2018年02月27日

2018年3月4日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「盗んではならない」
聖書:1テモテへの手紙6章6節〜10節
※礼拝後、誕生日祝福の祈りがあります。また、絵本の読み聞かせがあります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「真実を語る」須賀 工牧師
聖書:ローマの信徒への手紙9章1節〜2節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:55| 日記

2018年2月25日 主日礼拝説教「愛を確信する」須賀 工牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章38節〜39節

 今朝、私達は、受難節第二主日礼拝を迎えています。「受難節」とは何でしょうか。それは、「主イエス・キリストの十字架の苦難と死を偲ぶ時」であります。
 主イエス・キリストは、何のために十字架の死を受けられたのでしょうか。それは、「私達の救い」のためであります。つまり、神様は、この私達を救うために、御子を惜しみなく死に渡されたことになります。御子を惜しみなく死に渡されるほどに、断固として、神様は、私達をかけがえのないものとしてくださった。ここに、キリストを通して表される、「神様の愛」があります。
 聖書には、「罪」という言葉があります。聖書における「罪」とは、「的を外す」という意味があります。つまり、私達の生活の中心である神様から「外れてしまう」こと。これが聖書の示す「罪」です。少し言い方を変えて申し上げるなら、「罪」とは、神様を中心とすることから外れ、自分を中心としてしまうこと。これが、「罪」であります。
 自らを共に省みてみましょう。私達は、それぞれの生活の中で、「自分が正しい」と言えるでしょうか。神様を生活の中心に据えられて、そこから外れることなく、主の目に完璧な生活ができていると言えるでしょうか。もし、「自分には罪がない」というならば、それは、神様を必要としないことであり、実は、そこにも罪の陰があると言わざるをえません。
 そう考えるならば、人間は誰もが、例外なく、勿論、牧師自身も含めて、「自分が正しい」とは、言えないはずであります。少なくても、神様の御前では、自分を正当化することなど不可能でありましょう。
 本来、「罪人」は、どうなるのでしょうか。裁きを受けます。しかし、神様は、裁くためではなく、救うために。見捨てるためではなく、和解するために。滅ぼすためではなく、生かすために。断罪するためではなく、和解するために。御子イエス・キリストに罪を背負わせた。そして、私達の代わりに償わせたのであります。御子を惜しみなく犠牲とされたのであります。本来、痛みを負うことのない御方が、御子を惜しみなく死に渡されることによって痛みを負われた。そこまでして、私達を断固として大切にしてくださる。ここに神様の愛があるのです。
 そして、その「愛」は、決して揺らぐことはありません。正に、断固たる愛であります。私達の罪が、どれだけ大きいものであったとしても、神様の断固たる愛は変わらない。神様が永遠であるならば、この断固たる愛もまた永遠なるものなのでありましょう。
 この断固たる愛を味わいながら生き、この断固たる愛の中で、永遠なる神様と永遠に結ばれて生きることが許されている。そのところにこそ、私達の幸いがあるのです。
 人間の思い描く幸福は、いつかは過ぎ去るものです。しかし、神様の愛は過ぎ去らない。最後まで残り続ける。それぐらい、強力であり、確かなものであります。そして、それを確かにしながら生きていける。あるいは、それを確信しながら、主のもとへと召されていける。そのところにこそ、私達キリスト者の生涯がある。そのように言えるかもしれません。私達は、生きるにしても、死ぬにしても、そのような神様の断固たる、確かな愛の中にいるのであります。
