私達に対する愛が強いのであるならば、誰が、この愛を奪うことができるのか。そう信じて生きていけるところに、キリスト者の本当の強みがあると言えるのかもしれません。
 しかし、それでも、私達は、苦難の中で嘆くことがあります。苦難に打ち勝てない時があります。信仰が揺らぐことがあります。心が神様から離れてしまうことがあります。しかし、パウロは、ローマの信徒への手紙5章5節で、次のように記しています。「希望は私達を欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 私達の内には、いつも神の霊−聖霊−が注がれています。聖霊が、私達を内に宿り、神の愛で満たしてくださるのであります。私達が、私達の心を、神様の愛で満たそうと一生懸命になる必要は無いのです。あるいは、私達が、苦しみに打ち勝とうと無理をしなくても良いのです。私達が神様を愛するのではなく、神様が、私達を愛して下さり、聖霊によって、私達を愛で満たして下さるのです。礼拝を通して、あるいは、祈りの生活の中で、あるいは、御言葉によって、神に向かった信仰生活のあらゆるところで、神様は聖霊を通して働かれ、愛をもって、私達の乾きを満たされるのです。神は御子を惜しみなく死に渡された。生け贄として御子を捧げられた。かけがえのない御子を捧げてまでも、私達をかけがえのない存在として見出して下さる。この愛は、永遠です。苦難は永遠ではありません。最後に残るのは、この愛だけです。この愛の中に既にいる。そのことを味わいながら、この地上での生活を希望と共に歩みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:09| 日記

2018年01月21日

2017年1月28日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」
聖書:マタイによる福音書5章34節〜37節
※礼拝後、分級を行います。
※保護者の方々も、是非、共にお越し下さい!

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「変わらぬ愛」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙8章35節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:30| 日記