2018年07月23日

2018年7月29日 礼拝予告

○教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書8章19節〜21節
主題:「主イエスの母、兄弟」
※礼拝後、分級があります。
※8月中の教会学校はお休みです!!

○主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙11章25節〜27節
主題:「全ての人が救われるため」須賀 工 牧師
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びが行われます。
※8月中の聖書の親しみ祈る会はお休みです!!

皆さんのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:40| 日記

2018年7月22日 主日礼拝説教「再び接ぎ木される」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章23節〜24節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙11章23節から24節の御言葉であります。改めて、聖書の御言葉をお読みします。「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元に木に接ぎ木されることでしょう。」
 ユダヤ人は、「神様の民」です。ユダヤ人は、「神様の救いを約束された人々」です。しかし、ユダヤ人は、その神様の御子イエス・キリストを殺し、神様に背を向けました。そして、その不信仰によって、彼らは、神様の救いから切り取られてしまいました。
 それでは、ユダヤ人は、もう救いを受けることができないのでしょうか。もし、ユダヤ人が救われないとするならば、かつて与えられたはずの神様の救いの約束が、偽りとなります。それは、言い変えるならば、神様が偽り者になるということです。「あなたを救う」という言葉が嘘になるからであります。しかし、神様は、決して、偽りを言いません。神様は、常に正しい御方であります。そうであるならば、ユダヤ人もまた、まだ救われるチャンスがあるということになります。
 それでは、ユダヤ人は、どのようにして、再び救いを得ることできるのでしょうか。一生懸命に、修練をし直すことによって、救いを再び勝ち取ることができるのでしょうか。今までの信仰生活よりも、もっと厳しい修業を積むことによって救いを得ることができるのでしょうか。
 聖書には次のように記されています。改めて全文をお読みします。「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元に木に接ぎ木されることでしょう。」 「不信仰に留まらない。そうすれば、再び接ぎ木される」のであります。しかも、たやすく接ぎ木されるのであります。「不信仰に留まらない」とは、何を意味しているのでしょうか。「信仰に留まれ」という意味でしょうか。確かに、そのような意味でありましょう。
 しかし、ここで大切なことは、「留まる」ということです。私達は、どこに留まるべきなのでしょうか。ちょうど前の箇所には、次のように記されています。22節をお読みします。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
 「不信仰に留まらない」ということは何を意味しているのでしょうか。それは、この聖書箇所の文脈から申し上げるならば、「不信仰に留まるのではなく、神様の慈しみに留まる」ということであります。これは決して、異邦人だけの問題ではないと思います。慈しみに留まることが、救いの道であるならば、それは異邦人であろうと、ユダヤ人であろうと同じことであります。異邦人が、慈しみ留まるように、ユダヤ人も、神様の慈しみに留まる。不信仰に生きることを止めて、神様の慈しみに生きることを始める。そこから、再び、息を吹き返して歩み出すことができるのだということなのであります。
 それでは、「神様の慈しみ」とは何でしょうか。それは、「主イエス・キリストの十字架の死と復活」であります。ここに、神様の愛があります。ここに神様の慈しみがあるのです。私達の罪を背負い、私達の不信仰を担い、主イエス・キリストが、代わりに裁きを受けられた。その主イエス・キリストが、新しい命をもたらして下さった。その救いの出来事こそ、神様の慈しみであります。
 そして、その慈しみに留まる時、そこで、人はまた、新たに歩み出すことができる。ユダヤ人も異邦人もまた、そこで再び命を吹き返して生き直すことができる。パウロは、ここで改めて、キリストの十字架の死と復活の意義へと立ち帰って行くのであります。
 神様は、ユダヤ人に対して、救いを約束されました。そして、異邦人もまた、信仰によって、救いを約束してくださいます。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、私達に神様の国・永遠の命を約束してくださっています。
 しかし、私達は、時々、道を誤ることがあります。ユダヤ人もありました。私達も同じです。神様を中心とする生活ではなく、自分の思いや自分の言葉を中心としてしまうことがあるのです。その時、私達も又、切り取られていくことがあるかもしれません。
 しかし、神様が、あなたを救った、あなたを愛した。その事実だけは、決して変わることはないのであります。私達の闇がどれだけ大きく、深いものであったとしても、神様が、あなたを愛し抜かれることは変わることはない。その救いの約束は変わらない。
 だから、私達は、いつでも、キリストの十字架の前に立つことが許されているのです。私達の救いを目の前で見上げることが許されているのであります。この恵みへと立ち帰ることが許されているのであります。その深い憐れみと恵みとを、いつでも味わい直しながら、命を吹き返して歩み続けることができる。その幸いこそが、ここに強く示された恵みなのであります。
 信仰生活は、一つの旅路のようなものであります。その目的地は、神の国でありましょう。しかし、その歩みの中で、不安になることもあります。神の国に本当に入ることができるのか。そう不安になることがある。あるいは、その歩みが正しい歩みではなくなることもある。そのように、私達の歩みは、決して安定したものだけではないでありましょう。
 しかし、いつでも、私達が立ち帰ることのできる恵みがある。いつでも、私達を正しい歩みへと押し出していくスタートラインが備えらいる。そこに立ち、これからも歩み続けていくことができる。そこにキリスト者の大きな慰めがあるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:31| 日記