 しかし、この世において、私達の罪が、完全に取り去られているわけではありません。この世にある限り、私達と罪の問題は、切り離せない問題でもあります。即ち、この世は、神様と私達を切り離そうとする。そういう力に満ち溢れているのだと言えるでしょう。あるいは、神様の愛が一層深まるところでこそ、私達の罪が、様々な形で、力を増して襲ってくる。そういうこともあるだろうと思うのです。
 今朝の御言葉を改めてお読みします。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も」ここに記されていることは何でしょうか。それは、「神様の愛から私達を引き離そうとする力」であります。つまり、ここで改めて、私達は、私達の罪の問題と向き合うことになるのであります。
 「死」とは何でしょうか。「死」とは、「命が絶えること」です。あるいは、「命が奪われること」でもあります。命が奪われ、命が絶えることは、とても耐えられないことであり、辛いことでもあります。出来ることならば、「命を奪われたくない」、「命が絶えて欲しくない」。そう感じることもあるかもしれません。これが人間の素直な姿であると思います。
 それでは、なぜ、私達は、「命を奪われたくない」と感じるのでしょうか。それは、私の命が「自分の命」になっているからであります。神様によって与えられた命が、自分のものになっている。神様を中心とした命ではなく、自分を中心とした自分の所有物のような命になっている。だから、絶えていくことが恐ろしく、奪われることに不安を抱えるのであります。
 「生きることも死ぬことも、全てが主のものである」と教えていたはずの、私の父は、最後まで「死にたくない」と叫んで死んでいきました。どれだけ、信仰深い人生を送っていても、死の影の中では、自分の命が絶えることを恐れ、そして苦しんだのであります。
 「死」を深く意識することを通して、実は、人間がいかに自分の命を自分のものにしてきたか。それがはっきりと良く分かるのかもしれません。そのような意味で、「死も命も」、私達を神の愛から引き離そうとする恐ろしい力となることを、いつでも、心に留めて置くべきなのかもしれません。
 「天使も支配者も」、私達の罪を明らかにするものです。これと関連して、「高い所にあるものも低い所にあるものも」、私達の罪を明らかにします。実は、ここにある言葉には、共通していることがあります。それは、どれも、「人間の運命を導くもの」と考えられていました。
 例えば、「天使」は、「人間の運命を導く役割がある」と考えられていました。「支配者」とは、この地上の「支配者」のことではありません。「目には見えない力で人間の運命を先導する力」のことを表しています。「高い所や低い所」という言葉は、元々、天文学的用語であり、同時に、占星術の言葉でもあると言われています。これもまた、「人間の運命を導く力」に関わる事柄でありましょう。
 私達は、時々、この私を「幸福へと導く何か」に、より頼むことがないでしょうか。神様の御心よりも、「幸福に満ちた運命」へと導いてくれる。そのような、目に見えない力を必要としてしまうこと、そういう力を頼りにしてしまうことがないでしょうか。
 私達が、より頼むものは、目に見えないものだけと限りません。現在の苦しみを取り除き、幸せにしてくれるもの、将来の幸せを保証してくれるもの、幸福をもたらす力ある者、自分を幸福にするだろう「神以外の被造物」。自分を幸せにしてくれるものであるならば、神以外のいかなるものであってもより頼んでしまうことがあります。それが、目に見えなくても、目に見えていても同じことです。
 それは言い換えるならば、神の御心、神様の御意志を中心とするのではなく、自分を中心とした人生、自分が幸せであれば良い、という自分中心の生活を求めていることではないでしょうか。また、その意味で、先ほどの「死と命」の問題も、ここに関わっているのだと言えるかもしれません。
 実は、私達の「罪」の問題とは、正に、このところにあるのです。神の的から外れていく人生とは、こういう人生なのであります。自分の生涯を自分だけのものとして「死と命」を捉え、自分の思い描く幸福だけを求めては、神ではないものに頼ろうとする。ここに私達の罪の現実が具体化されていくのであります。
