2018年07月23日

2018年7月22日 主日礼拝説教「再び接ぎ木される」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章23節〜24節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙11章23節から24節の御言葉であります。改めて、聖書の御言葉をお読みします。「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元に木に接ぎ木されることでしょう。」
 ユダヤ人は、「神様の民」です。ユダヤ人は、「神様の救いを約束された人々」です。しかし、ユダヤ人は、その神様の御子イエス・キリストを殺し、神様に背を向けました。そして、その不信仰によって、彼らは、神様の救いから切り取られてしまいました。
 それでは、ユダヤ人は、もう救いを受けることができないのでしょうか。もし、ユダヤ人が救われないとするならば、かつて与えられたはずの神様の救いの約束が、偽りとなります。それは、言い変えるならば、神様が偽り者になるということです。「あなたを救う」という言葉が嘘になるからであります。しかし、神様は、決して、偽りを言いません。神様は、常に正しい御方であります。そうであるならば、ユダヤ人もまた、まだ救われるチャンスがあるということになります。
 それでは、ユダヤ人は、どのようにして、再び救いを得ることできるのでしょうか。一生懸命に、修練をし直すことによって、救いを再び勝ち取ることができるのでしょうか。今までの信仰生活よりも、もっと厳しい修業を積むことによって救いを得ることができるのでしょうか。
 聖書には次のように記されています。改めて全文をお読みします。「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元に木に接ぎ木されることでしょう。」 「不信仰に留まらない。そうすれば、再び接ぎ木される」のであります。しかも、たやすく接ぎ木されるのであります。「不信仰に留まらない」とは、何を意味しているのでしょうか。「信仰に留まれ」という意味でしょうか。確かに、そのような意味でありましょう。
 しかし、ここで大切なことは、「留まる」ということです。私達は、どこに留まるべきなのでしょうか。ちょうど前の箇所には、次のように記されています。22節をお読みします。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
 「不信仰に留まらない」ということは何を意味しているのでしょうか。それは、この聖書箇所の文脈から申し上げるならば、「不信仰に留まるのではなく、神様の慈しみに留まる」ということであります。これは決して、異邦人だけの問題ではないと思います。慈しみに留まることが、救いの道であるならば、それは異邦人であろうと、ユダヤ人であろうと同じことであります。異邦人が、慈しみ留まるように、ユダヤ人も、神様の慈しみに留まる。不信仰に生きることを止めて、神様の慈しみに生きることを始める。そこから、再び、息を吹き返して歩み出すことができるのだということなのであります。
 それでは、「神様の慈しみ」とは何でしょうか。それは、「主イエス・キリストの十字架の死と復活」であります。ここに、神様の愛があります。ここに神様の慈しみがあるのです。私達の罪を背負い、私達の不信仰を担い、主イエス・キリストが、代わりに裁きを受けられた。その主イエス・キリストが、新しい命をもたらして下さった。その救いの出来事こそ、神様の慈しみであります。
 そして、その慈しみに留まる時、そこで、人はまた、新たに歩み出すことができる。ユダヤ人も異邦人もまた、そこで再び命を吹き返して生き直すことができる。パウロは、ここで改めて、キリストの十字架の死と復活の意義へと立ち帰って行くのであります。
 神様は、ユダヤ人に対して、救いを約束されました。そして、異邦人もまた、信仰によって、救いを約束してくださいます。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、私達に神様の国・永遠の命を約束してくださっています。
 しかし、私達は、時々、道を誤ることがあります。ユダヤ人もありました。私達も同じです。神様を中心とする生活ではなく、自分の思いや自分の言葉を中心としてしまうことがあるのです。その時、私達も又、切り取られていくことがあるかもしれません。
 しかし、神様が、あなたを救った、あなたを愛した。その事実だけは、決して変わることはないのであります。私達の闇がどれだけ大きく、深いものであったとしても、神様が、あなたを愛し抜かれることは変わることはない。その救いの約束は変わらない。
 だから、私達は、いつでも、キリストの十字架の前に立つことが許されているのです。私達の救いを目の前で見上げることが許されているのであります。この恵みへと立ち帰ることが許されているのであります。その深い憐れみと恵みとを、いつでも味わい直しながら、命を吹き返して歩み続けることができる。その幸いこそが、ここに強く示された恵みなのであります。
 信仰生活は、一つの旅路のようなものであります。その目的地は、神の国でありましょう。しかし、その歩みの中で、不安になることもあります。神の国に本当に入ることができるのか。そう不安になることがある。あるいは、その歩みが正しい歩みではなくなることもある。そのように、私達の歩みは、決して安定したものだけではないでありましょう。
 しかし、いつでも、私達が立ち帰ることのできる恵みがある。いつでも、私達を正しい歩みへと押し出していくスタートラインが備えらいる。そこに立ち、これからも歩み続けていくことができる。そこにキリスト者の大きな慰めがあるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:31| 日記

2018年07月17日

2018年7月22日 礼拝予告

○教会学校 9時15分〜
主題:「種まきのたとえ」
聖書:ルカによる福音書8章4節〜15節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の皆様も是非、共にお越し下さい。

○主日礼拝 10時30分〜
主題:「再び接ぎ木される」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙11章23節〜24節
※礼拝後、コーヒーブレイクがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:32| 日記

