2018年01月08日

2018年1月14日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「わたしの他に、なにものをも神としてはならない」
聖書:マタイによる福音書4章8節〜10節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も、是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「聖霊に守られて」須賀 工牧師
聖書:ローマの信徒への手紙8章26節〜30節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学び、ダニエル会例会が行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。



posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:51| 日記

2018年1月7日 主日礼拝説教「耐え忍ぶ今、喜びの将来」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章18節〜25節

 今朝、私達は、2018年、最初の主日礼拝を迎えています。新しい年も又、こうして多くの皆様と共に、高らかに主の御名を讃美する礼拝を捧げられますことを、心より嬉しく感じています。
 また、このような節目にあって、本日は、清和幼稚園を卒園し、今年、成人となられる方々を招いて、共に礼拝を捧げることが許されました。清和幼稚園で、神様の愛を受けた子どもたちが、成長し、再び、この礼拝へと招かれましたことを、とても嬉しく感じています。
 恐らく、皆様の中には、幼稚園の建物が変わったこと、あるいは、園長が替わっていることにも驚かれた方がいるかもしれません。あるいは、久しぶりに会う幼稚園の先生の変化に驚かれる人もいるかもしれません。皆様もまた、幼稚園を卒園して以来、お互いに初めて会う人もいるだろうと思います。お互いに心も身体も成長し、あの時の面影を感じられないという人もいるかもしれません。
 人は変わるものです。心も身体も変わります。けれども、清和幼稚園では、変わらないものもあります。それは何でしょうか。それは、「神様が、あなたを愛している」ということ。「神様が、あなたを救う」ということ。これは、どんなことがあっても変わることはない。あるいは、これから、どんなことがあっても変わることはありません。約10年以上前に、この礼拝堂で聴いた、神様の愛、イエス様の救いは、たとえ、この幼稚園の建物や先生が替わっても、あるいは、皆様が成長と共に変わっていったとしても、変わることはありません。
 だから、是非、心に留めていて欲しいことがあります。それは、皆様には、変わることなく愛して下さる神がいるということ。変わることなく、あなたを受け止めてくれる御方や居場所があるのだということ。これから、どんなに苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、孤立したり、孤独になったとしても、変わらずに、皆様を待ち望み、招き続け、希望を与えて立ち上がらせる。そういう御方や場所があるのだということ。これだけは、どうか、心に留めて頂ければと願うものであります。
 そして、その幸いを深く心に留めた上で、今朝、私達に与えられている御言葉に、改めて耳を傾けていきたいと思います。
 18節の御言葉を改めてお読みします。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」
 「現在の苦しみ」とは、何でしょうか。これは、決して、「個々人の悩みや苦しみ」とは違います。「病気で苦しい」「生活が苦しい」「仕事が苦しい」という個人的な苦しみではありません。これは、「人類の共通した苦しみ」のことです。
 それでは、「人類の共通した苦しみ」とは何でしょうか。今朝の御言葉の20節と21節をお読みします。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」
 ここには、二つの「苦しみ」が示されています。一つは、「虚無に服している」ということ。言い方を変えるならば、「空しさに支配されている」ということです。「被造物」即ち、人類は、「空しさに支配されている」のだと言うのです。何故でしょうか。それが二つ目の苦しみです。即ち、「滅びへの隷属」の中にいるからであります。「いつか滅びへの隷属から解放されて」ということは、要するに「今は、滅びに支配されている」ということを意味しています。つまり、整理して申し上げますと、「人類は、滅びに支配され、空しくなっているのだ。だから、人類は苦しんでいるのだ。」と言っていることになるのです。
 人類は空しさを抱えているのです。なぜか。ただ、滅びていくだけだから。どれだけ、人の目に良い人生であったとしても、どれだけ、人の目に豊かな人生であったとしても、それでも人間は滅びていくだけ。だから、空しい。だから苦しい。ここに人類が持つ、共通した「苦しみ」があるのだと聖書は示しているのです。恐らく、そのような苦しみを、常日頃から意識する人の方が少ないかもしれません。しかし、聖書は、人間の持っている目には見えない、心の奥底にある不安や恐れを教えているのではないかと思うのです。
 それでは、そもそも、この苦しみはどこから来たのでしょうか。20節の御言葉を改めてお読みします。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり・・・」。
 「人類の苦しみ」は、人間の意志によるものではないのだと言います。では、どこから苦しみは来るのでしょうか。「服従させた方」、即ち、これは神様。神様の意志によって、人間が空しくなっている。神様の意志によって滅びに置かれている。神様の意志によって人間が苦しんでいる。そのようにここで語られているのです。
 神様が人間を苦しめている?それが神様の意志?神様がそんなことをするはずはない!神様がそんなことをするなんて信じられない!そう文句も言いたくなるものです。その気持ちも良く分かります。
