2018年06月03日

2018年6月10日 礼拝予告

〇教会学校
 主日礼拝と合同礼拝になります。

〇花の日・子どもの日合同礼拝 10時30分〜
主題:「わたしを招くイエス様」須賀 工牧師
聖書:ルカによる福音書5章27節〜32節
※礼拝後は、ダニエル会(壮年会)が行われます。

みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:46| 日記

2018年6月3日 主日礼拝説教「ねたみを起こさせてまで」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章11節〜12節

 今朝の説教題は、「ねたみを起こさせてまで」とさせて頂きました。今朝の聖書箇所から説教題をつけさせています。
 さて、一体、誰が「ねたみを起こさせる」のでしょうか。それは、「神様」であります。神様が、「ねたみを起こさせる」のであります。
 そもそも、なぜ、神様は「嫉み」を起こさせるのでしょうか。神様は、「ねたみを起こさせてまで」、一体、何をしようとしているのでしょうか。答えは一つです。神様は、「ねたみを起こさせてまでも」、「救いたい」のであります。
 そもそも、どのような時に、人間は、「ねたみ」を持つのでしょうか。簡単に申し上げると、「自分にはないものを、他人が持っている時に羨ましいと思う」ことがあります。それが「ねたみ」です。
 つまり、ある人と出会い、その人を通して、「自分にはないもの」があるのだと、はっきりと気づいた時に、その人に対して「ねたみ」が生じるのです。私が、誰かをねたむ時、それは、私が誰かと出会い、その人を通して、自分には足りないものがあるのだと気づかされ、その人を羨ましく感じる時なのです。
 神様が、ユダヤ人にねたみを起こさせるのはなぜでしょうか。それは、ユダヤ人ではない人を通して、ユダヤ人には「何か足りないもの」があるということに気づかせるためなのであります。そして、ねたみを起こさせることによって、その足りないものを求めさせるようにするためなのであります。
 それでは、ユダヤ人に足りないものとは何でしょうか。ユダヤ人は、沢山のものを持っています。神様の御言葉、神様の掟、律法、神様の民としてプライド、神様を知る知恵や知識。正しい行いの積み重ねなど。ユダヤ人には沢山のものがあります。
 しかし、そのユダヤ人に足りないものがある。それが、主イエス・キリストです。主イエス・キリストが抜け落ちているのであります。いや、主イエス・キリストを受け入れることが抜けている。沢山のものを持っているユダヤ人に、唯一足りないものがあるとするならば、その生活の中心に救い主がいないということなのであります。そして、その一点が抜けているが故に、神様の本当の救いが見出せなくなっている。ここにユダヤ人の現実があるのであります。
 それに対して、異邦人−ユダヤ人以外の人々−はどうでしょうか。彼らは何ももっていません。神様の御言葉をもっていたわけではありません。神様の掟も律法も知りませんでした。神様の民という選民意識もありません。神様を知るための知恵や知識もない。神様の御心が分からないために、正しい行いもできない。正に何も持っていない。救いを見いだす要素は何も持っていないのであります。
 しかし、一つだけ決定的なものを持っていた。それが、救い主なのであります。救い主とは誰でしょうか。ユダヤ人が切り捨てた主イエス・キリストなのであります。ユダヤ人が捨てた主イエス・キリストなのであります。ただ、主イエス・キリストとの絆を持っていた。ただ、その一点によって、死を越えるほどの救いを見いだすことができたのであります。ただ、キリストと繋がった。ただ、キリストと結ばれた。ただ、それによってのみ神の国を見いだすことができたのであります。
 救いを得るとは、沢山のものを持っていることではないのです。何もなくても良いのです。何かができる、何かをしてきたということが重要ではないのであります。何も出来なくても良い、人に誇れるような業績をつまなくても良い。ただ、主イエス・キリストと結ばれる。ただ、キリストの命を頂く。ただ、その一点だけが、あなたを罪と死から救い、神の国へと導くのであります。
