2018年03月12日

2018年3月18日 礼拝予告

〇教会学校 −主日礼拝と合同−

〇主日礼拝(合同礼拝) 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙13章8節〜10節
主題:「となりびとを愛する」須賀 工 牧師

※礼拝後、五分の集い、信仰の学び、受洗準備会が行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:34| 日記

2018年3月11日 主日礼拝説教「神の約束は変わらない」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙9章3節〜5節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙9章3節〜5節の御言葉です。改めて、1節から5節の御言葉をお読みします。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」
 パウロは悲しんでいます。神様の愛を喜びながらも、拭いきれない悲しみがあるのです。これがパウロの正直な心情でありました。
 パウロは、何を悲しんでいるのでしょうか。それは、「イスラエルが救われていない」という現実です。しかし、これは、決して、一つの民族の救いに関わる問題ではありません。パウロにとっては、家族の問題であり、親しい仲間の問題でもありました。その意味で、この悲しみは、今を生きる私達と家族、あるいは親しい方々の問題とも、強くリンクしたものであると言えるかもしれません。
 そもそも、イスラエルは、神様の救いから遠い存在ではありません。彼らは、「神に選ばれた民」であり、神の子と呼ばれていました。また、それ故に、彼らには栄光があり、救いの約束もありました。また、それ故に、彼らは、いつも神様の御言葉に導かれたものであり、礼拝を通して、神様と親しき交わりを得ていた。そういう人々でもありました。このように、イスラエルは、いつでも神様と共に、神様の近くで生きた人々でありました。
 しかし、それだけではありません。彼らは、目には見えない信仰的な意味だけではなく、肉的、身体的、歴史的な形においても、神様の救いに、とても近い人々でもありました。彼らは、先祖と繋がることによって肉体的、血縁的にも、神の民でありました。
 更に、真の救い主もまた、肉体をもって、彼らと同じように、彼らの近くで生きていました。このように、目には見えない部分でも、あるいは目に見える部分においてさえも、神様は、彼らと共に歩み、そして、救いを確かにしながら生きることが出来たはずなのであります。
 しかし、イスラエルの人々が救われないのです。こんなにも神様と近くにあって生かされ、救い主の近くで生きていたはずなのに。それでも、イスラエルの人々が救われないのであります。救い主の最も近くにいるはずなのに。それでも、救い主の救いを味わうことができない。だからこそ、パウロは、悲しいのであります。
 パウロは、異邦人伝道に力をいれた使徒でありました。しかし、家族や仲間が救われることに無関心ではなかったはずであります。むしろ、そのことを心より願っていたことでありましょう。その思いが、強く伝わってくるのが、3節の御言葉です。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」
 少し、オーバーな言い回しかもしれません。ただ、皆様は、このような心持ちで、家族や親友が救われることを、真剣に願ったことがあるでしょうか。愚かになってしまうほどに、目の前の人の救いを願ってきただろうか。中々、私達は自分自身の信仰生活で心が一杯になってしまい、ここまで気持ちが回らないということの方が多いかもしれません。
 このようなパウロの思いはどこから来るのでしょうか。聴き方を変えてみます。このようなパウロの言葉を聞いて、私達の心には、何が浮かぶでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の死であります。
 主イエス・キリストの十字架の死。これは、一言で申し上げるならば、救い主が、神様に見捨てられる出来事であります。主イエス・キリストも又、十字架の上で叫びました。「我が神、我が神、なぜ、わたしをお見捨てになるのか」と。神様は、御子イエス・キリストに、人間の罪、悪、弱さを背負わせ、私達の代わりに、御子イエス・キリストを十字架で処刑されました。私達を救うために、惜しみなく、御子を死に渡し、見捨てられた。御子は、神に見捨てられ、神は御子を見捨てられた。それほどまでに断固として、この私を、このあなたを救いたい。愛したい。受け止めたい。そう御心に留めてくださったのであります。正に、御子を捧げるという「愚かさ」をもって、真剣に、私達の救いを御心に留めていてくださったのです。
 このキリストの断固たる救いの意志、神の断固たる愛の意志。この大きな憐れみの中でこそ、パウロは、この言葉を記すのであります。パウロは、人から同情やご機嫌を取ろうとしているわけではないのです。
 パウロは、かつて、キリスト教を迫害する者でありました。キリストを憎んだものでありました。パウロは、その過去と強く向き合いながら、しかし、こんな私を断固として救いたいと、神様が願ってくださった。こんな私のために、惜しみなく、愚かになってキリストを捧げてくださった。こんな罪深い自分を、それでも神様は、御子の命を通して愛して下さった。こんなに強く、大きく、確かな救いは無い。そう強く信じる者へと変えられた。
 だからこそ、そのキリストに従う一人として、自らの思いを、このような言葉で表現したのではないでしょうか。正に、あのキリストの言葉通りです。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」
 キリストの犠牲によって生かされているからこそ、キリストの愛の確かさを知っているからこそ、彼は、目の前にいる家族や親友の救いのために、自らの命を投げ出しても良い。そう強く宣言できるのであります。自分のためにキリストが死んで下さった。このキリストの確かな愛に押し出されている。神様の愛の確かさを知っている。そのところから私達は、目の前の人がキリストを知り、そして、そのキリストによって救われていくために、自らの命を捨てるようにして、愚かであっても伝道の業に仕えていくことができるのであります。
 パウロは、悲しみを抱えています。しかし、パウロは、この悲しみには終わりがあることも知っています。「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」。目の前の親しき人が救われない。しかし、それは、キリストの力が弱いからではありません。どのような時代、どのような状況であったとしても、主イエスが、私の救い主であることは変わりません。キリストが、神であることは変わらない。そして、その救いは、もう既に、この世界を支配し続けています。そして、この救いの支配は、いつか、かならず、完成に至ります。この救いの約束は、どんなことがあっても変わらない。私も、皆さんも、そして、全ての人が、キリストの救いの支配の中へと招かれる時がくる。その時を待ち望みつつ、主の再臨の祈り求めるものでありたいと思います。
 そして、求道中の方。どうか、これだけは覚えていてください。皆さんが、救いへと向かって歩み出すことができるように、自分の命を捧げ、涙を流し、嘆き、呻きながら、主に祈ってくれる家族や教会員がいるのだということ。そして、キリスト者の皆様。どうか、これだけは覚えておいて下さい。このわたしが救われるために命を捧げられたキリスト。そのキリストが、今も共に生きているということ。そして、その御方に押し出され、私達も又、キリストの愛を宣べ伝えるために、自らの命を捧げることを、主が望んでおられるのだということ。そして、その人生は嘆きではなく、喜びで終わっていくのだということ。伝道は苦しんでするものではなく、喜んで捧げることなのだということ。このことを心に留めて、改めて主の苦しみの意味を思い起こす受難節の歩みを続けていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:21| 日記