2018年7月15日 主日礼拝説教「神の慈しみと厳しさ」

聖書:ローマの信徒への手紙11章21節〜22節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙11章21節から22節の御言葉であります。
 この聖句全体を読んでみますと、「ユダヤ人」は、不信仰の故に「折り取られた枝」にたとえられています。「異邦人」は、信仰の故に「接ぎ木された枝」にたとえられています。
 ここには、大切なことが二つ示されています。それは、「折り取られる」のも、「接ぎ木される」のも、「一本の木」であるということであります。それは、即ち、ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても、救いは一つ、神様は一人なのだということなのであります。
 私達人間は、皆、違う存在です。見た目も違います。考え方も違います。経験も違います。育てられた環境も違います。人間は、皆、違う個性を与えられて生きています。
 しかし、その違いの中にも決定的に同じことがあるのです。それは、私達は皆、一人の神様、一つの救いの前に立っているということであります。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、私達であろうと、私達は皆、一人の神様、一つの救いのもとに立たされている。これだけは同じなのであります。そのことを、ここで改めて教えられるのであります。
 さて、もう一つ大切なことがあります。それは、全てが「一本の木」から始まるのだということです。即ち、「一本の木」があるからこそ、枝が生きるということです。枝が木を生かしているわけではないのです。一つの木があるからこそ、そこに枝が生きるのであります。
 つまり、私達がいるから、神様がいるわけではないということです。私達が働くから、救いが生まれるわけでもないということであります。神様がいてくださる。神様の救いがそこに実現している。だからこそ、そこに連なる、あるいは、そこに接ぎ木される枝が、豊かに命を得るのであります。
 このように、私達は、皆、一つの神様に繋がっている。そして、同じ一つの救いに連なっている。その救いは、人間から作り出されるものではない。神様がまずいてくださり、救いがまず実現していく。そのところに、私達は共に、結ばれて、共に生きることができる。違いはあっても、そこに共に生きるのであります。その幸いが、ここでまず示されているのです。
 神様は一人、救いは一つ。そこに救いの平等性があると言えるでしょう。しかし、ここでもう少し踏み込んで申し上げるならば、それは、「救い」が「平等」であるならば、等しく罪もあるのだということです。そこにも優劣はないのであります。あの人の方が優秀だから罪を軽くして頂くということはないのであります。救いが平等の救いであるならば、同じように「罪」もまた、「平等」のところにあるのです。
 そこで、更に踏み込んで言うならば、「裁き」も同じであるということです。あの民族が優れているから裁きは免れるということはないのです。罪が等しくあるならば、同じように裁きもある。ユダヤ人が厳しく裁かれたのであるならば、異邦人もまた、裁かれない保証はないのだということであります。
 信仰生活とは、救いを受けた人の生活です。そして、それは、神様の恵みによってのみ立つ生活です。この信仰も、この生活も、その全てが、神の恵みによって初めて成り立っている。そこに目を向けて生きる生活が信仰生活です。そして、それは、神様の慈愛、神様の恵み、神様の憐れみに留まる生活であるとも言えるでありましょう。
 しかし、慈愛に満ちた神様は、同時に、正しい神様です。私達の罪に対しては、ユダヤ人のように厳しく扱われる御方でもあります。そうでなければ、神様は偽りの神様になってしまうのであります。神様は正しい御方。その正しさをもって、不信仰や罪に対しては、厳しくおられる。その信仰者−ユダヤ人であろうと異邦人であろうと−を裁かれるのであります。
 パウロは、記します。「神の慈しみと厳しさを考えなさい」。慈しみだけではないのです。そして、厳しさだけでもない。しかも、大事なことは、それらが矛盾しないということです。つまり、慈愛も、峻厳も一つのことなのです。
 では、どこで共通していけるのでしょうか。それは、「神様の真剣な御心」であります。宗教改革者ルターは、この二つの言葉に「真剣」という言葉を入れたそうです。神様は、救いに対して真剣であるということです。真剣に慈しみ、真剣に厳しくおられる。私達が、救われることに真剣に生きて下さる。それが神様の御心なのであります。神様の厳しさを知るということは、それは、神様が真剣に私達を救おうとしていることを意味しているのであります。真剣に救いを考えておられる。だから、厳しく、峻厳に、私達と向き合って下さる。そのように考えるならば、厳しさもまた、愛なのであります。
 慈しみもまた、真剣であります。憐れみもまた、真剣であります。御子を死に渡されるほどに、真剣です。神様は、今、あなたの信仰生活において、真剣に、あなたの救いを思いながら、あなたの前に生きて下さる。その神様の真剣な眼差しに捕らえられながら、歩み続ける。そこから立ち上げられていく。そこに私達の姿がある。
 そして、その神の救いに対する真剣さを知るという生活は、正に、神の御心に思いを向け直していく生活なのであります。私達に対して、神様が、真剣に救いを思っていて下さる。真剣に愛を貫かれ、真剣に裁きを貫かれる。その神様の真剣な眼差しに目を向け直していく。ここにこそ、真の悔い改めを為し続ける、信仰者の姿が記されているのであります。救いは等しい、罪も等しい、裁きも同じように等しい。しかし、神様が、あなたの救いを真剣に思い続けて下さる。これもまた、等しい恵みなのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:29| 日記