2018年01月21日

2017年1月21日 主日礼拝説教「誰も罪に定められない」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章31節〜34節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章31節〜34節の御言葉です。31節をお読みします。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」
 私達にとって、神様が味方でいてくださるということ。これは、大きな幸いです。宗教改革者カルヴァンは、次のように語りました。「『神が味方である』ということこそ、私達の唯一の支えである。これがなければ、どれだけ幸福の中にあっても、確かな支えがない。これがあれば、どんな苦しみ、悲しみ、逆境の中にあっても私達は支えられる。」
 どれだけ幸福であっても、神様が味方ではない人生には、確かな支えがない。逆に、どれだけ貧しく、惨めな人生であったとしても、「神様が私の味方でいてくださる」と信じられる人生は、確かな支えをもった人生なのだと言うのであります。その通りだと思います。
 ここで大事なことは、「『神が』わたしたちの味方であるならば」と記されていることです。「私が神の味方」になるのではないのです。「私が神を味方として選んだ」わけではないのです。「神様が、私の味方になってくださった。」「神様が、この私を味方として選んでくださった」のです。これが、ここで大切なことなのであります。
 これは当たり前のことなのでしょうか。つまり、私達が、神様の味方に相応しい生き方をしていたから、ご褒美として、神様は、味方になってくださったのでしょうか。
 それは違います。ローマの信徒への手紙5章10節には次のように記されています。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」
 今、読んで分かりましたように、私達は、かつて「神様の敵」だったのです。しかし、神様は、「神様の敵」であったはずの私達の側に立って味方でいてくださるのです。つまり、神様が私達の味方であるのは、決して当たり前のことではないのです。それ自体が、大きな憐れみ、情けに満ちたものなのであります。
 本来は、神様に滅ぼされていても仕方のない敵の側にいたのです。そんな私達の側に神様が立っていてくださるのです。神の敵であったはずの私が赦されて、神様が私の味方でいてくださるということ。それほどまでに、神様は私達を憐れんでくださるのです。
 では、神様が、私達の味方であるということ。その証拠はどこにあるのでしょうか。32節をお読みします。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
 神様が、私達の味方であることの一番の証拠。それは、神様が、私達のために御子を惜しまず死に渡されたということです。かけがえのない独り子を、死に渡されたということが、神様が味方であることの証拠です。
 何のために、神様は御子を惜しみなく与えられたのでしょうか。神の敵であった私達の償いのためです。神と人とを和解させる犠牲のためです。そのために、神様は、御子を惜しみなく、この世に与えられ、まるで犠牲の動物を捧げるかのように、十字架に架けられた。そして、その死をもって、神と人との和解を成立させてくださった。かけがえのないものを捧げてしまうほどに、神様は、私達と和解して繋がることを望み、私達の味方でいることを望まれたのです。これが、神様が味方であることの証拠となります。
 このような神様の計り知れない憐れみを前にして、誰が敵対することができるのでしょうか。独り子さえ惜しみなく与えてくれた神様が、私達の味方でいてくださるのです。かけがえの無いものを捧げてしまうほどに、私達を大切にしてくださる神様なのです。惜しみなく捧げる神は、私達に惜しみなく必要な恵みを備えてくださるでありましょう。そのような神様が、今、私達の側に生きておられる。だから、何も恐れる必要は無い。ここに、クリスチャンであることをの大きな恵みがあると言えるのではないでしょうか。
 今朝の御言葉の33節から34節をお読みします。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
 神様は、「裁き主」とも呼ばれます。つまり、神様は、ただ一人、正しい御方です。悪人であろうと、あるいは、善人であったとしても、最後の最後に、その人の善悪を裁かれるのは、神様だけであります。
 そのような最高の裁き主である神様が、御子をさえ惜しみなく捧げてまで、この私の味方でいてくださるならば、もう、誰も、私を裁くことはできないはずです。罪に定めることはできないはずです。ただ一人、正しい御方が、私達を愛し、罪を赦してくださる。御子の命によって、私達を神様の目に相応しい者としてくださる。そして、この私の側に立っていてくださる。そうであるならば、誰が、この私を罪に定めることできるのか。それが、ここで強く言われていることなのです。
 しかし、それでも、私達は、自分の救いが信じられないかもしれません。自分を顧みながら、自分が救われているか不確かになってしまうことがあるかもしれません。
 しかし、私達の傍らにいる御方は、誰でしょうか。「復活のキリスト」です。今も生きておられる御方です。その御方が、私達と神様とを執り成してくださいます。「執り成す」とは、「神様と私達の仲裁に立ってくださる」ということ。あるいは、神様に対して、私達を弁護してくださるという意味でもあります。神の右というのは、神の権威を表していますが、同時に、裁判官に対しては弁護人の席でもあると言われています。
 つまり、主イエス・キリストは、神と人との間にあって、仲裁してくださる方だけではなく、私達の弁護人として、生きていてくださる。そのような御方が、私達と共に生き、そして、神と私とをいつも結びつけてくださる。その幸いを味わいながら生きるのが、クリスチャンであります。
 礼拝を通して、祈りの生活を通して、今も、キリストが共に生き、神と私との間にあって、私を執り成してくださり、弁護してくださる。その幸いを味わい続けることができるのです。
 私達は、何も恐れることはありません。御子を惜しまず捧げてしまうほどに、私達は、神様にとって大切な存在です。私達は、何も恐れることはありません。私達と神様との間には、いつも、キリストが生きて働かれます。私達を慰め、励まし、そして、神様との関係をいつも修復してくださる。だから、何も恐れることなく、ただ、神のみを畏れ、自由に今を生きて良いのです。その幸いを受け止めつつ、新たに歩み出すものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:24| 日記