 しかし、本当に大切な事は何でしょうか。私達は、神様から命を受けています。神様によって生かされています。神様によって支えられ、神様によって養われています。全て
、必要なものは備えられて、今を得ています。
 しかし、私達は、その恵みに感謝し、その恵みに応えて生きているでしょうか。神様と真剣に向き合い生きているでしょうか。神様を愛して生きているでしょうか。神様を心から信じ、神様を礼拝しているでしょうか。自分が中心になっていなだろうか。自分が人生の主役になっていなだろうか。神様と向き合うよりも、自分の心に従うことの方が多いのではないか。都合の良い時だけ、神様を利用していないでしょうか。
 神様は、なぜ、人間を空しさの中に置かれたでしょうか。神様は、なぜ、人間を滅びの中に置かれたのでしょうか。神様は、なぜ、人間を苦しみの中に置かれたのでしょうか。それは、神様が、人間の弱さを見逃さない方だからです。人間の罪や悪を見逃さない御方だからです。神様が人間の罪と向き合っているからであります。その視点を抜きにして、「神様が悪い」とは言い切れないはずではないでしょうか。
 ここで大切なことは、人間が、人間のうちにある罪の現実に気づくことに他なりません。滅びに支配され、ただ滅びを待つだけの空しい人生。その苦しみの原因を「神に責任を押しつける」のではなく、自分の弱さや罪の中から見つめ直していく。これが、ここでとても重要なことではないかと思うのです。
 そして、その絶望に気づく中で、私達は、もう一つ大切なことに気づかされます。それが、神様の憐れみです。神様の愛です。人間の罪がどれだけ深くても、それを包み込むほどの、大きな愛です。罪の絶望の中でこそ、その絶望の淵にある神様の愛に気づかされる。裁きが語れられると共に、救いが語られる。神様の前で罪を知るということは、神様の救いを知ることになる。それが、キリスト教なのであります。
 改めて、20節から21節をお読みします。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由に与れるからです。」
 神様は、ただただ、人間が滅んでいくことを望んでいるわけではないようです。滅びが神の意志であるならば、救いも神の意志となります。苦しみや悩み、死や滅び。そして、空しさを越えて、その全ての絶望から解放される時があるのだと、神様御自身が約束してくださいます。神様との関係が回復し、神様の子どもとして、一人一人が新たに生きる時が来るのだと教えてくださるのです。どんなに罪に満ちていても、神様の子どもとして受け入れられる時が来る。そう約束してくださるのです。つまり、苦しみは永遠ではないということです。空しさは永遠ではないということです。必ず、全ての人類が、神様の愛を知る時がくるのだと言うのです。苦しみを越えた愛を知る時がくる。
 その時は、いつ来るのでしょうか。それは分かりません。神様のご計画です。もしかしたら、私達が生きている間には、実現しないかもしれません。しかし、いつかは、全ての人が、生者も死者も、神の愛を知り、神様の救いを知り、神様を知る時がくる。神様は、そう約束して下さるのです。
 そうであるならば、今、大切なことは何でしょうか。その救いの時を待ち望むということです。あるいは、先だって、神様の愛や救いを、自分のものとしてしまうということです。そうすることで、苦しみが永遠ではないことを、もっと現実的に知るものとなれる。どのような苦しみ、悩み、空しさの中でも、自分は、必ず最後は救われている。愛されている。最後の最後は、喜べる。その幸いを今から味わうことができる。大事なことは、神様が、いつかは救いを全人類に現して下さることを知るということ。もっと大事なことは、その救いを今から味わうということ。いつかではなく、今、その恵みを味わいながら生きていく。それによって、今を希望のうちに生きることができる。
 しかし、人間は、すぐに忘れてしまいます。神様の救いを忘れてしまいます。信じることを忘れてしまいます。神様が、あなたを愛し、救おうとしてくださることを忘れてしまいます。神様の愛を忘れてしまいます。クリスチャンであろうと忘れてしまうこともあるでしょう。この世の苦しみに支配され、滅びや空しさに捕らわれてしまうことがある。
 しかし、そういう時こそ、是非、教会を思い出して欲しいと思うのです。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」とあります。「神の子たち」とは、何でしょうか。それは、クリスチャンの共同体、つまり、教会です。教会は、全ての人に必要とされている。いや、教会こそ、この神様の愛を知る場所です。教会の中心には、イエス様がおられます。このイエス様が、一人一人に、神様の愛を教えてくださいます。私達が、愛されていることを教えてくださいます。教会を通して、イエス様と出会い、神様の変わらない愛を確認し、改めて希望を頂き、私達は歩み出すことができるのです。
 教会は、神様の変わらない愛を思い出すところです。教会は、神様の救いを改めて噛みしめるところです。そして、希望を取り戻すところでもあります。そのために、教会は、この世界で必要とされています。そのために、教会は、人類のために愛を発信し続けています。だから、教会を思い出して欲しい。礼拝を思い出して欲しい。そのように願うものであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:47| 日記

2018年01月01日

2018年1月7日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:出エジプト記20章1節〜17節
主題:「奴隷の家から導き出した神である」
※礼拝後、誕生者を覚えて祝福の祈りを捧げます。絵本の読み聞かせもあります!
※保護者の方々もぜひ、共にお越し下さい!

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙8章18節〜25節
主題:「耐え忍ぶ今、喜びの将来」須賀 工 牧師
※礼拝後、コーヒーブレイクがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます!
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:16| 日記