2018年05月07日

2018年5月13日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書4章16節〜30節
主題:「主イエス、ナザレの会堂で説教」
※礼拝後、絵本の読み聞かせの時を持ちます。保護者の方々も是非、共にお礼拝にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙10章5節〜13節
主題:「信仰を告白する」須賀 工 牧師
※礼拝後、五分の集い(青年会による五分間の近況の分かち合い)、信仰の学び(説教の振り返り)があります。また、婦人を中心とした野の花会や壮年を中心としたダニエル会もあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:29| 日記

2018年5月6日 主日礼拝説教「キリストによって義となる」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙10章1節〜4節

 「救い」は、どのように得られるのでしょうか。神様の掟を「熱心」に学ぶことによってでしょうか。神様の掟に「熱心」に従うことによってでしょうか。「熱心」であるということは、決して、悪いことではありません。「不熱心」であることよりは、「熱心」であるほうが良いと思います。
 しかし、その「熱心さ」が、「正しい認識に基づく」ものでないならば、やはり「救い」を得ることはできないのであります。全力疾走したとしても、間違った道を走っていれば、やはりゴールに行き着くことはできません。逆に、たとえ足を引きずっていたとしても、あるいは、途中で立ち止まることがあったとしても、正しい道を進んでいれば、必ず、ゴールにたどり着くものであります。
 即ち、「救い」において大切なことは、「熱心であるか」ということではなく、その熱心さが、「正しい認識に基づいているのか」ということになるのであります。
 それでは、「正しい認識」とは何でしょうか。それは、「神の義を知る」ということです。「神様の正しさを知る」とも言えるかもしれません。自分が正しいのではなく、神様だけが正しい。これが「正しい認識」であります。
 つまり、「救い」とは、「自分の正しさを熱心に証明すること」ではなく、「神様の正しさだけに熱心に繋がっていく」ということ。そのことによってのみ、神様から与えられるものなのであります。
 何も出来なくても良いのです。何か深い知識がなくても良いのです。何も分からなくても良いのです。ただ、神様が正しいこと知り、神様の正しさに連なっていく。その所でこそ、私達は救いを受けるのであります。少し言い方を変えて言うならば、神様の正しさを知る時。その時にこそ、私達もまた、神様の目に正しい、御心に適った存在へと、造り替えられていくのであります。
 「熱心」であることは、大切なことです。しかし、その熱心さが、自分自身の誇りやプライドに向いているならばどうでしょうか。それでは、あくまでも自分中心でしかありません。そのところでは、神様を信じる、大切な心が抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。本来、歩むべき道から外れてしまっているのではないでしょうか。それが、ここで深く問われていくのではないかと思うのであります。
 イスラエルの人々は、とても「熱心」でありました。熱心に何をしていたのでしょうか。「律法」であります。「律法」とは、「神様の掟」です。つまり、イスラエルの人々は、「神様の掟を守ること」に「熱心」だったのであります。
 しかし、その「熱心」も、「正しい認識に基づかない熱心」だったのであります。本来、神様に心を向けることを目的としているのが律法であります。しかし、いつしか、自分の熱心さを証明するだけの道具になってしまった。だからこそ、救いが見出せなくなったのであります。なぜでしょうか。なぜ、熱心さだけでは、救いが見出せなくなるのでしょうか。それは、人間には、必ず、限界があるからなのです。
 「神様の正しさを知る」ということ。それは、自分の正しさを捨てるということ。あるいは、自分の弱さや無力さを認めるということでもありましょう。一生懸命に、律法や掟を守ることが救いの条件ではないのです。「救いを得る」ために、一生懸命に勉強をするとか、研鑽を積むとか、それが、救われるための条件ではないのであります。
 本当に大切なことは、自分の弱さと向き合うことであります。自分の至らなさ、自分の無知、自分の無力。自分の抱えている全ての罪深さと向き合うことであります。そもそも、律法は、人間を救うためにあるのではありません。勿論、人間の力を誇るためでもありません。「律法」は、むしろ、人間の無力さや罪を露わにし、神様の正しさに立ち帰るためにあるのです。
 大切なことは、「律法」があるかないかではなく、どのような人間であろうとも、今、あなたと共に生きる神様と真摯に向き合い、そこで、自分の強さを誇るのではなく、自分の弱さを知ることなのであります。
 それでは、弱い私達が、どのように救われるのでしょうか。その人間の弱さの中にこそ、主イエス・キリストが立っておられるのではないでしょうか。「キリストは律法の目標」であります。「目標」とは、行き着く最期の場所です。最期の最期には、キリストが立っているのであります。
 一生懸命に「律法」を守った。「熱心」に「掟」を学び、「掟」に仕えてきた。「熱心」に、勉強し、研鑽を積み、救いの確証を得ようとした。自分は、こんなにも一生懸命に、熱心にしてきた。
 しかし、それで何になるのでしょうか。死を越えていけるほどの希望があるのでしょうか。救いの確証は、そこから確かに得られるのでしょうか。人間には必ず限界がある。最期の最期には、自分の無力さに行き着くのであります。自分の無知に気づかされるのであります。
 しかし、その無力さの中でこそ、主イエス・キリストが立っている。自分には何も出来ない、自分では罪からも、死からも逃れることはできない。自分には、救いの可能性など一ミリもない。その深い心の闇に行き着く。しかし、その中にこそ、主イエス・キリストが立っている。
 このキリストと結ばれていく。このキリストの招きに応えていく。このキリストの命に連なっていく。そのことによって、私達は、罪を越え、死を越えるほどの、大きな救いの光へと導かれていくのであります。自分には何でもできない。その深い闇の中にも、主イエス・キリストがいてくださる。そのキリストが招いてくださる。そのキリストに連なっていくところでこそ、私達は、神様の目に正しいものへと、神様の正しさへと連なるものへと造り替えられていくのです。
 ヨハネによる福音書に、ニコデモという人物が登場します。彼は、ファリサイ派の最高法院の議員でした。律法に対して忠実に生き、知識や経験に富んだ優れた人物です。しかし、その彼が、わざわざ、危険を冒してまでも、主イエス・キリストのもとを訪問します。 なぜでしょうか。答えは、聖書には描かれていません。しかし、恐らく、救いがわからなくなったからでありましょう。知識も経験もある。律法に熱心でもあった。けれど、熱心さの先には、救いの確証ではなく、不安しか残らなかった。人間には必ず限界がある。不可能な壁がある。だからこそ、主イエス・キリストから新しい応えが欲しかったのではないでしょうか。
 主イエス・キリストは、ニコデモに何と応えられたのでしょうか。「新しく生まれなさい」と言ったのです。今までの積み重ねを生かしなさいとは言わない。新しくならなければいけないと言うのです。
 では、どのようして新しくなるのでしょうか。「洗礼を通して」「キリストと結ばれることによって」新しくなるのです。人間の不可能性の中でこそ、キリストがいるのです。キリストの招きがあるのです。そして、そのキリストと固く結ばれるところでこそ、初めて、救いの可能性が切り拓かれていくのであります。
 私達は、この深い恵みと憐れみの中で、今を得ています。このキリストに繋がっている状態であるからこそ、私達は、自信をもって、希望をもって、今を力強く歩むことができるのです。どんなに小さな私でも、どんなに無力な私でも、それでも、私はキリストと結ばれている。だから、私は、神様の目に正しい人に造り替えられ、新しい者となり、永遠に神様と共にいられるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:25| 日記