2018年02月12日

2018年2月18日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「殺してはならない」
聖書:1ヨハネ3章12節〜16節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「わたしたちはキリストの手紙」須賀 舞姉
聖書:2コリント3章1節〜6節
※礼拝後、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:26| 日記

2018年2月11日 主日礼拝説教「最後に愛は勝つ」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章37節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章37節の御言葉です。改めてお読みします。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。」
 「勝利」とは何でしょうか。「勝ち組」という言葉があります。社会での競争に勝った人を「勝ち組」と呼ぶそうです。しかし、「勝ち組」が、絶対に勝てないものがあります。それが、「死」です。たとえ、社会の競争に勝ち、世界の頂点に立ったとしても、「死」に打ち勝つことはできません。その意味で言うならば、この地上における真の「勝利者」とは、「死」なのかもしれません。
 聖書の原語・ギリシア語で「勝利」という言葉は、「終末論」と深く関わっているそうです。もう少し簡単に申し上げると「終わりの日に残るもの」。それが「勝利」です。もう少し砕いて言うと、「最後の最後まで残るもの」。それが「勝利」であると考えられているそうです。
 人間にとって、最後に残るものとは何でしょうか。「死」であります。どれだけ、豊かな人生であったとしても、どれだけ成功した人生であったとしても、目に見える豊かさというものは、全て「死」に敗北します。目に見える豊かさには、必ず限界があり、死を越えることはできません。たとえ、沢山のものを得た人生であったとしても、死んでしまえば、その人の手には何も残りません。「死」とは、それほどまでに強力であり、最後に立ちはだかるものであり、そして、それ故に、この世の勝利者なのであります。
 これは、決して、クリスチャンである私達にとっても無関係ではありません。クリスチャンにも「艱難」があります。「苦しみ」があります。「迫害」や「飢え」、「危険」があり、そして、それらと直結する仕方で「死」があります。クリスチャンであっても、死から逃れることはできません。その意味で、やはり「死」こそが、最強の敵であり、最強の勝利者であると言わざるを得ないかもしれません。
 しかし、今朝の御言葉は、次のように記しています。改めてお読みします。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」。
 「わたしたちは勝利を収めている」のです。「これから勝利を得る」のではありません。もう、「既に勝利を収めている」のです。何に対して勝利を収めているのでしょうか。「これらすべてのこと」。即ち、「全ての苦難や死」から勝利を収めているのであります。
 つまり、クリスチャンとは、「死に勝利した存在」であります。「最後まで残されていく存在」であります。もう少し言い方を変えるならば、「永遠なる存在」であります。この輝かしい勝利は、いつか得られるものではありません。今、もう既に、そのような存在として生かされているのであります。「たとえ、目に見える肉体が滅んでも、この私は神様の御手の中で、神様と共に永遠に生きる。」私達は、もう今から、このように死に対して勝利宣言をしても良いのです。
 しかし、忘れてはいけないことがあります。私達は、私達の力で、勝利を収めたわけではありません。「わたしたちを愛してくださる方によって」、即ち、主イエス・キリストによって、死に対しても、あらゆる苦難に対しても、私達は勝利を収めているのです。
 主イエス・キリストは、仰せになります。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」私達の主、イエス・キリストは、復活の主です。死に勝利した主です。そして、この復活の主に結ばれていくことによって、私達もまた、死に勝利するのであります。人間が「死」に打ち勝つことはできません。死に勝利することはできません。人間が人間の力で、真の勝利者になるのではありません。
 しかし、主は復活された。死を越えて行かれた。この主と固く結ばれていくことによって、初めて、私達は死に勝利することができる。輝かしい勝利を収めることができる。この幸いは、「いつか」得られる幸いでありません。今、もう既に、私達は、キリストと結ばれ、勝利を収めているのです。
 今も、主イエス・キリストと私達は、固く結ばれています。二つのものが一つに固く結ばれる。ここに「愛」があるとするならば、キリストと私達の間には、確かな愛の絆があると言えるでしょう。この愛は、決して揺らぐことはありません。いや、「死」すらも、この愛の絆を取り去ることはできない。正に、死に打ち勝って最後に残るのが、キリストと私達との愛の絆。正に、「最後に愛は勝つ」のであります。
 しかし、それでも、私達は不安になります。本当に救われるのだろうか。本当に死に勝利しているのだろうか。肉体は衰え、朽ちていくのであります。そういう迫り来る目に見える変化の中で、平安を見出せない。そういうこともあるだろうと思うのであります。
 パウロは、次のように記しています。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」。
 実は、「勝利を収める」という言葉は、正しい訳ではありません。ギリシア語の原文によれば、「勝利を収める」という言葉は、二つの単語を合わせて、一つにした言葉で出来ています。一つは「勝利」という言葉。そして、もう一つは「更に加えて」という言葉です。つまり、ただ「勝利」するだけではないのです。「勝利」に「おまけ」がついてくるのです。そのところから、口語訳聖書や文語訳聖書では、「勝利してなお余りある」と訳しています。この訳の方が、まだ正確であると言えるかもしれません。
 では、「勝利」についてくる「おまけ」とは何でしょうか。実は、人間というのは、「勝利」だけでは安心できないものなのです。なぜでしょうか。「勝利」した人間とは、いつでも、敗北者に狙われた存在です。それ故に、「いつかは負けてしまうのではないか」と恐れながら生きるのが「勝利者」であります。私達もまた、勝利者であるが故に、罪や悪、死の力を恐れながら、いつかは負けてしまうのではないかという不安を抱いて、今を生きているのかもしれません。
 では、「勝利」についてくる「おまけ」とは何か。それは、この勝利が「揺るがないもの」であり、「絶対的なもの」であるということの「保証」や「安心」なのであります。 では、どこで、その「安心」を味わうことができるのでしょうか。それが、「礼拝」であります。「御言葉」であります。あるいは、目に見える形で言うならば、「洗礼」や「聖餐」でありましょう。
 神様は、ただ、キリストを通して、勝利を与えられただけではないのです。勝利を受けた私達が、この地上にあって、その愛を確信し、勝利を確信できるように、いつでも、御言葉をもって、私達を養っていてくださり、励まし続けてくださる。あなたは大丈夫だ。安心して良い。あなたはちゃんと勝利している。今も、そして、これからも、キリストは、生きて、私達に語り続けておられるのです。ここにこそ、「勝利してなお余りある」幸いがある。そして、その幸いを今も、これからも永遠に、味わい続けることができる。そこに私達の姿があるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:23| 日記