2018年01月14日

2018年1月21日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:コリントの信徒への手紙一 6章14節〜16節
主題:「自分のために、きざんだ像を造ってはならない」
*礼拝後、分級が行われます。
*保護者の皆様のお越しも心よりお待ち申し上げます。

○主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙8章31節〜34節
主題:「誰も罪に定められない」須賀 工 牧師
*礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:03| 日記

2018年1月14日 主日礼拝説教「聖霊に守られて」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章26節〜30節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章26節から30節の御言葉であります。26節から28節の御言葉をお読みします。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に言い表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
 キリスト者は、完全な人間ではありません。この世の力に影響を受けることがあります。誘惑を受けることがあります。罪に支配されてしまうことがあります。信仰が揺れ動いてしまうことがあります。信仰が衰えたり、弱ったりすることがあります。キリスト者は、決して、完全な人間ではありません。
 この自分の弱さに気づく時、私達は不安になります。「自分は本当に救われているのだろうか。」「自分は本当に神の国に入れるのだろうか。」「自分は本当にキリストの復活に与れるのだろうか。」私達は、自分の弱さと真剣に向き合えば向き合うほどに、自分の受けた救いに対して不安になります。
 それでは、このような不安を払拭するために、何ができるでしょうか。あるいは、このような不安を払拭するために、私達は何をするのでしょうか。
 色々なご意見もあるかと思いますが、大概の人は、祈ることを大事にするのではないかと思うのです。けれど、一生懸命に祈っても、拭いきれない不安が残ることもあります。祈りを捧げていても、救いに確信が得られないということがあります。「自分は本当に救われるのだろうか。」「自分は本当に神の国に入れるのだろうか。」私達の内にある不安は、祈ればそれで解決する問題ではないことがあります。あるいは、祈っていても、なかなか拭いきれない。そういうこともあるだろうと思うのです。
 しかし、この私達が抱える不安を「御自身のこととして知ってくださる御方」がいます。私達の心の呻きを、御自身の呻きとして受け止めてくださる方がいます。私達よりも、私達のことを全て知り尽くしてくださる御方がいます。それが、今朝の御言葉から言うならば、まず「聖霊」です。
 但し、「聖霊」は、神様によって遣わされ、神様の御心に従って、私達の内に宿っているものです。言うなれば、神様御自身の霊です。つまり、ここで、私達の苦しみに、本当に寄り添い、私達の呻きを知り、私達の内に宿ってくださる、その本当の主体は、神様御自身であります。
 神様は、私達の苦しみを知っておられるのです。神様は、私達の呻きを知っておられるのです。遠く離れて見守る神様ではなく、私達の痛み、苦しみ、呻きの近くにいてくださるのです。
 そして、この深い御恵みに立ち帰っていくとき、私達は、私達の近くに神様の働きがあることを知ります。そして、その不安が永遠ではないことも知るものとされます。28節の御言葉をお読みします。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
 私達は知っているのです。あるいは、私達は確信しています。何を確信しているのでしょうか。「万事が益となるように、神様御自身が働いてくださるのだ」ということ。これは、決して、私達にとって、都合の良い利益を得ることではありません。神様の目に正しく、神様にとって良いことをしてくださるのです。そして、神様がしてくださる全てのことは何であれ、この私にとって「万事、益」なのだと信じるところにこそ、神に愛され、神を愛する私達の姿があるのです。
 私達は知っています。私達の苦しみを神様が知っていてくださることを。私達は知っています。私達に必要なもの、私達にとって本当に益となるものを、神様が備えてくださることを。神様に知られ、その神様が、この私を選び、この私を愛してくださり、愛してくださるが故に、私達にとって本当に必要なものを知っていてくださる。そして、助けを与えてくださる。ここに信仰者にある幸いがあると言えるのであります。苦しみの中で、その苦しみに寄り沿ってくださる神へと立ち帰る時、私達は、これほどまでに沢山の恵みを改めて味わい尽くすことができるのです。
 キリスト者は、決して完璧な人間ではありません。だから、苦しみを味わいます。弱さを抱えます。苦しみの中で、信仰が揺れ動くことがあります。その時、大切なことは、自分を見失わないということです。「自分が一体、何者なのか。」それを見失わないことです。それは、言うならば、いつでも、自分の立ち帰る場所があるということ。自分の存在を確かとする場所があることを意味しています。苦しみの中でこそ、自分自身の存在が何であるかを確かにしておければ、私達は改めて立つものとなれるのではないでしょうか。
 今朝の御言葉の29節から30節までをお読みします。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」
 私達は、一体何者なのでしょうか。一つは、「御子に似た者です」。これは何を意味しているのでしょうか。これは、キリストが、神の子であるように、私達も神の子であるということです。そして、キリストが十字架で死んで復活したように、私達も又、罪に死に、復活の命を得るのだということです。
 しかし、私達は、キリストに似たものであって、キリスト御自身になるわけではありません。キリストは、あくまでも私達の長子であり、私達を養ってくださる御方。その御方と共に生き、その御方と共に神の子どもとして生かされ、その御方が生きるように、私達もまた、死を越えて生きることができるということです。
 到底、キリストに似つかわしくない者であったとしても、あなたは、キリストにあって、神の子であり、死を越えて神様の家族としていきられる。どのような苦しみが襲いかかってきたとしても、あなたがキリストによって、神の子であることは変わらない。そして、復活の命に与っていることに変わらない。そう信じて生きてよいのです。
 二つ目に大切なことがあります。それは、私達が、「義とされ、栄光を受けている存在」であるということです。「義」とされるとは、「神様の目に相応しいものとされる」ということです。人間が、人間の力で正しくなることはできません。私達は弱いからです。
 しかし、神様は、この弱い私達を選び、呼び出してくださり、キリストを通して、神様が、私達を義としてくださる。そして、神様の栄光を受けるものとしてくださるのです。 これは、決して、将来のことではありません。神様は、既に、私達を義と認め、栄光を与えられたのです。今、私達は、既に、神の目に正しいものとして受け入れられ、栄光を受けているのです。どのような弱さを抱えていても、どのような苦難を抱えていても、その闇よりももっと大きな憐れみと愛をもって、神様は、この私を、このあなたを受け止めていてくださるのであります。
 ここで重要なことは、この私には、何の力もないということです。ただ、弱いだけの存在です。それが、私達の現実的な姿です。
 しかし、神様は、こんな私を、キリストによって、愛してくださり、聖なるものとしてくださり、神様の救いのご計画の中に入れてくださり、生まれる前から知っていてくださり、そして、栄光を受けるために定めてくださった。私達によるのではなく、ただただ、神様の一方的な恵みの中で生かされていく。これが私達の今の姿なのです。
 そして、この深い恵みを思い起こして生きる時、私達は苦難を越えて生きられる。この苦難が空しくなる。その幸いこそが、ここから強く現されているのです。
 私達には苦しみがあるのです。弱さがあるのです。しかし、その苦しみを誰よりも近くで知っていてくださり、神様の目に正しい道へと導いてくださる。どんなに弱く、貧しいものであったとしても、あなたはわたしの家族だといってくださる方がいる。どれだけ罪に満ちていても、あなたは、御子によって、義とされている。栄光を受けている。そう教えてくれる御方がいる。どれだけ人生の中で挫折を経験していても、「私があなたを選んだのだよ」といってくださる御方がいる。この深い確信を、私達は御言葉から、あるいは聖霊を通して味わい知るものとされているのではないでしょうか。この恵みを心に留めつつ、新たに歩み出す者でありたい。そして、礼拝に繋がっていく生活をこれからも大切にしていきたい。そのように願うものなのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:59| 日記