 しかし、パウロは記します。人の罪が、いかなる深い罪であったとしても、「神様の愛から私達を引き離すものはない」のだと。人間が、自分を中心とする人生を歩んでいたとしても、神は、そのような人間を見捨て、裁くのでなく、御自身の御子を犠牲としてまでも、断固として愛し抜かれるのであります。人間の弱さ、罪深さを知りながらも、御子イエス・キリストを惜しみなく、犠牲の死に渡されるほどに、私達を大事に思い抜いて下さる。ここにキリストを通して示される、神の愛があるのだと宣言するのであります。
 そして、この愛は、決して奪われないのです。そうであるならば、生きることも、死ぬことも、あらゆる、私達の生涯もまた、神様のとらえがたい大きな愛の中にあるのだと言えるでしょう。どんな人間であったとしても、この愛から離れることはない、いや離れられないのだということなのであります。
 だから、いつでも、私達は立ち返れるのです。いつでも、神の愛を教えられ、神の愛の中にあることを味わいながら歩むことができるのです。神の愛の中にあることが、他のどんなものよりも幸せであるということ。ましてや「死」すらも、その幸いを取り除けないのだということ。そのことを深く味わいながら生きることができるのであります。
 「私は確信しています」とあります。「確信する」という翻訳は正しくありません。「確信させられる」という翻訳が正しい翻訳です。私達が神の愛を信じるのではなく、私達が、神の愛を信じるように、神様が、いつでも、その愛を聖霊によって与え続けて下さり、私達を確信へと至らせるのであります。
 この大きな幸いを深く心に留めながら、キリストの十字架の意味を改めて思いお越しつつ、受難節の時を共に過ごしていきたいと願う者であります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:52| 日記

2018年02月23日

2018年2月18日 主日礼拝説教「わたしたちはキリストの手紙」須賀 舞姉

聖書:コリントの信徒への手紙二 3章1節〜6節

 本日与えられた御言葉は、コリントの信徒への手紙二3:1-6です。ここだけを抜き出して読みますと、文脈を知らない方には、話の論点が少し分かりにくいかもしれません。この御言葉が語られる背景には、パウロとコリントの教会との対立がありました。それは、教会内に、パウロの「使徒としての働き」を疑う人が、現れたということに端を発する問題でした。それがどのような問題であったかは、本日の御言葉以前の章を読んでいただければ、お分かりになると思います。恐らく、パウロは教会の兄弟姉妹の誰かから「あなたは本物の使徒なのか疑わしい。」と言うようなことを、言われたのでしょう。確かに、パウロは十二使徒、つまり、イエスさまが選ばれた十二人の弟子ではありませんでした。そのようなこともあってか、教会内にパウロが本物の使徒なのか疑わしいと思う人がでてきたのです。パウロは、このように教会に問題が起きる度に、教会が悔い改めて主の方に向くことができるよう手紙を書き、導き、また時には厳しく教えてきたのです。本日の箇所も、そのような事情があって書かれた手紙でありました。
 1節は、パウロが、自身の「推薦状」の問題について、語るところから始まります。これは、先ほど申し上げた、教会内にいたと思われる、パウロを批判する者への反論であると考えられます。「またもや」という言葉からは、この議論が以前から繰り返されてきたものであることが分かるでしょう。しかし、パウロは、教会内に生じた自分への批判を受けて、今一度「使徒」とは何かについて、また、救われた者に与えられている「宣教の任務」とは何かについて語る必要を感じていました。
 パウロは、この問題を、教会のアイデンティティーに関わる、重大な問題だと捉えていました。元来、教会とは、「使徒的教会」であると伝統的に信じられてきました。それは、キリストから与えられ、継承されてきた使徒的信仰の上に、教会が建てられているという考えです。従って、コリントの教会はパウロがコリントで伝道活動をして建った教会でありましたから、パウロの使徒職を疑うということは、コリントの教会の土台を揺るがすことに繋がってしまいます。そのような危機感の中で、パウロは、1節でこう問いかけるのです。「私の使徒としての働きを保証するために、私は自分で自分の推薦状を書いているのでしょうか。それとも、他の人からの推薦状や、コリントの教会からの推薦状が必要なのでしょうか。」