2018年01月14日

2018年1月21日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:コリントの信徒への手紙一 6章14節〜16節
主題:「自分のために、きざんだ像を造ってはならない」
*礼拝後、分級が行われます。
*保護者の皆様のお越しも心よりお待ち申し上げます。

○主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙8章31節〜34節
主題:「誰も罪に定められない」須賀 工 牧師
*礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:03| 日記

2018年1月14日 主日礼拝説教「聖霊に守られて」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章26節〜30節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章26節から30節の御言葉であります。26節から28節の御言葉をお読みします。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に言い表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
 キリスト者は、完全な人間ではありません。この世の力に影響を受けることがあります。誘惑を受けることがあります。罪に支配されてしまうことがあります。信仰が揺れ動いてしまうことがあります。信仰が衰えたり、弱ったりすることがあります。キリスト者は、決して、完全な人間ではありません。
 この自分の弱さに気づく時、私達は不安になります。「自分は本当に救われているのだろうか。」「自分は本当に神の国に入れるのだろうか。」「自分は本当にキリストの復活に与れるのだろうか。」私達は、自分の弱さと真剣に向き合えば向き合うほどに、自分の受けた救いに対して不安になります。
 それでは、このような不安を払拭するために、何ができるでしょうか。あるいは、このような不安を払拭するために、私達は何をするのでしょうか。
 色々なご意見もあるかと思いますが、大概の人は、祈ることを大事にするのではないかと思うのです。けれど、一生懸命に祈っても、拭いきれない不安が残ることもあります。祈りを捧げていても、救いに確信が得られないということがあります。「自分は本当に救われるのだろうか。」「自分は本当に神の国に入れるのだろうか。」私達の内にある不安は、祈ればそれで解決する問題ではないことがあります。あるいは、祈っていても、なかなか拭いきれない。そういうこともあるだろうと思うのです。
 しかし、この私達が抱える不安を「御自身のこととして知ってくださる御方」がいます。私達の心の呻きを、御自身の呻きとして受け止めてくださる方がいます。私達よりも、私達のことを全て知り尽くしてくださる御方がいます。それが、今朝の御言葉から言うならば、まず「聖霊」です。
 但し、「聖霊」は、神様によって遣わされ、神様の御心に従って、私達の内に宿っているものです。言うなれば、神様御自身の霊です。つまり、ここで、私達の苦しみに、本当に寄り添い、私達の呻きを知り、私達の内に宿ってくださる、その本当の主体は、神様御自身であります。
 神様は、私達の苦しみを知っておられるのです。神様は、私達の呻きを知っておられるのです。遠く離れて見守る神様ではなく、私達の痛み、苦しみ、呻きの近くにいてくださるのです。
 そして、この深い御恵みに立ち帰っていくとき、私達は、私達の近くに神様の働きがあることを知ります。そして、その不安が永遠ではないことも知るものとされます。28節の御言葉をお読みします。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
 私達は知っているのです。あるいは、私達は確信しています。何を確信しているのでしょうか。「万事が益となるように、神様御自身が働いてくださるのだ」ということ。これは、決して、私達にとって、都合の良い利益を得ることではありません。神様の目に正しく、神様にとって良いことをしてくださるのです。そして、神様がしてくださる全てのことは何であれ、この私にとって「万事、益」なのだと信じるところにこそ、神に愛され、神を愛する私達の姿があるのです。
