2018年03月26日

2018年4月1日 礼拝予告−復活祭−

〇教会学校 9時15分〜
主題:「主イエスの復活」
聖書:ルカによる福音書24章1節〜12節
※礼拝後、誕生者の祝福と絵本の読み聞かせを行います。
※保護者の方々もぜひ、ご出席ください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「復活の主」須賀 工牧師
聖書:ヨハネによる福音書20章1節〜10節
※礼拝後、祝会−茶話会−が行われます。会費は無料です。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:54| 日記

2018年3月25日 主日礼拝説教「神様の選び」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒へ手紙9章6節〜7節

 神様は、約束してくださいました。その約束とは、「神様の民を救う」ということです。もう少し詳しく申し上げると、「神様の民を祝福し、彼等を神の国に入れ、そして、彼等と共に永遠に生きてくださる」ということです。神様の民として、あるいは、神様の子どもとして、神様に祝福され、神様の御国に招かれ、神様と共に永遠に生きることができる。こういう大きな喜びを約束してくださいました。
 しかし、ここで一つの問題があります。それは、「神様の民」とは、誰かということであります。神様の民であり、あるいは神様の子どもであり、あるいは、神の国に国籍を持つ人。それは、一体どういう人のことを言うのでしょうか。
 イスラエル人と呼ばれる人たちがいます。彼等は、自分たちこそ、「神様の民」だと信じていました。その根拠の一つは、彼等の先祖に「アブラハム、イサク、ヤコブ」がいたことによるものであります。つまり、彼等は、血の繋がりを重んじていたということになります。
 そもそも、「アブラハム」「アブラハムの子イサク」「イサクの子ヤコブ」とは、何者なのでしょうか。彼等は何者でもありません。特別に優れた人たちであったわけでもなく、力や権威をもった人々でもありませんでした。人間の目から見れば、特別な存在ではない、平凡な人間であります。いや、むしろ、弱さもあり、欠けも多く、失敗もよくする人間であります。その意味で、私達と何も変わらない単なる人間であります。
 しかし、その彼等が、「神の民」とされたのは何故でしょうか。それは、神様が、彼等を憐れみによって選び出されたからであります。神の民となる条件があるとするならば、あるいは、神の国に入る条件があるとするならば、それは、人よりも優れているとか、特別な才能があるとか、力や権威を持っているとか、そういう目に見えるものによるものではない。そういうことなのではないでしょうか。
 では、神の民となる条件とは何でしょうか。それは、神様が選んでくださった。神様が導いてくださった。神様が招き入れて下さった。ただ、そこにのみ条件があるのではないでしょうか。人間の側に可能性があるのではなく、ただ、神の側による働きによってのみ、神の民へと変えられていく。そこに全てが賭けられているのであります。
 アブラハムも、イサクも、ヤコブも又、ただ、神様の恵みと憐れみの選びによって、神の民とされた。人間の目に見える特質によって選ばれたわけではない。神の憐れみによって、神の民へと変えられていったのであります。そうであるならば、その子孫もまた、目に見える血肉による繋がりではなく、ただ神様の選びによって招かれ、神様の恵みに結ばれた者であると言えないでしょうか。
 「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」イサクから生まれた者。それは、双子の兄弟「ヤコブとエサウ」です。神様は、兄のエサウではなく、弟のヤコブを神の民として選ばれました。イサクも同じです。神様は、兄のイシュマエルではなく、弟のイサクを選ばれた。神の民となるかどうか。神の民であるかどうかは、人間の判断や願望によるものではない。ただ、神様の自由な選びによるものに他ならない。そのことが、ここで改めて語られているのであります。
 しかし、イスラエルの人々は、その真実に目が閉じてしまっています。自分たちこそが、神の民。自分たちだけが、救われるにふさわしい。自分の思いや自分の誇りに固執することによって、実は、神様の救いのご計画に目が閉じてしまっている。そこにイスラエルの人々の現実があったのであります。
 それでは、イスラエルの人々は救われないのでしょうか。これは、私達にも深く関わっている問題でもあります。私達は、キリストを通して、神様に選ばれ、神様の民とされたクリスチャンです。私達は、もう既に「救いの約束」を受けた存在であります。この大きな喜びを深く味わいながら、それでも気にかけることがあります。それが、まだ、救われていない人がいるのだということであります。あるいは、まだ、救われていない家族や親友がいるのだということであります。私達の喜びの背後には、あるいは、著者であるパウロの喜びの背後にも、家族や親友が救われないことに対する、計り知れないほどの嘆きと悲しみがあっただろうと思うのであります。
 しかし、パウロは記します。「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。」神様の言葉は、決して効力を失わない。神様の御心は、彼等を見捨てることはない。神様の救いは、決して無力ではない。人間がどれだけ、無知で、無力で、弱いものであったとしても、神様の救いの力、救いの言葉は、決して取り去られることはない。人間の弱さを超えて遙かに大きな力をもっている。それが、神様の御言葉なのであります。
 神様の言葉。それは、言い換えるならば、キリストの言葉。いや、キリスト御自身でありましょう。人間が、どれだけ神の御心から離れ、自分を中心としていたとしても、それでも、主イエス・キリストは、その人の所に来られる。その人を招かれる。その人のために十字架を負って下さる。その人の罪を背負って下さる。復活して、その人の名を呼び続けてくださる。神の民へと招き続けてくださる。それだけは、絶対に変わることない。
 私達の周りも同じであります。なぜ、神様に救われないのか。なぜ、彼等が、彼女たちが救いを得られないのか。それは、神様の救いの力が弱いからではありません。そのような方々の内にも、復活のキリストは、生きて働き、その名を呼び続けてくださる。その人のために、キリストは、来られ、罪を背負って十字架で死に、そして復活される。その人を神の民とするために、主は御言葉をもって働き続けてくださる。それが真実です。
 クリスチャンにとって、今朝の御言葉は、改めて、自分が主によって招かれたことを思い起こす御言葉でありましょう。自分には何も無いのです。何も出来ないのです。しかし、主は、そんなあなたのために、御子を与え、そのようなあなたのために、惜しみなく、御子を死に渡された。そのようなあなたを神の民として、新たに招くために、主を復活させられた。そのようなあなたを、神の国へと招くために、キリストと出会わせてくださった。改めて、キリスト者であることの幸いを思い起こさせられるのではないでしょうか。
 そして、まだ、救われていない人、これから救いに向かって歩みだそうとする人。そのような人にとっては、これは招きの言葉であります。主は、今、そこにいる、今のあなたを呼んでいるのです。ぜひ、この主の呼ぶ声に、心の耳を傾けていただければと願うものであります。
 今週から受難週が始まります。主の御苦しみは、他でもない「あなたのための」苦しみであった。その幸いを思いつつ、主の死を偲ぶ一週間の歩みをなすものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:51| 日記

2018年03月18日

2018年3月25日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「主イエス、十字架につけられる」
聖書:マタイによる福音書27章32節〜44節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々もぜひ、共にお越し下さい。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「神様の選び」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙9章6節〜7節

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:15| 日記