2018年04月22日

2018年4月22日 主日礼拝説教「耐え忍ぶ憐れみ」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙9章19節〜29節

 この世界には、頑なに、神様を信じない人がいます。私達の周りにも、頑なに、神様の救いを受け容れない人がいます。それが、私達の生きる、この世界の現実であります。
 しかし、神様を信じない人と神様を信じる人の間にも、実はある決定的な共通点があります。それは何でしょうか。それは、神様が、その人を造ったということです。頑なな人も、頑なでない人も、神様が造られた。それは同じなのであります。
 しかし、パウロは、記しています。「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」と。神様を信じる人も、神様を信じない人も、全ては、神様の御手、神様の御心の中にあるのだと言うのであります。神様を信じない人も、自分の意志で神を拒絶しているわけではないのです。その人も又、神様の御手の中で、そのように導かれて生きているのであります。貴くない器として造られたとしても、神様を受け容れない人として生きていたとしても、その人が、神様によって造られたことには変わらない。全ては、主の御心と御業の中にあるのです。
 頑なになること。それもまた神様の御心なのです。そのように、神様が造られたのです。そうであるならば、神様が人を責めるのはおかしいのではないか。むしろ、神が責められるべきなのではないか。そのような問題が起きるかもしれません。
 パウロは、このような問題に対して応えています。造られた人が、造った神を責めるのは間違っていると。神様が、その人をどのように造り、どのように生かすのか。それは、神様の御心であります。私達が、その御心を責めるということは、神と人の立場を逆転させること。パウロは、そのようにここで指摘するのであります。これは決して間違った指摘ではありません。
 しかし、これは、決して、この問題に、明確な答えを出しているわけではありません。神様が、貴い器と貴くない器を造るのです。神様が、それぞれをお造りになるのです。そうであるならば、やはり、頑な人を造った神の側に問題があるのではないか。その問題は払拭されていないのであります。更に言うならば、なぜ、貴くない、使いようのない器を造る必要があったのか。そのような、新たな問題も生じるのではないかと思うのであります。
 そもそも、神様は、「頑な人を裁きたい」と願っているのでしょうか。「貴くない器−卑しい器−」を責めたいと望んでいるのでしょうか。責めるために、頑な人を造られたのでしょうか。そこに意味があるのでしょうか。
 神様が、頑な人も造られたのです。貴くないことに用いる器をも造られたのです。そうであるならば、人が責められるのは間違っているのではないか。そういう問題が、ここで起きているのです。しかし、そもそも、神様は、頑な人を責めているのでしょうか。頑な人を、貴くない器を滅ぼそうとしているのでしょうか。
 「頑なであるということ」にも、主の御心があると思うのであります。いや、むしろ、そこにこそ、主の知らせたいこと、伝えたいこと、示したいこと。そのような証があるのではないか。つまり、頑なさにも意味があるのではないか。造られた目的があるのではないか。そのように思う。そうでなければ、頑な人は、生きている目的がないということになるだろうと思うのです。
 では、そもそも、なぜ、神様は、「頑な人」、「貴いことに用いられない器」、「価値のないと思われる人」。わざわざ、そのような、人を造られたのでしょうか。
 22節から23節をお読みします。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」
 神様は、「頑な人」「卑しい器」も造られたのです。パウロは、そのような存在を「怒りの器」とも表現しています。神様の怒りに満ちた器です。「滅びの器」とも言えるかもしれません。
 神様が、怒りの器、滅びの器を造られたのは、神様の怒りや裁きが、どれだけ恐ろしいものか。それを教えるためなのでしょうか。人を責め、人を裁き、恐ろしい怒りのパワーで人を滅ぼしていく。そういう神様の恐ろしいお姿をお示しになるために、あえて、怒りの器を見せしめのように造られたのでしょうか。
 それは違います。神様は、ここに記されていますように、あくまでも、「寛大な心で耐え忍ぶ神様」として、ご自身をお示しになった。滅びるべきものが、許される。滅びるべきものを耐え忍ばれる。怒りに満ちた器が、憐れみに満ちた器に変えられていく。それが、神様の本当の御心であり、神様のお姿なのであります。その御心とお姿をお示しになるためにこそ、怒りの器を造られるのであります。卑しい器は、空しく滅びるために造られるのではなく、神様の憐れみの豊かさを知るために、救いの豊かさを味わうためにこそ、その命の意味があるのであります。
