2018年04月02日

2018年4月1日 主日礼拝説教「復活の主」須賀 工 牧師

聖書:ヨハネによる福音書20章1節〜10節

 今朝、私達は、主イエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝を捧げています。「復活」とは何でしょうか。それは、「死を乗り越えること」あるいは「死を打ち破ること」であります。つまり、十字架で死んだ主イエス・キリストは、その「死を打ち破られた」ということです。この驚くべき出来事を記念する礼拝。それが、イースターの礼拝であります。
 主イエス・キリストは、次のように述べています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
 主イエス・キリストは、ただ「復活」したわけではありません。「復活のキリスト」を信じる者。あるいは「復活のキリスト」と結ばれる者。その人もまた、「死を打ち破る」ことができる。そのように仰せになられたのであります。「死」は人間にとって乗り越えることのできない最大の苦難でありましょう。しかし、復活のキリストと結ばれる時、私達もまた、死を打ち破ることができるのであります。
 勿論、この地上で死なないということではありません。肉体は、必ず死を迎えます。しかし、その死が終わりではないということです。死を越えて、死を打ち破って、キリストと共に、あるいは神様と共に永遠に生きることができる。主イエス・キリストは、そのように、私達にも復活の約束をしてくださるのであります。それでは、どのようにして、キリストと結ばれることが出来るのでしょうか。
 この記念すべき日に、洗礼者が与えられました。とても嬉しく思います。「洗礼」とは何でしょうか。ローマの信徒への手紙には、次のように記されています。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私達が・・・云々。」「洗礼」とは何でしょうか。それは、「キリストと結ばれる」ことなのです。即ち、私達は、この「洗礼」を通して、「キリストと結ばれる」。そして、そのことによって、「死を打ち破る」ことができる。だからこそ、「洗礼」は大切なことであり、そして、これ以上にない喜びなのであります。
 このように、洗礼−あるいは信仰告白−をして、キリストと結ばれた私達。この私達は、もう死を恐れて生きる必要はないのです。私達はもう約束の中にいるのです。私達はもう希望の中にいるのです。死を打ち破り、神の御手の中で、キリストと共に永遠に生きることができる。この希望を待ち望みながら、今を生きられるのであります。
 しかし、果たして、私達は、真剣に「復活」を信じて生きているでしょうか。「復活のキリスト」を真剣に信じて生きているでしょうか。「復活が信じられない。」「復活のキリストなどあり得ない。」そのように感じる人もいるだろうと思います。あるいは、信仰者においても、「死を乗り越えることなど出来るのか。」「本当に死を打ち破ることなど可能なのか。」そのように、やはり死に対する恐れや不安を抱くこともあるだろうと思うのです。
 人間は、決して完璧ではありません。信仰者もまた、完璧なわけではありません。復活が分からない。信じられない。それはむしろ、当たり前のことでありましょう。復活の出来事は、人間の理解を超えた出来事であります。だからこそ、分からない。信じられない。そういうものであります。それがむしろ、健全な人間の姿。私はそのように思うのです。
 そして、それは、私達だけのことではありません。今朝の御言葉に登場するマグダラのマリア、ペトロ、そして、イエスが愛した一人の弟子。彼らもまた、初めから、復活のキリストを信じていたわけではありません。むしろ、理解が出来なかったのであります。いうならば、彼らも又、復活のキリストを真剣に受け入れるだけの十分な信仰をもっていなかったのであります。
 マグダラのマリアは、「墓から石が取りのけてある」のを目撃します。そして、このように言います。「主が墓から取り去られました」と。墓の中を確認することもなく、ましてや、主の復活を信じることもなく、「主が墓から奪われた」。そのように、まず頭の中で考えた。言うならば、合理的な仕方・人間に理解できる仕方で、この状況を判断したのであります。
 このマリアの言葉を聴いて、ペトロともう一人の弟子が走りだします。「もう一人の弟子」とは、恐らく「ヨハネ」自身ではないかと言われます。この二人は、まるで、競争するかのように走り出します。まるで、どっちが主イエスを愛しているか。それを競うように走っている。自分の方がイエスに愛された。自分の方がイエスを愛している。そう競い合いながら走る。まるで、信仰の強弱を争うようであります。
 しかし、聖書は、二人の姿を、次のように記しています。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」。競い合っていた二人。しかし、最後は、どちらも同じ状況に立つのです。不信仰という意味では、二人は同じなのです。空の墓を前にして、それでも復活を信じられなかった。理解できなかった。競い合った信仰心も、実は、同じように脆く、弱いものだったのです。