 しかし、その答えは、コリントの教会の人たちにとって、意外なものでした。コリントの人達は、恐らく世間一般的な推薦状、地位ある人からの推薦状や、パウロの使徒としての功績を書き並べた推薦状を思い描いていたことでしょう。しかし、2節をご覧ください。パウロの手紙には「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」とあるのです。つまり、パウロは、コリントの教会こそが、パウロがどのような伝道者かを明らかにする、十分かつ唯一の推薦状だと言うのです。これは、教会の人々が、神によって救われているという事実、そして、教会が今もこれからも立ち続け、主イエスの福音を宣教し続けていくという事実こそが、パウロの使徒としての生きた証拠であるということなのです。
 3節において、パウロは、コリントの教会がパウロの推薦状であるだけではなく、「キリストがお書きになった手紙」であると言います。パウロの推薦状は、いかにパウロが伝道者として優れているかという内容でもなければ、パウロが建てた教会がどんな立派な教会だという内容でもないのです。それは、キリストを証しする「キリストの手紙」でなければならない。このように、パウロは強調するのです。
 ところで、わたしは、昔、ある友人から「キリスト教は言葉の宗教である」と言われたことがあります。それは、あながち間違いではないと思います。創世記の初めでも、神様は言葉をもって天地を創造されました。また、主イエスの時代から初代教会の時代、そして現在に至るまでも、信仰者や教会は神の言葉によってその信仰を養われてきました。そして、新約聖書が書かれた時代においては、「手紙」は、神様の言葉を伝達する手段として説教と並ぶほど重要なものでありました。事実、新約聖書の中にも多くの「手紙」が納められています。それらは、教会で説教として朗読されていました。ここでパウロは、教会は、そのような神様の言葉を伝える「手紙」そのものであると語るのです。
 では、「キリストの手紙」とは一体どのような手紙なのでしょうか。言い替えるなら、教会は「キリストの手紙」として、何が書かれ何を伝えるべきか、ということになります。御言葉を読みますと、「キリストの手紙」には2つの特徴があります。それは、「人の心に記されていること」と、「全ての人に公にされていること」です。
 まず、「人の心に記されている」ということについてご一緒に考えてみたいと思います。2節には、「それは(つまりパウロの推薦状は)、わたしたちの心に書かれており」とあります。わたしたち、とはパウロやパウロと共に伝道活動をしていたテモテのことです。「キリストの手紙」は、パウロ達の心に書かれているものであるとパウロは言うのです。また、3節には、「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」とあります。これは、旧約聖書からの引用です。「石の板」とは、出エジプト記において、モーセが神から授かった「石の板」を想起させます。つまり、これは、「石の板」に記されていた十戒、即ち律法を表していると言えるでしょう。それに対して、「人の心の板」とは、本日お読みしましたエレミヤ書の箇所やエゼキエル書の預言からの引用であると考えられます。3節では、特に、エゼキエル書11:19からの言葉を用いています。それは、神様はイスラエルの民に一つの「心」、新しい「霊」を授け、肉から「石」の心を取り除き、「肉の心」を与えるという、言葉であります。エゼキエルの預言にも「石」と言う言葉が出てきます。これも、石の板に記されたモーセの律法を思い起こさせる言葉です。神様が授けた律法を、イスラエルの民は、守ることができませんでした。それは、わたしたちも言えることでしょう。人は、神様との契約を破ってしまうことから抜け出すことができない存在です。それを、聖書は「罪」と言うのです。
