2018年08月21日

2018年8月19日 主日礼拝証「時が巡りくれば」南浦陽子姉

聖書:詩編36篇6節〜10節

 本日、聖日の朝に、証の時が与えられましたことを感謝申し上げます。レントの時に一度
証をさせていただきました。その時、共に祈ってくださった方々には重複する箇所があることをお許しください。
 「時が巡りくれば」と題させていただきました。これは詩編1篇3節の「時が巡りくれば実を結び」という聖句、木々に実りの季節があるように、神は誰にでも、それぞれの実りの時を備えて下さっているという御言葉に、自分が信仰へと導かれた道のりを重ね合わせる想いで選ばせていただきました。
 私は両親、祖父母の下に初めての子供として生を受けました。特に祖父に充分に愛されて育ちました。当時、家では祖父の力は絶対でしたので、甘やかされて育った私に、両親は随分、心配していたと思います。幼いころの思い出は、祖父と共に過ごした豊かな時間ばかりで、今も、鮮やかに蘇り、心の中には温かいものが流れます。これは私の芯になっているものです。雨の日、外に遊びに行くこともできず、ぼんやりと縁側に座って雨粒が庭の池に落ちては消える様子をじっと眺めていた私に、後ろから突然、祖父の優しい声「どうしたんや?」
 いつも自分を見ていてくれる人がいる、いつも守られている、いつも愛されているという安心感。それは自分自身を解放し、力を与えてくれるものだということを、先に、実感してしまったのです。小学校にはいるときに、祖父母は新しく建てられた離れに移り、私は両親の下にもどされました。祖父に甘やかされて育った私を両親は随分、心配したようです。母は理想や期待もあり、いろんなことをさせてくれましたが、ただただ愛してくれた祖父の愛とは違うと、長い間、常に、両親とは距離をもって接するようになりました。いつも守られていた世界から、一歩ずつ、学校や社会に出るたびに、この世には絶対なものは存在しないと強く思うようになりました。それは子供同士が「明日、絶対遊ぼうね」という小さな約束から、もっと大きなことまで何度もあり、小学校の高学年の頃には、毎朝、「絶対は無い」と自分にいいきかせてから起きていました。その頃、祖父が病気になり、家で療養していました。母からは、大きな声を出してはいけない、離れに近づいてはいけないと言われていましたが、私は祖父が心配でならず、学校から帰ると、庭に潜んで、離れの様子をうかがっていました。ある日、あの祖父が悲痛な声で「もうあかん、死ぬんや」と言い、いつも物静かで大人しい祖母が「大丈夫ですよ」と力づけているのを聞いてしまいました。
 私はこの世で絶対なものはないと確信することで、自分の中に絶対を積み重ねてしまいました。周りの大人たちには批判的で、ばかにしていましたので、母からそのことで注意を受けても聞く耳をもっていませんでした。
 その時は突然に訪れました。高校一年生の5月、素晴らしい晴天の日でした。放課後のクラブ活動で、その日は男子と同じメニューをこなすということで、電車で二駅ほど離れた神宮の森まで走ることになりました。男子はそのまま折り返し、たった4人の女子は休んでから帰れとのことで、私達はうんと遊んでから、バスで帰ることにしました。すっかり解放された時間がうれしくて、それぞれが草の上に寝転んだり、話しこんだり、歩き回ったりしていました。その時、まだ若い木々の間から、急に光が差し込み始めました。
 私はその美しさに立ちすくみ、生まれて初めて心を震わせる感動を覚えました。感動しているのは私一人でしたが、何かわからないけれどすごいものがあると確信し、喜びで胸がいっぱいになり震える思いをしました。この出来事が私の信仰への第一歩だったのです。創世記36節6〜10篇をもう一度、お読みします。
 「主よ、貴方の慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人おも獣をも救われる。神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり あなたの光に、私達は光を見る。」広大で、果てしのない大空。その中で、いちばんの輝きは光です。わたしたちの頭上は神様の慈しみと絶対なる真実で満ちています。それはあまりにも大きすぎて、わたしたちでは、受け止めることはできません。わたしたちはその中で、そのいつくしみと真実の中にいかされ、様々なことを経験させていただくのだと、終わりの日まで、その光の大きさ、輝き、深さを追い求める者でありたいとおもいます。
 私が受洗後、まだ、どのように聖書を読んでいったらいいのか迷っていた時に、母校の先生から、詩の朗読会に手伝いに来てほしいとの依頼を受けて、受付をしていた時、確か上智大学の卒業生だったと思うのですが、「詩編を愛する会」?という人たちが登場し、詩編23編を空で吟じられました。その美しさに私は詩編が大好きになりました。