 8節には「来て、見て、信じた」と書かれています。しかし、「復活」を信じたわけではありません。マリアの言葉を信じたということであります。空の墓を前にして、それでも復活のキリストを信じられなかった。復活を信じることができなかった。主が取り去られたのだと納得した。合理的な仕方・人間に理解できる仕方でしか、この状況を判断することができなかった。キリストの言葉、神の言葉よりも、人間の理性を中心とするしかできなかったのであります。
 どれだけ優秀な弟子であっても、どれだけイエスに愛された弟子であっても、あるいは、どれだけ主イエスにお仕えした弟子であったとしても、復活だけは分からなかったのであります。人間の理解・人間の納得できる仕方でしか、この驚くべき状況を受け入れることしかできなかった。神の言葉よりも、自分の理性を信じることしかできなかったのであります。そのような意味では、マグダラのマリアも、ペトロも、もう一人の弟子も、皆、共通して、自分の理性を中心とし、神の言葉を受け入れない罪人でしかないのです。
 復活を信じないということは、何を意味しているのでしょうか。それは、主イエス・キリストが死んだという事実だけを受け入れたということです。復活したということが信じられない。それはつまり、イエスは、死んで帰ってこないということ。その事実だけを受け入れるということになる。救い主は、死を越えられなかった。救い主ですら生き残ることができなかった。それを受け入れたということでありましょう。あるいは、主イエスは、死んだ過去の人。それを受け入れたということになるのだと言えるのであります。
 しかし、そこに救いはあるのでしょうか。死を越えられない救い主に希望を見出すことができるのでしょうか。
 この復活の出来事は、「まだ暗いうちに」起きた出来事でした。ルカによる福音書は「明け方早く」と言います。マルコによる福音書は「日が昇ると」と書かれています。マタイによる福音書は「明け方」と書きます。
 しかし、ヨハネによる福音書は、「日が明けないうちに」と記します。即ち、「暗い闇の中の出来事」として、復活の出来事を記しているのです。復活は、輝かしい光の中の出来事から始まらなかったのです。むしろ、そこにもまた、人間の闇、罪の闇、死の闇が残っている。絶望の闇が残されている。それが、この復活の出来事でもあったのです。
 復活が理解できない。それは当然のことです。人間の理解を超えています。復活が理解できない。信じられない。それは当たり前の感情であります。しかし、それは、イエスを死の中に閉じ込め、過去の人のように扱うことでもあるでしょう。そして、それは、死に打ち勝てないただの人間として、イエスを見つめることでもある。果たして、そこに希望があるのでしょうか。いや、そこには闇しかないのです。絶望しかないのです。死に対する深い恐怖しか残らないのであります。
 では、どのようにして、復活は信じることができるのでしょうか。答えは一つです。復活のキリストに出会うしかないのです。しかし、私達が、キリストを探すのではありません。キリストが、私達を見つけ出すのであります。主イエス・キリスト御自身が、私達に出会ってくださるのであります。主イエス・キリストが、私達を見出して下さるのです。「私はここに生きているよ。」「今、あなたの目の前に立っている。」そう語ってくださるのではないでしょうか。罪ある人間を見捨てるのではない。むしろ、キリストが、私達を見出し、御自身が生きていることをお示しになってくださる。それほどまでに、私達を大切に思い、私達と繋がりたい、私達と結ばれたい。そう願っていてくださる。いつか夜が明け、朝が来るように、キリストも私達の前に来て下さる。永遠の命を携えて来て下さる。それが、復活のキリストの御意志なのであります。
 キリストは、死んだ過去の人間ではありません。今も生きています。この時も生きて、あなたの前に立ち続けてくださっています。その幸いをどこで一番味わい知ることが出来るのでしょうか。それは、主が復活した日曜日です。つまり、礼拝の中でこそ、信仰を持つ者も、持たぬ者も、共に私達はその声に聴くことが出来る。礼拝を通して、復活のキリストと出会うことができる。そして、この私達が罪赦され、愛され、清められ、そして永遠の命に繋がっている。そのことを味わい知ることが出来る。日々の礼拝を通して、その主と出会い、その言葉をどうぞ、心の耳で、心の目で、受け止めていただければと願うものです。主は、他でもないあなたのために十字架に架かり、かけがえのないあなたを永遠に生かすために、あなたの前に立ち続けて下さっている。
 キリストは今も、生きて、私達に語り続けています。そして、信仰へと招き続けてくださいます。ヨハネによる福音書11章25節以下の御言葉です。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者ははだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:28| 日記