2018年04月16日

2018年4月22日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「主イエスの少年時代」
聖書:ルカによる福音書2章41節〜52節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方も、是非、共にお越し下さい。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「耐え忍ぶ憐れみ」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙9章19節〜29節

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:35| 日記

2018年4月15日 主日礼拝説教「選びは憐れみ」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙9章14節〜18節

 私達は、「神様の国民」です。「神様の国民」であるためには、神様の目に清く、正しくなければいけません。
 しかし、私達は、自分で自分を清めることはできません。私達が、「死」から逃れられないように、私達は、私達の力で罪や汚れから逃れられないからです。
 しかし、神様が御子イエス・キリストを与えて下さいました。イエス・キリストが、私達の罪や汚れ、そして死までも背負われました。だから、私達は、そのキリストの犠牲を通して、神様の目に清く、正しく変えられました。そして、神様の国民とされ、神様の国で、神様と共に永遠に生きることができるのです。
 私達は、神様の国民です。しかし、私達は、私達の力で、神様の国民になることはできません。神様が、あなたを選び、そして、あなたと主イエス・キリストを固く結びつけてくださった。だから、私達は、神様の国民となることが出来たのです。
 神様が、神様の国民とするために、あなたを選んだのです。神様が、あなたを選んだのです。私達が、神様の目に優れていたからでしょうか。そうではありません。私達は、死から逃れられないように、罪からも逃れられないのです。
 しかし、神様は、あなたを選んだ。人間の条件や人間の力によって選んだわけではない。優れた人間だけを選ぶわけではない。神様の選びは、そのような「えこひいき」とは違います。もし、そうであるならば、罪や汚れのある人間は、永遠に選ばれることはないでありましょう。
 罪がある。弱さがある。しかし、それでも、神様は、あなたを選んだ。人間の条件や力による選びではないのです。ただ、「憐れみ」と「慈しみ」によって、選ぶのです。神様の選びは、神様の「きまぐれやえこひいき」から始まるのではなく、「憐れみ」と「慈しみ」から始まるのです。
 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」。えこひいきから始まるのではありません。憐れみと慈しみから始まるのです。
 かつて、イスラエルの人たちは、神様によって、エジプトから救われました。しかし、イスラエルの人たちは、神様を拝むのではなく、金の仔牛を拝みました。イスラエルを救い出したのに、イスラエルは、神様を見上げていないのです。イスラエルの人たちを見捨てたい。イスラエルの人たちと共に歩めない。そのように、神様が嘆かれることもありました。
 しかし、イスラエルの人たちを見捨てることはなかった。イスラエルの人たちと共に歩み続けてくださった。なぜでしょうか。神様が、イスラエルの人たちを憐れみ、そして慈しんだからであります。えこひいきをする不義なる神であるならば、彼らは見捨てられて当然でありましょう。
 しかし、彼らは神の民で有り続けた。神様が、憐れんだから。神様が慈しまれたから。「憐れむ」とは何でしょうか。「慈しみ」とは何でしょうか。「大切にする」ということです。「かけがえのないものとする」ということです。
 イスラエルには、罪があったのです。弱さがあったのです。救いを知りながらも、神様を見上げることもなかったのです。神様が嘆いてしまうほどに、弱さに満ちた人々なのです。
 しかし、神様は、見捨てないのです。なぜか。神様がイスラエルを憐れみによって選ばれたからです。そして、神様の子どもとして、神様の国民として、一人一人を「大切に思っている」からです。その御心だけは、決して変わらないからであります。
 他の人よりも、優れているから神様の国民になるのではないのです。弱さがある。欠けもある。失敗もある。神様の目には、到底、救われる価値のないほどに、汚れている。しかし、神様が、あなたを憐れんだ。あなたを大切な存在としてくださった。御子イエス・キリストを惜しみなく、死に渡されるほどに、あなたを大切に思ってくださった。だから、私達は、神様の国民になることができる。そして、そう有り続けることができるのであります。
