2018年06月18日

2018年6月17日 主日礼拝説教「世界の和解となるならば」須賀 工牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章13節〜16節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙11章13節から16節の御言葉であります。
 13節の御言葉をお読みします。「では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。」
 ローマの信徒への手紙は、文字通り、ローマの教会の信徒に向けて記された手紙です。当時、ローマの諸教会には、二つのグループがありました。一つは、ユダヤ教徒から改宗したユダヤ人キリスト者。もう一つは、ユダヤ教徒以外の異邦人キリスト者であります。そして、ローマの諸教会の大半は、異邦人キリスト者によって構成されていました。
 パウロもまた、自分が「異邦人のための使徒」であると言います。そうである以上、彼の務めは、やはり、異邦人に与えられた救いを宣べ伝えることであります。
 しかし、ここで大切なことがあります。それは、異邦人の救いを語るということ。それは、決して、異邦人が優位に立ち、ユダヤ人が見下げられるということを意味しているわけではないということです。異邦人だけがもてはやされて、ユダヤ人がないがしろにされるということではないということであります。
 もしかすると、実際に、教会の中で、ユダヤ人の立場が弱くなり、異邦人の立場が強くなるということがあっただろうと思うのであります。しかし、パウロが、異邦人の救いを語るということは、決してユダヤ人が見捨てられ、見下されることを意味しているわけではないのであります。
 パウロもまた、次のように述べています。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたい」と。異邦人の救いを語りながら、それでもパウロは、ユダヤ人を見捨てられたものとは言わないのです。むしろ、異邦人の救いを語りながら、そのことを通してでも、ユダヤ人を救いたい。家族や同胞を救いたい。そのように願うのであります。異邦人が救われることを通して、まさに、そのところで、ユダヤ人が、本当の救いに心を向けていく、キリストへと心を向けていく。そのことを強く祈り願うのであります。
 異邦人が救われる力。その神様の力が強ければ強いほど、ユダヤ人の嫉妬が起きる。パウロが、異邦人に仕えれば仕えるほど、ユダヤ人の心が嫉妬で溢れていく。しかし、そこでこそ、ユダヤ人が、主イエス・キリストを改めて求めていく。それを願っている。そのようにパウロは語るのであります。
 パウロの使命は何でしょうか。異邦人の使徒となることです。異邦人に救いを語ることです。神様から遠く隔てられ、神様の救いを見失った人々に、神の国の救いを語る。それが、パウロは、第一の務めでありましょう。
 しかし、キリストを見失い、神の御心から隔てられたユダヤ人を見捨てるのではないのです。異邦人とユダヤ人が、共に同じ救いに与る。同じ救いの光の中を歩んでいく。パウロは、正に、そこに自分自身の務めを見出しているのだと言えるのであります。
 しかし、これは、単なるパウロの務めについてだけの話ではありません。これは、神様の救いの話でもあります。即ち、神様の救い、主イエス・キリストの救いが、ユダヤ人や異邦人の垣根を越えた、大いなる救いなのだ、ということ。その幸いを、改めて、私達は、ここで確認させられるのであります。
 神様から遠く隔てられた異邦人も、神様に背を向けたユダヤ人であっても、どのような人間であったとしても、その一人一人のために、主イエス・キリストは、罪を背負い、十字架に架かられた。この十字架のキリストを中心にして、初めて、私達は、神と人、人と人とが、真実に和解し合い、共に生きることができるのであります。
 エフェソの信徒への手紙2章16節には、次のように記されています。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
 主イエス・キリストは、ユダヤ人のためだけではなく、異邦人のためだけではなく、そこに生きる一人のために、御自身の命を捧げられた。そこに隔たりはないのであります。むしろ、同じ救いを共に味わうことができる。
 教会には、様々な人がいます。どの人にも違いがあります。しかし、共通していることが二つあります。それは、どの人間にも罪があるということです。パウロは、次のように述べています。「正しい人はだれもいない」と。例外なく、どのような人間の内にも、罪がある。誰にでも死がおとずれるように、誰にでも罪がある。
 しかし、私達には、もう一つの共通点がある。それは、主イエス・キリストが、あなたのために命を捨てられたということです。信仰生活が長いとか、短いとか関係はありません。優秀なクリスチャンであるとか、優秀ではないクリスチャンであるとか、それは関係はない。ここに生きるあなたのために、主イエス・キリストは、命を捨てられた。ここに生きるあなたが、キリストと結ばれている。そこに隔たりは一つもないのであります。同じ一つの救い。その救いに共に与っていける。そこに、教会の姿があるのであります。
 ユダヤ人は、主イエス・キリストを捨てた人々です。しかし、そのキリストが、世界の救い主となり、世界の人が救われる道が開かれた。世界の人間と神とが和解する道が開かれたとも言えるでありましょう。神なき世界の人々が、神と一つになって生きる道が開かれたのであります。
 しかし、救いには、もう一つの大切な面があります。それは、キリストの犠牲によって、罪が赦されるということであります。それは、言い換えるならば、罪によって死にある者が、赦されて、新しい命を受けるということでありましょう。
 ユダヤ人は、キリストを捨てたのです。罪に落ちたのです。神に背を向けたのです。しかし、神様の救いとは何か。それは、和解であり、赦しであり、復活ではないか。そうであるならば、一度、罪によって捨てられた人が、救われないはずはない。異邦人が罪を赦されたのであるならば、ユダヤ人もまた、罪赦されて、神との和解へと招かれているのではないか。死か生へと導かれているのではないか。神様の救いを思い起こすならば、ユダヤ人もまた、この私と同じように、異邦人と同じように、死から生へと招かれているのではないか。それが、神様の救いなのではないか。そのようにパウロは、改めて、ここで、救いの本質について、思い起こさせていくのです。異邦人の救いを語ることは、正に、ユダヤ人の救いを語ることと同じなのです。救いが同じだからであります。
 私達が清いから救われるわけではないのです。私達が優秀だから救うのではない。異邦人が特別に賢かったから救われたわけではない。救いとは、全て、神様から始まる。神様から始まり、そこに連なるものを聖とする。初めから清いわけではない。神様が聖であり、その神様に結ばれるからこそ、異邦人もユダヤ人も例外なく、全ての人が、聖となるのです。
 はっきりと申し上げるならば、教会は、汚れた者の集いであります。その汚れは、みな平等であります。しかし、キリストを通して、神と結ばれ、神によって聖とされる。そのこともまた、平等なのです。だから、お互いに裁きあうこともないのです。全ての人が、主イエス・キリストによって聖とされている。そこに全てが終始するのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:09| 日記