 しかし、それだけではありません。23節「それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」
 「憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たち」。これは誰のことでしょうか。これは、もう既に救われた人たちのことでありましょう。この人たちも又、神様の豊かな栄光、豊かな救いの光を知ることができる。どこで知ることができるのか。頑な人を救う、卑しい器、怒りの器を救う、その神様の御心を通して知ることができる。改めて、主の救いの豊かさの中に、自分も入れられている。その恵みを確かにすることができるのであります。
 自分は貴い器だ。自分は主の目に正しい人だ。そう自負はできないのです。神様が、頑な人を救うように、私達も又、主の豊かな忍耐と寛容、そして憐れみによって、既に救われている。その恵みを新たにすることができるのであります。
 神様は、頑な人を造られるのです。しかし、それは、主の怒りの力を示すためではない。全ての人が、主の憐れみの深さ、主の忍耐の強さ、主の栄光の豊かを知るためなのであります。その意味で、全ての人が、実は、憐れみの器へと導かれていくのであります。
 「耐え忍ぶ」という言葉には、「持ち運ぶ」という意味もあります。神様は、怒りの器をどこへ持ち運ばれるのでしょうか。ローマの信徒への手紙2章4節には、次のような言葉があります。「神の憐れみがあなたを悔い改めへと導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」
 神様は、怒りの器、卑しい器を持ち運びます。どこに持ち運ぶのでしょうか。失敗作だから、ゴミ箱でしょうか。神の恐ろしさを示すために、炎に投げ入れるのでしょうか。そうではありません。悔い改めへと導かれるのです。主のもとへと召し出すのであります。憐れみと忍耐をもって、主は、ご自身のもとへと、そのような存在をも引き寄せてくださる。すでに救われた人も、これから救われる人も、その人がたとえ、頑なで、救いを受け容れられない者であったとしても、主は忍耐し、招き続けてくださる。そこに主の御心がある。だからこそ、頑なさにも意味がある。必要がある。その幸いこそが、実は、この御言葉から改めて表されていくのであります。
 パウロは、最後に、旧約聖書の御言葉を引用しています。この引用された聖書箇所には、大前提があります。それは、神様が「民ではない人を民と呼ぶ」ということです。民ではない人とは、どういう人でしょうか。頑な人です。救いを受け容れない人です。救いを拒絶する人です。神の民とは、到底、呼べない人であります。 
 しかし、神様は、そのような人を憐れみによって救い出して下さる。そのような人の内にも、キリストを与えてくださる。そのような人とキリストを結び合わせてくださり、罪を清め、神の国へと入れて下さる。そのような人を、怒りから憐れみの器へと造りかえてくださる。
 この神様の深い恵み。それを一番よく理解していたのが、パウロ自身であったと思います。自分は、貴い器であると信じていたのです。救われて当然、選ばれて当然であると思っていた。
 でも、本当は違ったのです。自分は卑しい器だったのです。神の民の資格のない人だったのです。救いに定められていないほどの、罪人だったのです。
 しかし、そのような自分とキリストは出会ってくださった。憐れみの器として、招き入れて下さった。怒りの器から憐れみの器へと変えて頂いた。頑なに造られた自分が、それでも主のものとされていく。その幸いを味わい知ったのでありましょう。
 私達も同じであります。そもそも、初めから貴い器の人などいるのでしょうか。自分を振り返るならば、到底、自分が貴い器であるとは言い切れないものであります。しかし、こんなんも頑なで、救いに遠い私も、主の元へと招かれている。怒りの器から、憐れみの器に作り替えられていく。
 主の御心は、救いたい人だけを救い、頑な人を失敗作のようにゴミ箱に見捨てることではない。造られし全ての人が、神様の憐れみによって救いの光の中に招かれている。そこに主の御心がある。頑な人も、そうで無い人も、共に、主の忍耐と憐れみを知るためにこそ、主は、人を頑なにされるのです。
 頑なであるということもまた、主の御心です。しかし、そのままではありません。あるいは、滅びに定められているわけでもありません。その人も、かつて、既に救われた者がそうであったように、救いの中へと招かれている。その主の御心は、変わることはないのです。主が、ご自身の憐れみと忍耐の御心を明らかにするためにこそ、主は卑しい器にも意味を与えるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:30| 日記

