2018年04月09日

2018年4月15日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「主イエス使徒(しと)たちに顕(あらわ)れる」
聖書:ルカによる福音書24章36節〜43節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も是非、共にお越し下さい。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「選びは憐れみ」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙9章14節〜18節

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:36| 日記

2018年4月8日 主日礼拝説教「約束の子」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙9章8節〜13節

 聖書が示す「救い」とは何でしょうか。それは、一言で申し上げるならば、「神様の民になる」ということです。神様の民となるということ。それは、永遠なる神様と、永遠に共に生きることができるということであります。神様の民とは、そのような幸いを受けた者であります。
 それでは、どのようにして、「神様の民となること」が出来るのでしょうか。イスラエルの人々は、「神様の民」であると呼ばれています。その根拠は何でしょうか。それは、彼らの先祖に、アブラハム、イサク、ヤコブがいたことによります。つまり、血肉の絆によって、神様の民になれるのだと考えたのです。
 しかし、これは考え方を逆にしたらどうでしょうか。血肉の絆にない人。その人は、「神の民とはなれない」ということになるのではないでしょうか。それは、言い方を変えるならば、神様の救いが届かないということであります。神様の救いの力が及ばないということでもあります。
 私達は、神様が全能であることを知っています。神様に出来ないことはないはずであります。しかし、救えない人がいるのです。そうであるならば、神様は全能ではないという理論になるのではないでしょうか。その意味で言うならば、イスラエルの救いに関する、血肉中心の理解は、不完全な理解。いや、むしろ、不信仰に満ちた理解。そう言わざるを得ないのではないかと思うのです。
 それでは、どのようにして、神様の民となることができるのでしょうか。答えは一つです。神様が、選ばれるということです。アブラハムも、イサクも、そして、ヤコブも、生まれる前から神様の民となるべく選ばれ、神様の民となるべく約束を受けて生まれているのです。それと同様に、私達信仰者もまた、生まれる前から、神様の民となるべき存在として、選ばれ、そして、命を受けているのです。
 生まれてから選ばれるわけではないのです。生まれた後、その人の行いや働きに応じて、神様の民となるのではないのです。生まれる前から、神様の民となるべく約束の子どもとして選ばれて生まれているのです。
 アブラハムには、二人の子どもがいました。イシュマエルとイサクです。血肉の法則で考えるならば、兄のイシュマエルが、神の民となり、救われるはずです。そして、アブラハムもそう望んでいたのです。
 しかし、イサクが神の民となったのです。なぜでしょうか。神様がイサクを選んだからであります。生まれる前から選ばれたからであります。イサクが優秀だったからでしょうか。両親の育て方が良かったからでしょうか。
 それは違います。イサクもまた、罪を犯しました。アブラハムも、妻サラも、同じです。イサクの誕生を、神様によって約束されていた。それにも関わらず、信じていませんでした。その意味で、イサクは、不信仰の親から生まれた子であり、皮肉なことに親と同じ過ちも犯してしまいます。創世記26章には、その様子が生々しく描かれています。
 つまり、イサクが生まれてから、イサクが選ばれたのではなく、生まれる前から選ばれていた。そして、イサクが、その人生の中で、どれだけ罪の道を歩んだとしても、あるいは、両親が不信仰の中に立っていても、それでも神様は、その罪を赦し、憐れみをもって、再び、神の民へと彼を選び出して下さった。人間の行いや人間の働きによるのではありません。ただ、神様が選び、その選びを断固として変えることがなかった。ましてや、イサクの罪を赦してまで、両親の不信仰を憐れむまでして、断固として、その選びを変えることなかった。だからこそ、イサクは、神様の民とされ、救われたのであります。
 イサクには、二人の子どもがいました。エサウとヤコブです。血肉の法則によるならば、兄のエサウが、神様の民となるべく選ばれるはずでした。父イサクもまた、それを望んでいました。
 しかし、エサウではなく、ヤコブが、神様の民となりました。なぜでしょうか。神様が、生まれる前から、ヤコブを選ばれたからであります。生まれてから、善し悪しを見て、神様の民に選ばれたわけではないのです。生まれる前から、選ばれていたのです。
 ヤコブは、優秀な人ではありませんでした。父を裏切り、兄を騙しました。神の民となる資格など、到底、ありえない人です。
 しかし、それでもヤコブが選ばれた。神様が生まれる前から、ヤコブを選んだからであります。神様の選びが揺らがなかったからであります。だからこそ、ヤコブの罪を赦し、憐れみをもって、そこまでしてでも、再び、彼を神の民へと招かれたのです。人間の善し悪しで、選びを変更することはなかったのです。
 イサクもヤコブも、生まれる前から、神様によって、神様の民となるべき存在として、選ばれた。正に、約束の子でありました。
 しかし、生まれてみれば、罪にまみれた人生です。不信仰に満ちた歩みでありました。 しかし、神様は、それでも神様の選びを変えることはありません。一人一人の罪を赦し、再び、神の民へと造りかえていく。それが、この二人の物語から、強く強調されていくことなのです。
 私達もまた、生まれる前から、神様の民として選ばれた約束の子です。しかし、私達は、忘れてしまいます。神様の子であることを見失います。選ばれた人であることを忘れてしまう。神様よりも、自分が中心になることもあります。罪を犯すこともあれば、失敗することもあります。その意味で、私達は、かつてのイサクやヤコブ、あるいはアブラハムと同じように、神様の民となるには、ふさわしくないものであるかもしれません。
