2018年01月21日

2017年1月28日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」
聖書:マタイによる福音書5章34節〜37節
※礼拝後、分級を行います。
※保護者の方々も、是非、共にお越し下さい!

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「変わらぬ愛」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙8章35節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:30| 日記

2017年1月21日 主日礼拝説教「誰も罪に定められない」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章31節〜34節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章31節〜34節の御言葉です。31節をお読みします。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」
 私達にとって、神様が味方でいてくださるということ。これは、大きな幸いです。宗教改革者カルヴァンは、次のように語りました。「『神が味方である』ということこそ、私達の唯一の支えである。これがなければ、どれだけ幸福の中にあっても、確かな支えがない。これがあれば、どんな苦しみ、悲しみ、逆境の中にあっても私達は支えられる。」
 どれだけ幸福であっても、神様が味方ではない人生には、確かな支えがない。逆に、どれだけ貧しく、惨めな人生であったとしても、「神様が私の味方でいてくださる」と信じられる人生は、確かな支えをもった人生なのだと言うのであります。その通りだと思います。
 ここで大事なことは、「『神が』わたしたちの味方であるならば」と記されていることです。「私が神の味方」になるのではないのです。「私が神を味方として選んだ」わけではないのです。「神様が、私の味方になってくださった。」「神様が、この私を味方として選んでくださった」のです。これが、ここで大切なことなのであります。
 これは当たり前のことなのでしょうか。つまり、私達が、神様の味方に相応しい生き方をしていたから、ご褒美として、神様は、味方になってくださったのでしょうか。
 それは違います。ローマの信徒への手紙5章10節には次のように記されています。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」
 今、読んで分かりましたように、私達は、かつて「神様の敵」だったのです。しかし、神様は、「神様の敵」であったはずの私達の側に立って味方でいてくださるのです。つまり、神様が私達の味方であるのは、決して当たり前のことではないのです。それ自体が、大きな憐れみ、情けに満ちたものなのであります。
 本来は、神様に滅ぼされていても仕方のない敵の側にいたのです。そんな私達の側に神様が立っていてくださるのです。神の敵であったはずの私が赦されて、神様が私の味方でいてくださるということ。それほどまでに、神様は私達を憐れんでくださるのです。
 では、神様が、私達の味方であるということ。その証拠はどこにあるのでしょうか。32節をお読みします。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
 神様が、私達の味方であることの一番の証拠。それは、神様が、私達のために御子を惜しまず死に渡されたということです。かけがえのない独り子を、死に渡されたということが、神様が味方であることの証拠です。
 何のために、神様は御子を惜しみなく与えられたのでしょうか。神の敵であった私達の償いのためです。神と人とを和解させる犠牲のためです。そのために、神様は、御子を惜しみなく、この世に与えられ、まるで犠牲の動物を捧げるかのように、十字架に架けられた。そして、その死をもって、神と人との和解を成立させてくださった。かけがえのないものを捧げてしまうほどに、神様は、私達と和解して繋がることを望み、私達の味方でいることを望まれたのです。これが、神様が味方であることの証拠となります。
 このような神様の計り知れない憐れみを前にして、誰が敵対することができるのでしょうか。独り子さえ惜しみなく与えてくれた神様が、私達の味方でいてくださるのです。かけがえの無いものを捧げてしまうほどに、私達を大切にしてくださる神様なのです。惜しみなく捧げる神は、私達に惜しみなく必要な恵みを備えてくださるでありましょう。そのような神様が、今、私達の側に生きておられる。だから、何も恐れる必要は無い。ここに、クリスチャンであることをの大きな恵みがあると言えるのではないでしょうか。
 今朝の御言葉の33節から34節をお読みします。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
 神様は、「裁き主」とも呼ばれます。つまり、神様は、ただ一人、正しい御方です。悪人であろうと、あるいは、善人であったとしても、最後の最後に、その人の善悪を裁かれるのは、神様だけであります。
 そのような最高の裁き主である神様が、御子をさえ惜しみなく捧げてまで、この私の味方でいてくださるならば、もう、誰も、私を裁くことはできないはずです。罪に定めることはできないはずです。ただ一人、正しい御方が、私達を愛し、罪を赦してくださる。御子の命によって、私達を神様の目に相応しい者としてくださる。そして、この私の側に立っていてくださる。そうであるならば、誰が、この私を罪に定めることできるのか。それが、ここで強く言われていることなのです。
 しかし、それでも、私達は、自分の救いが信じられないかもしれません。自分を顧みながら、自分が救われているか不確かになってしまうことがあるかもしれません。
 しかし、私達の傍らにいる御方は、誰でしょうか。「復活のキリスト」です。今も生きておられる御方です。その御方が、私達と神様とを執り成してくださいます。「執り成す」とは、「神様と私達の仲裁に立ってくださる」ということ。あるいは、神様に対して、私達を弁護してくださるという意味でもあります。神の右というのは、神の権威を表していますが、同時に、裁判官に対しては弁護人の席でもあると言われています。
 つまり、主イエス・キリストは、神と人との間にあって、仲裁してくださる方だけではなく、私達の弁護人として、生きていてくださる。そのような御方が、私達と共に生き、そして、神と私とをいつも結びつけてくださる。その幸いを味わいながら生きるのが、クリスチャンであります。
 礼拝を通して、祈りの生活を通して、今も、キリストが共に生き、神と私との間にあって、私を執り成してくださり、弁護してくださる。その幸いを味わい続けることができるのです。
 私達は、何も恐れることはありません。御子を惜しまず捧げてしまうほどに、私達は、神様にとって大切な存在です。私達は、何も恐れることはありません。私達と神様との間には、いつも、キリストが生きて働かれます。私達を慰め、励まし、そして、神様との関係をいつも修復してくださる。だから、何も恐れることなく、ただ、神のみを畏れ、自由に今を生きて良いのです。その幸いを受け止めつつ、新たに歩み出すものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:24| 日記