2018年04月29日

2018年5月6日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書4章1節〜13節
主題:「荒れ野の誘惑を受ける主イエス」
※礼拝後、誕生者を覚えて祈りを捧げ、誕生者を囲んでパーティをします。
※保護者の方々もぜひ、礼拝に共にお越し下さい!

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙10章1節〜4節
主題:「キリストによって義となる」須賀 工 牧師
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びの会があります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:19| 日記

2018年4月29日 主日礼拝説教「つまずきの石」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙9章30節〜33節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙9章30節から33節の御言葉であります。30節から31節の御言葉をお読みします。「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。」
 「義を得る」とは、何を意味しているのでしょうか。これは、一言で申し上げると、「神様の御心に適う」ということです。「神様に相応しい人になる」とも言えるかもしれません。これは、私達にとっては、「救いを得る」という意味でもあるかと思います。
 では、どのようにして、「義を得る」ことが出来るのでしょうか。人間の力で「義を得る」ことができるのでしょうか。「追い求めること」によって、「義を得る」ことが出来るのでしょうか。
 異邦人は、義を求めませんでした−そもそも『神様の掟である律法』を持たない−。イスラエル人は、義を追い求めました−『神の掟である律法』を持っていた−。
 しかし、追い求めない異邦人が、義とされた。そして、追い求めていたイスラエル人が義を得ることができなかった。このように聖書には記されています。
 つまり、「義」とは、追い求めることによって得られるものではないということであります。人間の力で、「神様に相応しい人になる」ことはできない、ということでもあります。人間の働きが評価されて、神様に相応しい人になるのではないのです。
 では、どのようにして、「義を得ること」ができるのでしょうか。32節の御言葉をお読みします。「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」
 大切なことは、「信仰」なのです。人間の行いではなく、「信仰」なのであります。どれだけ立派な行いができていても、信仰が無ければ、義は得られないのであります。逆に、どのような存在であったとしても、信仰があれば、義は得られるのであります。その人が、どれだけ小さな者、無力な者であったとしても、信仰があれば、義は得られるのであります。そこに、ユダヤ人とか、異邦人とかの差別はないのであります。どのような人であろうと、信仰によって義を得るのであります。
 つまり、「義」とは、人間の力で得るものではなく、信仰によって、神様から与えられるもの。それが、「義」なのであります。言い方を変えて申し上げるならば、信仰によってのみ、私達は、神様の御心に適った者へと、神様によって新しく造り替えられていくのだということなのであります。
 ローマの信徒への手紙3章22節から24節をお読みします。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
 「信仰」とは、ただ、自分が作り上げた都合の良い神様を信じるということでありません。神様の御子イエス・キリストを信じること。あるいは、この御子イエス・キリストと固く結ばれるということ。これが信仰でもあります。
 この主イエス・キリストは、私達の罪を背負い十字架で死なれました。この主イエス・キリストの贖い、そして犠牲を通して、私達から罪が取り去られました。この主イエス・キリストと結ばれることによって、私達もまた、罪なき者、聖なる者、神様の御心に適った者、正に義なる存在として受け容れられていくのであります。
 どのような人間であっても、信仰を通してキリストと結ばれ、キリストの命に与る者。その者こそ、恵みにより、無償で、神様の御心に適った者として、新たに造り替えられていくのであります。人間が人間の力で義を得ることはできません。神様が、御子を立ててくださった。その御子に私達の罪を背負わせ、犠牲としてくださった。そして、その御子と私達を固く結び合わせてくださった。それによって、無償/無条件で義が与えられるのであります。何かが出来るとか、何かをしているとか、そういう人間の働きは救いには、何も関係ないのです。キリストと結ばれているか。キリストの命に与っているか。ただ、そこに全てが置かれているのであります。
 つまり、私達が「義を得る」という時、そこには、神様によって、主イエス・キリストが立てられているということでもあるのです。キリストなくして、あるいは、キリストの十字架の死と復活なくして、全ての人が義を得る道はないのです。
 しかし、イスラエルの人々は、その主イエス・キリストに躓いたのです。言うならば、彼らにとって、主イエス・キリストこそが、「躓きの石」になってしまったのであります。
 では、なぜ、主イエス・キリストに躓いたのでしょうか。イスラエルの人たちは、自分たちの力や行いによって義を得られると信じたのです。しかし、キリストは、このキリストに結ばれて生きることこそ、義を得る道なのだと教えられた。もし、キリストの言葉に従うならば、勿論、自分たちの行いを捨てることになる。いや、今までの行いを捨てなければいけない。それはできない。だから、キリストに躓いたのであります。
 33節の御言葉をお読みします。「『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない』と書いてあるとおりです。」
 神様が、「つまずきの石」を置くのです。しかし、信じる者にとっては、その石こそ、希望の石なのであります。主イエス・キリストもまた同じです。ある人にとっては、躓きになのです。しかし、主イエスを私の救い主と信じる者にとっては、それこそ、死を越えるほどの計り知れない希望の石なのであります。
 なぜ、イスラエルは、希望の石に躓いたのでしょうか。それは、彼らが自分の「行い」に集中したからであります。自分自身だけを見ていたからであります。だから、目の前にあるキリストの希望に躓いてしまう。自分の行いや自己主張に固執するあまり、本来希望をもたらすはずの堅固な石に妨げられて立ち止まってしまうのであります。躓きの石が悪いのでしょうか。躓かせた石が悪いのでしょうか。それは、違います。イスラエルの人々の歩き方が悪かった。鏡を手で持ち、自分の容姿を整えることばかりに気が取られ、目の前にある真実に気を留めることがないばかりか、その石に躓いてしまう。そのような現実は、私達にも起こり得るのかもしれません。
 大事なことは、自分ではなく、主を見上げ、そこに立つキリストと連なっていく。そこに義を得る道が開かれていくのであります。
 何かができる。何かをしている。自分の行いばかりに目を向けなくても良いのです。何も出来なくてもよい。ただ、目の前に立っているキリストの手を握る。そこに真の希望があり、そこにこそ、揺るぐこと無い喜びがある。その幸いを深く心に留めて行くものでありたいのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:16| 日記