2018年08月27日

2018年9月2日 礼拝予告

○教会学校 9時15分〜
主題:「ペトロ、信仰を告白する」
聖書:ルカによる福音書9章18節〜20節
※礼拝後、誕生日会が行われます。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

○主日礼拝 10時30分〜
主題:「神様の御心を問いながら」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙12章2節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:15| 日記

2018年8月26日 主日礼拝説教「キリスト者の生活」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章1節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章1節の御言葉であります。改めて、御言葉をお読みいたします。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
 ローマの信徒への手紙は、大まかに3つの内容に分けることができます。一つは、「人間の罪について」です。二つ目は、「神様の救いについて」です。三つ目は、「救いを受けた人間の新しい生活について」であります。「罪からの救いを受けた人間が、一体、何を大切にして生きるべきなのか。」それが、最後の三つ目の内容です。今朝の御言葉は、この三つ目に関する冒頭の御言葉となっています。
 キリスト者の生活−生き方−において、何よりもまず大切なことは何でしょうか。それは、「神様を中心としているか」であります。それが、キリスト者の生き方において、一番大切なことなのであります。どれだけ良い生き方をしていたとしても、その人が、神様を中心としていないのであれば、それは、主の目には空しいのであります。
 それでは、神様を中心とする生活とは、具体的に、どのような生活なのでしょうか。少し言い方を変えて申し上げるならば、私達が、神様を中心とする生活を送る時、何をまずすべきかということです。実は、それがここで語られていることなのです。改めて、後半部分の御言葉をお読みします。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
 神様を中心とする生活とは、具体的には、どのような生活なのでしょうか。それは、「礼拝生活」なのであります。神様を中心とする生活とは、神様を礼拝することを中心とする生活なのです。礼拝が、私達の信仰生活の中心にあるということなのであります。
 「礼拝」とは何でしょうか。私は、長い間、礼拝とは、「恵みを頂く時」と思っていました。皆さんの中にも、そのようにお感じになる方もいるかもしれません。それは間違っていません。礼拝を通して、私達は救いを頂き、恵みを頂くのであります。
 しかし、そもそも「礼拝」とは、恵みをうけた私達が、神様を神様として拝み、崇める奉仕なのであります。神様を礼拝をするから恵みを頂くのではなく、頂いた恵みに応答することもまた、「礼拝」なのです。
 もし、「礼拝」が、ただ恵みを受けるだけの場所であるならば、それは、人間の飢えた心を満たすだけの都合の良い場所でしかないということになるのです。礼拝は、恵みをうける時間です。しかし、同時に、礼拝は、恵みをうけた私が、神様を神様として崇め、自分の全存在を神様のものとして−正にいけにえとして−献げる奉仕なのであります。
 神様が、信仰生活で望んでおられることは、何か特別なことではないのです。今、あなたが、ここで礼拝を捧げている。それが、もう既に、神様の望んでおられることなのであります。今、あなたが、ここにいるということが、もう既に、神様に対する応答であり、献身なのであります。
 しかし、ここにはもう一つの問題があります。それは、私達が、神様を礼拝するのに相応しいかどうか、ということです。この聖句にもあるように、神様に喜ばれる、聖なる、生き生きとした存在として、礼拝を捧げるものとなっているか。礼拝に相応しい存在となっているだろうか。それが、ここで強く問われていくのであります。そして、そのように問われてしまうならば、急に、顔を下げたくなってしまうのは、私だけでしょうか。
 しかし、決して心配する必要はないのです。罪人を招くために、主イエス・キリストは、この世に来て下さり、今も共に生きておられるのであります。相応しくないはずの私達が、キリストを通して、神様の前に相応しい者として立つことが赦されているのであります。キリストを通して、神様の目に喜ばれる、聖なる、生きた存在として、新たに造り替えられた上で、今、こうして、神様を崇める礼拝を捧げることが許されているのであります。
 本来ならば、神様の御前に立つ資格のないはずの私が、キリストの犠牲によって、キリストの赦しによって、神様に喜ばれる存在として、神様のものとして受け入れられる存在として、礼拝へと招かれていくのであります。その幸いを味わいつつ、その恵みと憐れみに支えられながら、私達は、私達を神に献げる礼拝を捧げるのであります。
 キリスト者の生活の中心は、神様を中心とすることです。神様を中心とすることは、礼拝を中心として生きるということです。しかし、これは、決して、礼拝に出てくれば良いというだけの問題ではありません。「自分の体」というのは、自分の存在であると共に、自分の生活そのものであります。日々の生活の中で、神を崇める生活を送ること。これもまた、大切なことであります。礼拝だけ出て、それ以外の生活では、神様を忘れてしまうのも誤りであると思います。生活の全てにおいて、神を神として崇めながら生きる。これもまた、キリスト者の生活のにおいて非常に大切なことではないかと思うのです。
 しかし、礼拝を中心とする生活においても、様々な苦難があります。礼拝に中々、来ることの出来ない人もいます。様々な理由で礼拝から離れる人もいます。心に痛みを抱えながら、礼拝に一生懸命に来られる人もいるだろうと思います。日々の生活の中で、神を神として崇められない時もあるだろうと思うのです。そのような場合、私達は、神様に見捨てられていくのでしょうか。
 今朝の御言葉の前半部分をお読みします。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」パウロは、まず、ロマ書で「人間の罪について」記しました。そして、続いて「神様の救いについて」記します。そして、その救いの光の中で、この勧めを記しているのです。私達は、どのような状況にあっても、神様の救いの中で、生きるのです。救いの光の中で、その憐れみに支えられながら、主によって、新しい生活へと招かれているのです。
 「勧める」という言葉も実は、とても特別な言葉です。この言葉は、「励ます」とか「慰める」という意味もあるそうです。また、「近くに呼び寄せて声をかける」というニュアンスもあると言われています。ヨハネによる福音書では、この言葉は、「聖霊」と関連付けて用いています。
 つまり、神様は、どこか遠くから、抑圧するように、「こうしろ」「ああしろ」と言っているわけではないのです。私達の最も近くで、私達を慰めるように、励ますように、私を礼拝する生活へと招かれるのです。どういう状態であっても、私があなたの神であることは変わらない。あなたは、私の前に来て良いのだよ。あなたは、私の前に立つのに相応しい喜ばしい者なのだよ。そう優しく招き入れて下さる。日々の生活の中でも、このように励まされて生きることができるのであります。この声に聴きながら、私達は、日々、礼拝者としての生活を歩むことが許されているのであります。
 そして、何よりも、この言葉は、「あなたがた」「兄弟達」への言葉です。信仰生活は、神様と共に、そして、キリストを長子とした、信仰者の繋がりの中で営まれるものなのであります。互いに励まし、慰め、勧めつつ、共に礼拝を通して、神を神と崇める、正に神様を中心とした礼拝者としての生活を歩む日々でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:12| 日記