 私達は知っています。私達の苦しみを神様が知っていてくださることを。私達は知っています。私達に必要なもの、私達にとって本当に益となるものを、神様が備えてくださることを。神様に知られ、その神様が、この私を選び、この私を愛してくださり、愛してくださるが故に、私達にとって本当に必要なものを知っていてくださる。そして、助けを与えてくださる。ここに信仰者にある幸いがあると言えるのであります。苦しみの中で、その苦しみに寄り沿ってくださる神へと立ち帰る時、私達は、これほどまでに沢山の恵みを改めて味わい尽くすことができるのです。
 キリスト者は、決して完璧な人間ではありません。だから、苦しみを味わいます。弱さを抱えます。苦しみの中で、信仰が揺れ動くことがあります。その時、大切なことは、自分を見失わないということです。「自分が一体、何者なのか。」それを見失わないことです。それは、言うならば、いつでも、自分の立ち帰る場所があるということ。自分の存在を確かとする場所があることを意味しています。苦しみの中でこそ、自分自身の存在が何であるかを確かにしておければ、私達は改めて立つものとなれるのではないでしょうか。
 今朝の御言葉の29節から30節までをお読みします。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」
 私達は、一体何者なのでしょうか。一つは、「御子に似た者です」。これは何を意味しているのでしょうか。これは、キリストが、神の子であるように、私達も神の子であるということです。そして、キリストが十字架で死んで復活したように、私達も又、罪に死に、復活の命を得るのだということです。
 しかし、私達は、キリストに似たものであって、キリスト御自身になるわけではありません。キリストは、あくまでも私達の長子であり、私達を養ってくださる御方。その御方と共に生き、その御方と共に神の子どもとして生かされ、その御方が生きるように、私達もまた、死を越えて生きることができるということです。
 到底、キリストに似つかわしくない者であったとしても、あなたは、キリストにあって、神の子であり、死を越えて神様の家族としていきられる。どのような苦しみが襲いかかってきたとしても、あなたがキリストによって、神の子であることは変わらない。そして、復活の命に与っていることに変わらない。そう信じて生きてよいのです。
 二つ目に大切なことがあります。それは、私達が、「義とされ、栄光を受けている存在」であるということです。「義」とされるとは、「神様の目に相応しいものとされる」ということです。人間が、人間の力で正しくなることはできません。私達は弱いからです。
 しかし、神様は、この弱い私達を選び、呼び出してくださり、キリストを通して、神様が、私達を義としてくださる。そして、神様の栄光を受けるものとしてくださるのです。 これは、決して、将来のことではありません。神様は、既に、私達を義と認め、栄光を与えられたのです。今、私達は、既に、神の目に正しいものとして受け入れられ、栄光を受けているのです。どのような弱さを抱えていても、どのような苦難を抱えていても、その闇よりももっと大きな憐れみと愛をもって、神様は、この私を、このあなたを受け止めていてくださるのであります。
 ここで重要なことは、この私には、何の力もないということです。ただ、弱いだけの存在です。それが、私達の現実的な姿です。
 しかし、神様は、こんな私を、キリストによって、愛してくださり、聖なるものとしてくださり、神様の救いのご計画の中に入れてくださり、生まれる前から知っていてくださり、そして、栄光を受けるために定めてくださった。私達によるのではなく、ただただ、神様の一方的な恵みの中で生かされていく。これが私達の今の姿なのです。
 そして、この深い恵みを思い起こして生きる時、私達は苦難を越えて生きられる。この苦難が空しくなる。その幸いこそが、ここから強く現されているのです。
 私達には苦しみがあるのです。弱さがあるのです。しかし、その苦しみを誰よりも近くで知っていてくださり、神様の目に正しい道へと導いてくださる。どんなに弱く、貧しいものであったとしても、あなたはわたしの家族だといってくださる方がいる。どれだけ罪に満ちていても、あなたは、御子によって、義とされている。栄光を受けている。そう教えてくれる御方がいる。どれだけ人生の中で挫折を経験していても、「私があなたを選んだのだよ」といってくださる御方がいる。この深い確信を、私達は御言葉から、あるいは聖霊を通して味わい知るものとされているのではないでしょうか。この恵みを心に留めつつ、新たに歩み出す者でありたい。そして、礼拝に繋がっていく生活をこれからも大切にしていきたい。そのように願うものなのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:59| 日記