 私のようにいい加減な人間が毎日、1章ずつ、初めから読み続けるというのは、何度かの挑戦の後、とても不可能なことだと知りました。指導をして下さった内藤牧師が、つぶやくように「クリスチャンというものは、基本的に水曜日と日曜日には、教会に来るものです」とおっしゃった言葉を大切にして、水曜日の祈禱会と日曜日の礼拝は出来るだけ休まないで続けようと決心しました。御言葉のみ恵みと祈りによって、少しずつ、正しい筋道で聖書を読むことが今はとても楽しみです。
 わたしの教会デビューは小学生の時、同級生が聖公会の日曜学校に誘ってくれた時です。残念ながら、そこは私にはあまり居心地の良いところではなかったので、二度とはいきませんでしたが、その時、もらったらカードの絵に見入っていました。その友人のすごいところは、そんなわたしの心をさっとつかんだところです。次の日には箱いっぱいにカードを詰め込んで「私、いっぱい持ってるからあげるわ」と家に持ってきてくれました。私はそのカードを何度も楽しみました。ちなみに彼女は、ヴィクトリアの古い大きな教会の牧師婦人となって、婦人の世界会議やら、慈善活動やら大活躍だそうです。ほとんど40年ぶりに再会しましたが、中身は小学校の時のままで、クリスチャンになったばかりの私は、とてもがっかりしました。私はその時、クリスチャンはまだ特別な人達、信仰をもつ人々はセルフコントロールができることができる立派な人たちだと誤解していました。確かにそうなのですが、自分自身を押し殺そうとする努力をすることではなく、神様を信じることにより、思ってもみなかった自分が大切にされていること、子供讃美歌にあるように、生まれる前から神様に愛され、守られてきた自分の命の重さを実感して、感謝して、生き抜くことではないでしょうか。フィリピの信徒への手紙3章8節から9節に、「そればかりか、わたしの主キリストイエスをしることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてをうしないましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストのうちにいるものと認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられた義があります。」この御言葉で、信仰に生きるというのは、キリストから離れずに生きるということ、私達は恵みに縋りつくしか、生きることはできないという現実を受け入れること。それ故、他人をも受け入れる気持ちを持つこと。謙遜な生き方をできるかといわれれば、自分はそれができるような人間では到底ありません。
 信仰を持つことが自分を捨て去ることならば、それは不可能です。神から与えられた義、自分がキリストのうちに見いだされるという個所に、私たちがキリストを信じるということがどういうことであるのかがしるされており、心が震える箇所だと思います。心が震えるとき、私達は確かに解放されるのです。キリストの十字架の重みが、私たちの命の重みであることをしっかりと受け止め、毎日毎日の生活を大切に、毎週の礼拝を大切に生きたいとおもいます。
 子供の時から、児童合唱団で歌っていました。とても怖い先生が指揮をなさっていました。先生が怒ると、こめかみに青筋がたち、皮のスリッパをドンと響かされるすごさは子供にはとても恐ろしいものでした。それでもやめなかったのは歌うことが本当に好きだったのだと思います。生活することに追われて、その後、長い間、歌うことを封印してきましたが、急に、又、歌いたくなりました。犬の散歩で石田姉と知り合い「賛美歌を歌う会」に出席させていただくようになり、内藤姉が、遠慮がちに「聖歌隊で歌ってほしい」とおっしゃり、礼拝に招かれるようになりました。そんな私に、「やるならちゃんとやりなさい」と背中をおしてくれたのが夫でした。
 時期が満たされていたのでしょう。躊躇することなく、信仰生活に入ることができました。思い返せば、その時々に、神様の導きがあり、多くの人たちが支えてくださいました。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世を裁くためではなく、御子によって、この世がすくわれるためである」
私たちがそんな神に招かれた時こそ、永遠に向かって、神の御手に導かれる命であることを感謝して、今日を生き抜きたいと思います。
 最後になりましたが、古いアルバムをみていましたら、椅子に座った祖父母、祖母の膝の上で両手を広げて笑っている6か月の私、後ろに立つ若い両親。皆、微笑んでいます。写真をはがしてみると、裏に流れるような母のペンの痕。「この子に光あれ」の文字。ほんとうにびっくりしました。たくさんのひとたちにささえられ、長い時間をかけて、人生最後の時に許されて信仰が与えられました。神様の子の御業になによりも感謝申し上げます。
 あなたの御心に沿う生き方ができない者ですが、許されて、あなたに導かれることを祈ります。私たちの感謝と祈り、イエスキリストの御名を通して御前におささげ致します。アーメン
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:26| 日記