 しかし、主イエス・キリストの十字架によって、人は罪赦された存在に変えられました。エゼキエル書11:20には「新しい契約」が授けられる目的が、次のように記されています。「彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。」つまり、神様が人を、神様の御心に適った者とされるために、この契約が与えられたのです。神様との関係に破れ、罪に沈んでしまったわたしたち人間が、もう二度と神様との約束を忘れたり破ったりしないように、神様はわたしたちの「心」に新しい約束を記してくださるのです。それが、わたしたちの主イエス・キリストです。神様は、わたしたちの罪の贖いのために、イエスさまをこの世に送ってくださいました。そして、イエスさまの十字架の死と復活によって、わたしたちは罪赦され神様の御心にかなう者とされたのです。かつて、旧約聖書の預言者が伝えた「新しい契約」の預言が、主イエスにおいて成就したのです。そして、神様は生ける神の霊、即ち聖霊の働きによって、この救いの約束を、わたしたちの心の内にも実現されるのです。
 恐らくパウロはこのことを念頭に、エゼキエルの預言を引用して「キリストの手紙」を説明したのでありましょう。したがって、「人の心に記される」その「キリストの手紙」の内容は「イエス・キリスト」そのものであると言えます。人の心、即ち、パウロ達やコリントの教会の人たち、そしてわたしたちを含めた全ての信仰者の心に「イエス・キリスト」が記されているのです。
 「キリストの手紙」のもう一つの特徴は、それが「全ての人に公にされている」ということです。それは、教会が「公同の教会」であり、キリストの体なる「一つの教会」であるということを意味します。先ほども申しましたが、信仰者とは、生ける神の霊によって、「キリスト」を心に書き記された者達です。その意味で、信じる者はキリストと一つであると言えます。同時にそれは、全世界の、また、歴史上の全ての教会が、ただひとりのキリストによって一つにされていると言う事でもあります。つまり、キリストが信仰者の心に刻まれるということは、あらゆる場所、あらゆる人種・民族、違いや差別や距離を超えた、唯一無二の普遍的な真理のもとで教会が一致するということなのです。
 「キリストの手紙」とは何か。それは、キリストがお書きになった手紙です。そこに記された内容は、キリストです。つまり、ただキリストによるキリストを伝えるために書かれた手紙なのです。そしてそれは、教会とは何かということでもあるのです。
 4節からは、議論のポイントが変わります。ここでは、コリントの教会が「キリストの手紙」であるという確信が、どこからくるのかが語られていきます。パウロは、キリストによってこのような確信を神の前で抱くのだ、と言います。
 「キリストによって」それは、ギリシャ語の原典を直訳すると「キリストを通って」、もしくは「キリストを経て」となります。「〜によって」という前置詞は事物や事象を時間的、あるいは、空間的に通り抜けるという意味の言葉であります。つまり、噛み砕いて言うならば、教会は「キリストの救いを経験して」このような確信を抱く、と言う事もできるでしょう。
 歴史の中で、ただ一回起きた救い主イエス・キリストの十字架という、神の人類救済の出来事は、今を生きる、わたしたちの救いの出来事でもあります。しかし、教会に来られて日が浅い方は、このように思われるかもしれません。「2000年以上前の出来事が、どうしてわたしの救いになるのか?」しかし、今、わたしは、この問いに対してはっきりと答えたいと思います。それは、今を生きるわたしたちにも、キリストの救いを経験する場がある、ということです。実は、今ここでわたしたちが捧げている礼拝、そして礼拝の中で行われる聖礼典こそが、キリストの救いを経験する場であります。わたしたちは、礼拝と聖礼典を通してイエス・キリストを経験し、心の中に刻まれた「キリスト」がより深く濃いものとされていくのです。
 5節では、キリストを証しする者としての資格は、ただ神によってのみ与えられるということが強調されています。キリスト者が、そして教会が、この世においてキリストを宣べ伝えていく上で、人の力は何一つ意味をなしません。大切なことは、「キリストの手紙」は、私たちが書いた手紙ではなく、キリストがお書きになった手紙だということです。わたしたちは自分の力で信仰を獲得したのではなく、ただ神からの一方的な恵みによって信仰をあたえられました。同じように、教会も、人によって建っているのではなく、キリストの体としてキリストを頭に、神に召された者達の奉仕によって建っているのです。
