2018年07月02日

2018年7月1日 主日礼拝説教「根に支えられて生きる」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章17節〜18節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙11章17節から18節の御言葉であります。
 17節の御言葉をお読みします。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、」。
 「ある枝」とは何を表しているでしょうか。これは、「ユダヤ人」のことです。彼らは、救い主である主イエスを十字架で殺しました。神様によって選ばれた神の民でありながら、自分たちの思いを中心にすることで、神様の独り子であるイエス・キリストを十字架で殺してしまいます。それは言い方を変えるならば、人間が、人間の思いを中心にすることで、神様の御心を殺すことでもありましょう。
 それ故に、何が起きたでしょうか。神様との正しい関係に破れが生じてしまったのであります。今朝の御言葉から申し上げるならば、正に神様との繋がりから折り取られてしまった。それが、ユダヤ人の悲惨な現実なのであります。そのように、ここでは厳しく言われているのであります。
 それに対して、「接ぎ木された野生のオリーブ」とは、何を表しているでしょうか。それは、「異邦人」であります。そもそも、「野生」とは何を表しているのでしょうか。それは、「手入れがされていない存在」。あるいは、「このままでは良い実が結べない存在」。あるいは、「衰えて死んでいくだけの存在」。それが、「野生のオリーブ」という言葉の意味であります。聖書的な表現で申し上げるならば、罪に満ち、死に支配されたような存在。それが、「野生のオリーブ」と呼ばれる「異邦人」の姿なのであります。言うならば、初めから見捨てられたような木や枝。それが異邦人とユダヤ人の違いとも言えるかもしれません。
 しかし、ただただ、滅んでいくだけの存在が、新しい木へと接ぎ木されていく。恵みに満ちた木へと固く結ばれていく。それ故に、滅び行くはずのものが、恵みを受けて新たに生きる者へと変えられていく。その幸いが、ここで深く示されていくのであります。
 頑張って、良い木になりなさいとは言われていないのです。自分で手入れをしなさいとも言われていない。弱いままなのです。貧しいままなのです。しかし、そのような存在が、恵みへと接ぎ木されていくのであります。そして、新しく命を頂くのであります。ここにもまた、深い主の憐れみを思うものであります。
 それでは、なぜ、「異邦人」が、接ぎ木されるのでしょうか。異邦人が、特別に優秀な人々だったからなのでしょうか。そうでないのであります。彼らは、あくまでも「野生」なのであります。手入れがされていない、ただただ滅びていくだけの存在なのであります。即ち、罪と死に支配されたような存在。到底、救われるには価しない存在なのであります。
 つまり、異邦人が救われたのは、自身の力や素質によることではないのであります。滅びいく存在から切り取られ、神様の救いへと一つにされていく。死に行くだけの存在が、新しい命へと繋がれていく。そこで、新しい命を受けて生き直すことができる。それは、ただただ、神様の深い憐れみによるものでしかないのであります。私達の行いや素質は、その救いには一ミリも関係していないのであります。
 だからこそ、そこで何が起こるのでしょうか。それは、私達が、自分たちを「誇れない」ということであります。「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」私達が救いを受け、恵みをうけて生きられるのは、ユダヤ人の信仰が弱く、自分の信仰が強いからではないのです。ユダヤ人が愚かであり、自分たちが優秀であったからではないのであります。このように、私達は、他者を裁くことも、自分自身を誇ることもできないのであります。私達は、誰一人として、自分の力で救いを勝ち得たわけではない。いやむしろ、自分たちは、ただただ滅びるだけの存在でしかない。
 しかし、そのような私達が、ただ、主の憐れみによって、新しく生きることが許されている。だから自分を誇ることはできないのであります。これが、信仰生活において非常に重要なことなのであります。
 信仰生活において、様々な苦難を経験することもあるだろうと思います。信仰生活が喜びだけに満ちているとは、聖書は語りません。時に、心が折れてしまうこともある。あるいは、自分自身が誤った道を歩むこともある。しかし、キリストと結ばれているあなたの存在の根底には、主イエス・キリスト御自身が根付いているのであります。そのキリストは、変わらないのであります。だからこそ、どのような状況にあっても、私達は、立ち上がることができる。新たに生き直すことができる。そのことを、改めて深く心に刻みつけて生きるものでありたいのであります。
 そして、もう一つ厳しくも大事なことがあります。それは、どれだけ、信仰的な生活をしていても、その根が老木のままであるならば、それは、本当の意味で信仰的な生活ではありません。礼拝に欠かさず出席し、奉仕を熱心に行い、聖書を日々熟読し、祈りに溢れた生活をする。それは、大切なことであります。
 しかし、その一つ一つの行いが、キリストを根底に据えた行いでないならば、その行いの中心に、自分を誇る心があるならば、それは本当の意味で、生きた信仰生活ではないのであります。それは、ユダヤ人と同じなのです。自分の誇りを立て、キリストを殺すことと同じなのであり、切り取られ、焼かれていくだけの存在でしかないのであります。
 もしかすると、そのような悲惨な現状に、私達がたつこともあるだろうと思います。しかし、もう一度、思い起こすものでありたい。切り取ることが出来る御方は、滅び行くものを接ぎ木できる御方でもあるということです。どれだけ貧しく、弱いものであっても、切り取られ、投げ捨てられるだけの存在であったとしても、それを拾い上げ、接ぎ木することが出来る方が、私達の近くに生きていてくださる。改めて、私達は、その根底に立ち帰り、主に感謝をし、主を畏れ敬う信仰生活へと歩み出すものでありたいと願うものなのであります。
 主イエス・キリストは、このように語られます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:20| 日記