2018年04月16日

2018年4月22日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「主イエスの少年時代」
聖書:ルカによる福音書2章41節〜52節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方も、是非、共にお越し下さい。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「耐え忍ぶ憐れみ」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙9章19節〜29節

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:35| 日記

2018年4月15日 主日礼拝説教「選びは憐れみ」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙9章14節〜18節

 私達は、「神様の国民」です。「神様の国民」であるためには、神様の目に清く、正しくなければいけません。
 しかし、私達は、自分で自分を清めることはできません。私達が、「死」から逃れられないように、私達は、私達の力で罪や汚れから逃れられないからです。
 しかし、神様が御子イエス・キリストを与えて下さいました。イエス・キリストが、私達の罪や汚れ、そして死までも背負われました。だから、私達は、そのキリストの犠牲を通して、神様の目に清く、正しく変えられました。そして、神様の国民とされ、神様の国で、神様と共に永遠に生きることができるのです。
 私達は、神様の国民です。しかし、私達は、私達の力で、神様の国民になることはできません。神様が、あなたを選び、そして、あなたと主イエス・キリストを固く結びつけてくださった。だから、私達は、神様の国民となることが出来たのです。
 神様が、神様の国民とするために、あなたを選んだのです。神様が、あなたを選んだのです。私達が、神様の目に優れていたからでしょうか。そうではありません。私達は、死から逃れられないように、罪からも逃れられないのです。
 しかし、神様は、あなたを選んだ。人間の条件や人間の力によって選んだわけではない。優れた人間だけを選ぶわけではない。神様の選びは、そのような「えこひいき」とは違います。もし、そうであるならば、罪や汚れのある人間は、永遠に選ばれることはないでありましょう。
 罪がある。弱さがある。しかし、それでも、神様は、あなたを選んだ。人間の条件や力による選びではないのです。ただ、「憐れみ」と「慈しみ」によって、選ぶのです。神様の選びは、神様の「きまぐれやえこひいき」から始まるのではなく、「憐れみ」と「慈しみ」から始まるのです。
 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」。えこひいきから始まるのではありません。憐れみと慈しみから始まるのです。
 かつて、イスラエルの人たちは、神様によって、エジプトから救われました。しかし、イスラエルの人たちは、神様を拝むのではなく、金の仔牛を拝みました。イスラエルを救い出したのに、イスラエルは、神様を見上げていないのです。イスラエルの人たちを見捨てたい。イスラエルの人たちと共に歩めない。そのように、神様が嘆かれることもありました。
 しかし、イスラエルの人たちを見捨てることはなかった。イスラエルの人たちと共に歩み続けてくださった。なぜでしょうか。神様が、イスラエルの人たちを憐れみ、そして慈しんだからであります。えこひいきをする不義なる神であるならば、彼らは見捨てられて当然でありましょう。
 しかし、彼らは神の民で有り続けた。神様が、憐れんだから。神様が慈しまれたから。「憐れむ」とは何でしょうか。「慈しみ」とは何でしょうか。「大切にする」ということです。「かけがえのないものとする」ということです。
 イスラエルには、罪があったのです。弱さがあったのです。救いを知りながらも、神様を見上げることもなかったのです。神様が嘆いてしまうほどに、弱さに満ちた人々なのです。
 しかし、神様は、見捨てないのです。なぜか。神様がイスラエルを憐れみによって選ばれたからです。そして、神様の子どもとして、神様の国民として、一人一人を「大切に思っている」からです。その御心だけは、決して変わらないからであります。
 他の人よりも、優れているから神様の国民になるのではないのです。弱さがある。欠けもある。失敗もある。神様の目には、到底、救われる価値のないほどに、汚れている。しかし、神様が、あなたを憐れんだ。あなたを大切な存在としてくださった。御子イエス・キリストを惜しみなく、死に渡されるほどに、あなたを大切に思ってくださった。だから、私達は、神様の国民になることができる。そして、そう有り続けることができるのであります。