2018年08月13日

2018年8月19日 礼拝予告

○教会学校 −休会−

○主日礼拝 10時30分〜
主題:「時が巡りくれば」南浦 陽子姉
聖書:フィリピの信徒への手紙3章8節〜9節

※礼拝後、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ちもうしあげます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:30| 日記

2018年8月12日 主日礼拝説教「神の富と知恵と知識」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章33節〜36節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙11章33節から36節の御言葉であります。33節をお読みします。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究めつくし、神の道を理解し尽くせよう。」
 「神の富」とは何でしょうか。これは「神の豊かさ」です。もう少し前後の文脈に合わせて言い換えると、「神の憐れみ・救いの豊かさ」です。神様に対する人間の罪がどれだけ大きいものであったとしても、その一人のために、御子イエス・キリストを、惜しみなく死に渡される。御自身の御子を十字架に架けるほどの敵に対しても、そのあなたのために御子を惜しみなく捧げられる。ここにこそ、私達人間には、到底、測り知ることのできない、究め尽くことのできない、理解を超えた「憐れみの豊かさ」があるのではないでしょうか。
 「神の知恵」とは何でしょうか。これは「神様の救いの知恵」のことです。神様の救いは、神様の知恵によって実現するのです。これを更にかみ砕いて申し上げるならば、「神様の救いは、神様の知恵に満ちたご計画によって成り立っている」ということであります。「救い」というものは、人間の知恵によって成り立っているわけではないのです。人間が知恵に満ち、悟りを開くことによって救いが分かるということではないのであります。むしろ、人間の知恵では、窮め尽くせない、理解しえない、その先に、神様の救いのご計画がある。自分が納得するから救いを受けるのではなく、納得できない所にこそ、実は、神様の救いの知恵・神様の救いのご計画がある。だからこそ、神の救いの知恵は、計り知れないほどに深いのであります。
 「神の知識」とは何でしょうか。それは、「神様が私達を知っている」ということです。私達のことを、私達よりもよく知っているということです。私達の痛み、悲しみ、苦しみだけではありません。私達の罪を、私達よりもよく知っている。それは、言い方を変えて申し上げるならば、この私達よりも、私達にとって本当に必要な救いを知っているということであります。そして、そのことをよく知っている上で、御子を与えられた。御子を惜しみなく死に渡された。罪の悲惨さを知りながら、御子を捧げられた。これは、人間の知識では、到底、窮め尽くせない憐れみなのであります。
 このように、「神の富」「神の知恵」「神の知識」の深さは、同様に、私達に対する神様の救いの深さ、憐れみの深さを教えてくれます。神様の救いは、深いのであります。そして、その救いは、計り知れない豊かさ、知恵、知識に基づいた救いなのであります。
 それでは、神様とは、窮め尽くせないほどに遠くにおられる方なのでしょうか。実は、それも違うのです。「深さ」を知るためには、その「深さの中に」いなければ、決して、分からないのです。神の豊かさ、知恵、知識もまた、神様の御手の中にあって、その深さを知ることができる。私達は、神様のことを何も分からないのです。救いのこと、自分の罪のことも分からないのです。何も知らない無知、無力なものなのであります。
 しかし、そのあなたが、今は、もう既に、神様の手の中に生かされている。神様の御支配の中で、神様の救いの光の中で、その恵みの深さを喜び、賛美するものとされているのであります。神は遠くにいます神ではなく、窮め尽くせない神の手の中で、私達は、神様の測り知ることの出来ない恵みの深さを喜ぶものとされているのであります。
 34節〜35節の御言葉をお読みします。「『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』」
 この聖書箇所は、イザヤ書とヨブ記の引用です。両方の箇所に共通することがあります。それは、「神様の正しさを疑う人間の姿」です。バビロン捕囚という悲惨な歴史の中で、イスラエルは、神の正しさを疑いました。ヨブは、自分に受けた悲惨の状況の中で、神の正しさを疑った。神の正しさを疑うということは、人間の正しさを優先するところへと人間の方向を変えてしまいます。
 そのような人間の愚かさの中で、これらの御言葉が語られていきます。神様は、人間の思うようにはならない。神様の正しさは、神様にしかとらえられない。人間が神を振り向かせたり、指示することはできない。このように人間の弱さと共に、神様の絶対的な主権について、ここで語られているだろうと思います。
 しかし、その一方で、パウロは、この引用文を「賛美の言葉」として記しているのではないでしょうか。自分は弱い。自分は無知、自分は神に対して何も出来ない。自分は何も分かっていない。しかし、それでも、その私が、神様の深い御心の中に入れられている。神の御手の中に抱かれている。この幸いは、何にも変えられない。そのような喜び、そして、賛美の言葉が、ここで示されているのではないかと思うのであります。
 そして、そうだからこそ、この聖句は、最後、賛美の言葉で閉じられていくのではないかと思うのです。36節「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にあるように、アーメン。」
 この賛美の言葉は、罪ある世界、死の支配する世界の中で歌われています。そして、この賛美は、もう罪も死もなく、ただ、神の支配、神様の救いの支配が、ここにあることを賛美している。この賛美を心から歌える人は誰でしょうか。それは、もう既に、罪と死から解放された、私達です。罪と死に勝利している私達こそが、心を込めて、この賛美を口にすることができる。究められない神様の御手の中で、何も分からない、無力で、弱い私達が、神様の救いを心から喜び、その計り知れない恵みを味わいつつ、罪と死に捕らわれることなく、ただ主のみを見上げて賛美ができる。ここにキリスト者の大きな幸いがあるのです。
 神様の恵み、救いは、深くてとらえきれないものです。しかし、私達がとらえられなくても、神様が、わたしたちを強くとらえてくださいます。そして、罪からも死からも解き放たれた、本当の自由な、神様の御手の中で、そのとらえきれない神の恵みを、私の恵みとして、心から賛美することができる。その幸いを新たに心に留めて行くものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:29| 日記