 では、今、救われていない人は、選ばれていないのでしょうか。あるいは、心が頑なになり、救いを受け入れない人は、これからも、神様に憐れまれることもなく、救いを知らずに、ただ死んでいくだけなのでしょうか。
 17節「聖書にはファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」
 ファラオとは誰でしょうか。イスラエルを迫害したエジプトの王様です。ファラオは、頑なに神様を受け入れることはありませんでした。いや、むしろ、神様の民を迫害し続けました。
 しかし、ファラオが頑なに迫害し続けることによって、神様の救いは、中止されたでしょうか。むしろ、人が頑なになる。そのところでこそ、神様の救いは、より一層、力強く前進していったのであります。ファラオの頑なさも又、神様の救いの前進のために、必要な器なのであります。その意味で、ファラオもまた、神様の救いの計画と前進の中に入れられているのであり、神様の導きの中にファラオが入れられているのであります。そのファラオが、決して救われない。そのようなことは、どこにも記されていないのであります。
 ファラオの頑なさ。これは、イスラエルの人たちの頑なさでもあります。イスラエルの人たちは、主イエス・キリストを受け入れませんでした。キリストを信じる人も受け入れませんでした。むしろ、迫害をしました。キリストも十字架にかけました。
 しかし、彼らの迫害によって、神様の救いは中止されたのでしょうか。それは違います。その十字架を通して、人間の罪が清められ、全ての人が、神様の民となる道が切り開かれていったのであります。それだけではありません。彼らが迫害をすればするほど、教会が成長したのです。人が頑なになるところでは、神様の救いは、より一層、確かに前進するのであります。そのイスラエルの人々が、救われない。そのようなことは、どこにも書かれていないのであります。
 主イエス・キリストを受け入れなかった。心が頑なになってしまった。救いを受け入れなかった。しかし、その只中でこそ、主イエス・キリストは、十字架に架かられた。命を捧げ、犠牲となられた。人間の罪、人間の無知、人間の頑なさの中でこそ、神様の救いは、確かな光となった。頑なな人が救われないのではないのです。選ばれない人、救われない人がいる。そのようなことはないのです。そのような罪の中でこそ、救いは止まること無く、実現するのであります。
 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ。」救われる人と救われない人がいるのでしょうか。神様の気まぐれや好みによって、選ばれる人と選ばれない人、憐れまれる人と憎まれる人、救われる人と救われない人、神様の国民になれる人となれない人。そのように分けられるのでしょうか。
 私達は、神様の民です。しかし、私達には、神様の国民となる資格はありません。罪もあり、汚れもあり、弱さもある。しかし、それでも、あなたは神様の国民です。神様が、あなたを憐れみによって選ばれたから。選ばれる資格のないものが、憐れみを受けて、キリストと結ばれ、神様の国民として選ばれた。
 そうであるならば、全ての人が、この救いの光の中に入れられている。全ての人の内に、キリストの十字架が立てられている。全ての人が、神様の大切な国民として招かれている。救いの光が届かない所はありません。この地上でも、そして、死者の国においても。キリストは、死者の国にもおられる。その人が、たとえ、頑なであったとしても、その人が、救いを受け入れない人であったとしても、正に、そのような心の深い闇の中でこそ、キリストの救いは実現している。その中でこそ、神様は、救いを益々前進させ、そのような闇の中でこそ、私達を招いておられる。
 この幸いをもって、今、私達は、歩み出します。これから、どこで、何があっても、あなたは、神様の民であり続けるのです。イスラエルの民を見捨てなかった神様は、憐れみによって、キリストと結ばれ、慈しみよって選んだ、あなたを見捨てることはありません。
 そして、まだ、神様の救いを自分の救いとしていない方。まだ、歩み出せない理由、信じられない理由、受け入れられない理由は様々でありましょう。しかし、そのようなあなたの心にこそ、神様の救い、キリストの十字架は立っているのです。そして、主は、仰せになります。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのだ。」
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:33| 日記