 では、今、救われていない人は、選ばれていないのでしょうか。あるいは、心が頑なになり、救いを受け入れない人は、これからも、神様に憐れまれることもなく、救いを知らずに、ただ死んでいくだけなのでしょうか。
 17節「聖書にはファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」
 ファラオとは誰でしょうか。イスラエルを迫害したエジプトの王様です。ファラオは、頑なに神様を受け入れることはありませんでした。いや、むしろ、神様の民を迫害し続けました。
 しかし、ファラオが頑なに迫害し続けることによって、神様の救いは、中止されたでしょうか。むしろ、人が頑なになる。そのところでこそ、神様の救いは、より一層、力強く前進していったのであります。ファラオの頑なさも又、神様の救いの前進のために、必要な器なのであります。その意味で、ファラオもまた、神様の救いの計画と前進の中に入れられているのであり、神様の導きの中にファラオが入れられているのであります。そのファラオが、決して救われない。そのようなことは、どこにも記されていないのであります。
 ファラオの頑なさ。これは、イスラエルの人たちの頑なさでもあります。イスラエルの人たちは、主イエス・キリストを受け入れませんでした。キリストを信じる人も受け入れませんでした。むしろ、迫害をしました。キリストも十字架にかけました。
 しかし、彼らの迫害によって、神様の救いは中止されたのでしょうか。それは違います。その十字架を通して、人間の罪が清められ、全ての人が、神様の民となる道が切り開かれていったのであります。それだけではありません。彼らが迫害をすればするほど、教会が成長したのです。人が頑なになるところでは、神様の救いは、より一層、確かに前進するのであります。そのイスラエルの人々が、救われない。そのようなことは、どこにも書かれていないのであります。
 主イエス・キリストを受け入れなかった。心が頑なになってしまった。救いを受け入れなかった。しかし、その只中でこそ、主イエス・キリストは、十字架に架かられた。命を捧げ、犠牲となられた。人間の罪、人間の無知、人間の頑なさの中でこそ、神様の救いは、確かな光となった。頑なな人が救われないのではないのです。選ばれない人、救われない人がいる。そのようなことはないのです。そのような罪の中でこそ、救いは止まること無く、実現するのであります。
 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ。」救われる人と救われない人がいるのでしょうか。神様の気まぐれや好みによって、選ばれる人と選ばれない人、憐れまれる人と憎まれる人、救われる人と救われない人、神様の国民になれる人となれない人。そのように分けられるのでしょうか。
 私達は、神様の民です。しかし、私達には、神様の国民となる資格はありません。罪もあり、汚れもあり、弱さもある。しかし、それでも、あなたは神様の国民です。神様が、あなたを憐れみによって選ばれたから。選ばれる資格のないものが、憐れみを受けて、キリストと結ばれ、神様の国民として選ばれた。
 そうであるならば、全ての人が、この救いの光の中に入れられている。全ての人の内に、キリストの十字架が立てられている。全ての人が、神様の大切な国民として招かれている。救いの光が届かない所はありません。この地上でも、そして、死者の国においても。キリストは、死者の国にもおられる。その人が、たとえ、頑なであったとしても、その人が、救いを受け入れない人であったとしても、正に、そのような心の深い闇の中でこそ、キリストの救いは実現している。その中でこそ、神様は、救いを益々前進させ、そのような闇の中でこそ、私達を招いておられる。
 この幸いをもって、今、私達は、歩み出します。これから、どこで、何があっても、あなたは、神様の民であり続けるのです。イスラエルの民を見捨てなかった神様は、憐れみによって、キリストと結ばれ、慈しみよって選んだ、あなたを見捨てることはありません。
 そして、まだ、神様の救いを自分の救いとしていない方。まだ、歩み出せない理由、信じられない理由、受け入れられない理由は様々でありましょう。しかし、そのようなあなたの心にこそ、神様の救い、キリストの十字架は立っているのです。そして、主は、仰せになります。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのだ。」
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:33| 日記