 しかし、神様が、神様の民として、生まれる前から、この私達を選ばれた。それは決して変わることはありません。私達を再び、神の民とするために、神様は赦しの業をなしてくださいます。それでは、私達を、再び、神の民とするために、神様は何をされたのでしょうか。
 ガラテヤの信徒への手紙3章16節には、次のように記されています。「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たち』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです」。
 アブラハムの子孫には、約束が告げられたのです。その約束とは、子孫を神の民とすること。この約束は、時代を越えて、キリストに行き着きます。そして、このキリストに結ばれる者こそ、血肉によらない仕方で、再び、神の民となることができる。ここに救いの完成、終着点があるのです。そのように、パウロは示すのです。
 生まれる前から、神によって選ばれていた。しかし、罪の故に、神の民の資格を失っていた。しかし、それでも、神様が、あなたを選んだということは変わらない。だから、もう一度、あなたが、神の民となるために、御子イエス・キリストを与えて下さった。この御子を十字架にかけ、犠牲とされ、その死によって、あなたの罪を清め、神の民としてくださった。神様が、生まれる前から、神の民として選んで、命を与えた。その一人一人が、もう一度、神の民であることを取り戻すために、神様御自身が、惜しみなく、あなたのために御子を捧げて下さった。それほどまでに、私達は、神によって選ばれ、愛された、大切な存在。そのようにここで、強く示されていくのであります。
 私達は、生まれる前から、神の民となるべく選ばれた存在です。神様の民となるべき、救いを約束された存在です。しかし、思い返してみれば、神様の民には、ふさわしくない自分ばかり見えてくる。
 しかし、神様が、あなたを神の民として選び、命を与えた。それは決して揺らがない。神様が、あなたを神の民とするために、あなたを選んだ。これは決して変わらない。その断固たる思いを貫くためにこそ、憐れみをもって、神は自ら御子を捧げられるのです。
 さて、この話を読めば読むほど、気にかかることがあります。イシュマエルは救われないのか。エサウは救われないのか。エサウもイシュマエルも救われていない。私の友人も救われていない。世界中ではまだ救いを知らない人がいる。神様にも救えない人がいるではないか。ましてや、神様が選ばない人がいる。神様は、なんてひどい御方なのか。私も、そのような疑問にぶつかり、躓くことがあります。
 しかし、このような躓きを覚えながら、そこで思うことがあります。自分は、いつからこんなに偉くなったのか。エサウよりも、イシュマエルよりも、他のどのような人よりも、自分が選ばれている。そこに案じているのではないか。エサウよりも、神に憎まれて仕方のないはずの自分ではないのか。それが、この私ではないのか。
 しかし、そのような私の内にも、キリストが来て下さった。キリストが繋がってくださった。こんな私のために、御子は命をかけてくださった。そして、神の民としての資格を再び得ることがゆるされた。
 この憐れみを思う時、そうであるならば、全ての人が、キリストの救いの光の中に入れられていると。なぜ、そう思えないのか。そのように、自らを問い直すものなのであります。
 主イエス・キリストの救いの光。神様の救いの光。それが届かないところはどこにもありません。この地上においても、あるいは死者の国においても、キリストの救いの光は、余すところなく届いています。
 全ての人が、神の民となるべき者として選ばれています。神様の民となるべくして、命が与えられたのです。命を得るとは、正にそういうことでありましょう。私は、そのように思います。
 しかし、罪がそれを見えにくくするのです。罪が、それを見失わせるのです。しかし、忘れてはいけません。全ての人が、罪を越え、死を越えて、再び、神の民となるために、御子は命を捨てられたのです。生まれる前から、神の民として、自分が選ばれている。その幸いに包まれて、命を得ている。しかし、罪によってそれが見えにくくなっている。気づきにくくなっている。しかし、その幸いを取り戻すために、そのために、御子は、全ての人の罪を背負われるのです。
 私達信仰者は、その大きな恵みをキリストと出会うことで、味わうことができたのです。そうであるならば、全ての人が、キリストを通して、もう一度、自分が、神の民として選ばれて、生きている。その幸いを思い出せるように祈りたい。全ての人が、キリストと出会い、本当のあるべき自分の姿−神の民として選ばれているという自分の本来の姿を取り戻せるように。その救いのまったき完成を、祈りをもって待ち望みたいものであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:29| 日記

2018年04月02日

2018年4月8日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「エマオ途上で主イエスあらわれる」
聖書:ルカによる福音書24章28節〜35節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も、是非、共にお越し下さい。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「約束の子」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙9章8節〜13節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学び、ダニエル会例会があります。

皆様のお越しを心よりお待ちもうしあげます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:30| 日記