 パウロは、自分自身を、元々はキリスト者を迫害し、律法で他者を裁くような「罪人の頭」だと言います。また、コリントの教会の中には、パウロのことを「手紙では強気だが、面と向かって会うと弱腰だ」と思う人や、「会ってみると話のつまらない人だ」と思う人がいたようです。ここだけを見ると、パウロは世間一般では、何の取り柄も無く、罪にまみれただめな男であったかもしれません。しかし、パウロは自分の力のなさを誇りとします。なぜなら、何の輝きも持たない自分だからこそ、ただ神の栄光がより光輝くからです。パウロは使徒として多くの功績を残しつつも、それを自らと共におられた神の働きであると言います(コリントの信徒への手紙一15:10)。自分から出るものは何一つないと、パウロは徹底的に自分を捨て、神様だけを伝えることにこだわったのです。
 6節には、「新しい契約」という言葉が語られます。これは、本日お読みしました、旧約聖書のエレミヤ書で語られる「新しい契約」の預言からの引用です。実は、新約聖書ではこの「新しい契約」と言う言葉は、コリントの信徒への手紙一11:25と本日の箇所の2カ所しか登場しません。コリントの信徒への手紙一11:25は、主の晩餐の、特に主イエスの血を記念する杯に関する箇所であります。この箇所は、同じく主の晩餐を伝える、マルコによる福音書14:24をパウロが語り直している箇所であるとも考えられています。マルコによる福音書には、直接的に「新しい契約」という言葉は語られていませんが、イエスさまはその杯を「契約の血」であると言われます。つまり、このことからも、本日の御言葉にある「新しい契約」は、主の晩餐、つまり礼拝の中で執り行われる聖餐と、密接な関係を持っていると考えられるのです。これは、イエスさまの十字架の出来事が、エレミヤ書31:31以下で語られる「新しい契約」の締結として信じられてきたということを意味します。十字架と終末の間の期間、つまり、今私たちが与る聖餐式は、「新しい契約」を共有する、兄弟達の交わりの機会であると言うことができるでしょう。そして、聖餐式を行うということは、教会が主の再臨の時まで、絶えず主の死を宣教することなのです。正にこれは、キリストを証しすることを、この世に具現化した形であります。そしてこれは、教会の宣教の業の核となる部分でもあるのです。
 パウロは「新しい契約に仕える」ことを「霊に仕える」ことであると言い替えます。教会の使命は、全ての人に神の義を取り次ぐことです。それは、全ての人にイエスの十字架の救いと真の命を与える働きです。しかしそれは、そこに集まる人々の努力では達成されません。神様が教会に臨んでくださり、聖霊を通して教会を用いて働かれることによってのみ達成される使命なのです。文字、即ち、文字として石の板に書かれた律法は人に罪の意識と死を宣告します。しかし、霊の働きは、イエスの十字架によって明らかにされた神の義を示し、人はそれによってイエス・キリストの命に与ることができるのです。
 パウロが、本日の御言葉を通して語りたかったこととは一体何であったのでしょうか。一言でその問いに答えるならば、それは、「教会とは何か」ということでありましょう。そしてそれは、「わたしたちの教会とは何か」ということでもあります。パウロは、教会を、「キリストの手紙」として公にされる存在であり、「新しい契約に仕える」存在であり、「霊に仕える」存在であると言います。そして、教会の使命とは「全ての人へのキリストの十字架の福音宣教」であると、本日の御言葉は強く示しているのです。わたしたちの教会は、その原点に常に立ち続けているでしょうか。原点、それは、礼拝と聖礼典です。わたしたちは毎週の礼拝を大切にする群れでありたいと願います。聖餐に与り、キリストの血による赦しの恵みを噛みしめ、自らの心に刻まれた「キリスト」を深める群れでありたいと願います。そして、自らが神様から受けた恵みを、声高らかに宣べ伝えていく群れでありたい、そう思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:34| 日記