 異邦人は何も持たぬ者です。しかし、救いを知っています。キリストによる希望を知っている。だから、喜べるのであります。だから、絶望をしないのであります。どれだけ、多くの苦しみを担っていても、それでも絶望のままに終わらない。何もないのに喜べる。失敗していても希望を見失わないでいられる。ここにキリスト者の姿がある。
 では、このキリスト者を通して、ユダヤ人は何を知るのでしょうか。自分に足りない部分を知るのです。キリストが抜けていることに気づくのです。救い主がいないことに気づくのであります。自分たちの内には、真の喜びがないことを知るのであります。
 そして、そのところで、主によってねたみが起こされていくのです。羨ましいという気持ちが起こされていくのであります。ねたむほどに、キリストを求めていくことが起きてくるのであります。神様の狙いは、ここにあるのです。
 つまり、何も持たぬ異邦人を救い、異邦人を喜びに満たして下さる。その異邦人と出会うことによって、ユダヤ人が自分の至らなさを知り、自分の足りない部分を知ることによって、ねたみを起こさせ、ねたみを起こさせることによって、キリストを切に求めさせる。そして、彼らを悔い改めへと導く。ここに神様の救いのご計画があるのです。今朝の御言葉は、このような神様の救いのご計画について語っているのであります。
 そのことを踏まえた上で、改めて、私達のことを考えていきたいと思います。私達が、この世界で、まず救い出されたのは、なぜなのでしょうか。私達が、家族の誰よりもまず、救われているのは、なぜなのでしょうか。それは、私達が優れていたからなのでしょうか。違います。私達に何もなかったからであります。何も持っていない。しかし、その私達とキリストが繋がって下さった。だから、救われたのであります。
 私達が、今、こうして、キリストと結ばれて救われたことにも、ちゃんと深い意味があるのです。それは、世界の人々が、私達を通して、自分に足りないものがあることに気づくためであります。どれだけ豊かに満たされた生活をしていても、足りない何かがある。逆に、何ももっていなくても、あの人たちは心が満たされ、平安に歩んでいる。何もなくても、キリストがいれば喜んでいられる。その真理に世界の人々が気づかされ、私達をねたむようになる。ねたむことによってキリストへの思いを更に強くしていくことができる。そのためにこそ、私達は、先だってキリストの命を頂いているのであります。 
 異邦人がキリストによって救われた。何も持たぬ人々が、キリストによって救われた。しかし、そこで全てが終わるわけではないのです。その救われた私を通して、世界の人々が、自分に足りないものに気づき、わたしたちをねたむほどに、キリストを求めていくのです。
 大切なことは、世界の人々がねたむほどに、私達が喜びを抱いて、キリストと共に歩んでいるか。それが強く問われていくのです。私達自身が、喜んでいるだろうか。ねたまれるほどに、羨ましいと思われるほどに、希望を抱いて生きているか。それが強く問われていく。キリストにあって喜べない人を羨ましいとは、誰も思えないでありましょう。キリストに結ばれていても、喜んでいない。平安でいない。そのような人を羨ましいとは思えない。キリストを受け入れることもないでありましょう。ここで改めて、私達の信仰生活が強く問われていると言えるのです。
 しかし、心配をしないでください。何度でも、キリストのもとに立ち帰っていけるのです。何度でも十字架を見上げ、何度でも喜び直していけるのです。ねたみが、主によって起こされるのであるならば、それよりも前に、喜びもまた、主が与え続けて下さるのであります。
 人々が、ねたむほどにキリストを求めているのであるならば、それだけ、私達が、キリストにあって喜びに溢れているということでもありましょう。そして、主がねたみを起こさせるのであるならば、なおのこと、主が、いつでも、私達を喜びに満たして下さるのでありましょう。主によって喜びに満たされているからこそ、その私達を見て、ねたむ人が起こされていくのです。そして、主がねたみを起こさせるならば、それよりも前に、主が私達を喜びに満たして下さる必要があるのです。いや、そのように主は、いつでも御言葉を通して、私達の心を喜びに満たして下さるはずであります。そのことを深く心に留めて、喜びに満たされたまま新しい日々を歩み出すものでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:43| 日記