2018年06月10日

2018年6月17日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書6章6節〜11節
主題:「手の萎えた人のいやし」
※礼拝後、手話を学びます。
※保護者の方々もまた、共にお越し下さい。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙11章13節〜16節
主題:「世界の和解となるならば」須賀 工 牧師
※礼拝後、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:23| 日記

2018年6月10日 主日礼拝説教「わたしを招くイエス様」須賀 工牧師

聖書:ルカによる福音書5章27節〜32節

 おはようございます。今朝は、花の日・子どもの日合同礼拝です。こうして、子ども達と共に、礼拝を捧げることができますことを、とても嬉しく思います。
 さて、今日は、イエス様のお弟子さんのお話です。イエス様のお弟子さんになれる人は、どういう人でしょうか。頭のいい人でしょうか。顔が美しい人でしょうか。お金を沢山もっている人でしょうか。あるいは、沢山の人に愛される人でしょうか。もし、そうであるならば、私など、絶対にイエス様のお弟子さんにはなれないだろうと思います。でも、本当に、そのような人たちが、イエス様のお弟子さんに選ばれるのでしょうか。
 イエス様のお弟子さんの中に、レビという人がいます。彼は、人々からとても嫌われていました。人からお金をとって、そのお金を自分のものにしたり、外国にお金を渡したりする、徴税人という仕事をしていたからです。だから、人々には嫌われていたし、人によっては、レビさんは神様にも嫌われている人だと言う人もいました。
 人々からも嫌われ、神様からも嫌われた人。それが、レビさんです。レビさんの心はどうだったでしょうか。悲しかったでしょうか。辛かったでしょうか。実は、違うんです。レビさんは、むしろ、それでも良いと思っていたようです。人から嫌われても良い。神様からも嫌われても良い。お金があれば、それで良い。そう思っていたようです。
 先ほど、読んだ聖書の箇所に、「レビさんは座っていた」という言葉があります。「座る」という言葉には、実は、もう一つ大事な意味があります。それは、「安心して休んでいる」という意味です。レビさんは、人々から嫌われていても、神様から嫌われていても、その悲しい現実を受け止め、座って、安心して、休んでいたのだと、聖書は示しているのです。
 けれど、このレビさんを見つめる人がいます。それがイエス様です。そして、イエス様は、私に従いなさい。そう言われました。レビさんは、特別な人ではありません。人々から嫌われ、神様からも嫌われ、もしかしたら、レビさんも、人を嫌い、神様を嫌っていただろうと思います。しかし、そのような心に闇を抱いている人に対して、イエス様は、私の所に来なさい。私のところへと歩み出しなさい。私の弟子になりなさい。そのように招いて下さる。レビさんが、イエス様の弟子になることを決意したのではなくて、イエス様が、レビさんを弟子として必要としてくださり、招いてくださる。そして、そのレビさんの弱さを赦し、歩み出す力を与えてくださる。これが、このお話の大切な部分でもあるのです。
 今日の説教の題名は、「わたしを招くイエス様」です。かつて、レビさんを招かれた、イエス様は、今、このわたしを、そして、あなたを招いておられます。私達も又、神様の前では小さな一人です。弱いところも沢山あります。失敗を一杯するこの私です。しかし、イエス様は、そのあなたが良いのだ。そのあなたを、わたしは招くのだ。そのように今朝、わたしたちを招かれるのです。
 わたしたちは、失敗することを恐れます。完璧な生活をしたい人もいます。出来れば、一度きりの人生、失敗したくない。そう思うことがある。けれど、失敗できない人生ほど、苦しいものはありません。失敗しても良いのです。ダメな自分でも良いのです。そんなあなたを、イエス様は、お弟子さんへと招かれます。大事なことは、そこから立ち上がり、歩き出せるか。イエス様は、そのお力も、きっと与えて下さるだろうと思うのです。
 イエス様は、今も、生きて、私達に語りかけています。「わたしに従ってきなさい。」共に立ち上がりましょう、共に歩み出しましょう。イエス様は、今も、あなたを招き、あなたの立ち上がる日を待ち望んでおられます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:12| 日記