2018年09月25日

2018年9月23日 主日礼拝説教「互いに思い合う」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章10節
 
 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章10節の御言葉であります。10節の前半を改めてお読みします。「兄弟愛をもって互いに愛し、」
 ここで、ただ「互いに愛し合いなさい」とは言われていません。「兄弟愛」をもって愛するということが語られています。
 キリスト者は、「兄弟」と呼ばれます。つまり、キリスト者は、「一つの家族」です。しかし、この家族には、大切なことがあります。それは、「神様」が、「私達の父」であるということです。
 本来であるならば、罪の故に、神様の敵であるはずの私が、主イエス・キリストの執り成しを頂いて、神様の家族に迎えられている。ここにまず、私達は、神様の深い愛を感じるものであります。そして、その測り知ることの出来ない愛の中で、私達は、一つの家族なのであります。
 つまり、私達が、互いに愛し合えるのは、キリスト者が皆、神様に愛された家族だからなのであります。神様の大切な家族だから、互いに愛し合うのです。単なる人類愛とか道徳感情ではないということです。私達は皆、神様の家族に招かれた存在であり、神様の愛を受けた存在です。その愛を受けて、その愛の中で、その愛に支えられながら、一つの家族として愛し合う。一つの家族として思い合う。それが大切なのです。
 この私のためだけではなく、そこにいるあなたのためにも、神様は、御子イエス・キリストを惜しみなく死に渡されたのであります。この私のためだけではなく、そこにいる彼らのためにも、神様は、惜しみなく愛を注がれるのであります。
 神様が、断固として愛するものを、私達が、自分勝手に憎むことなど、本来はありえないことであります。たとえ、この自分が、愛せない人間であったとしても、神様は、その人を愛してくださっている。大切に思ってくださっている。その神様の愛の深さや大きさを知る所に、日々、立ち帰りつつ、改めて人間関係を見つめ直していく。そこから、互いに愛し合う生活が切り拓かれていくのではないかと思うのであります。
 大切なことは、自分が、兄弟姉妹をどう思うかではなくて、神様が、この人を如何に愛しておられるかというところから、人間関係のスタートを切ることが大切なのであります。
 そして、そのような神様の愛、兄弟姉妹を愛する神様の愛。その愛を知るところで、私達は、もう一つ大切なことを知ることが出来るのです。それは、この私も、同じように愛されているということです。この私も確かに、神様の愛の中にいるということです。兄弟姉妹が愛されていることを知ることは、この私もその愛の中にあることを味わい直すことでもあるのです。兄弟のために命をかけられた御方は、この私のためにも命をかけられた。その幸いを思い起こせるのであります。ここにキリスト者の愛に基づく生活における幸いがあるのです。
 しかし、それでも「兄弟愛をもって互いに愛し合う」というのは、なかなか、難しいものであります。自分の思いが大きくなれば、やはり、他人を愛に抜くことも難しいでありましょう。また、場合によっては、教会に愛を見出せないこともある。
 しかし、それは、間違ったことではないのです。なぜなら、私達は弱いからです。罪に満ちているからです。汚れたものだからであります。教会は、完璧な人間の集まりではないのであります。むしろ、弱さや罪に満ちたところに、私達の現実があるのが事実なのであります。
 しかし、私達が、どれだけ弱く、罪深く、愛に生きられないものであったとしても、神様が、私達を愛しているということは、決して変わることはないのであります。あるいは、神様が、私達を神様の家族として招かれたことに変わりはないのです。この私のために、あの兄弟姉妹のために、あなたのために、御子を惜しみなく死に渡された。その事実だけは、真実の愛で有り続けるのであります。そこに立ち帰るところから、何度でも始めたら良いのです。そして、その愛の中で、改めてお互いの関係を見つめ直し続けていく。これがやはり、大切なことなのであります。そして、それこそが、私達の生活のスタートラインなのだということ。そこを大切に思うものでありたいものであります。
 次に、パウロは、次のように記しています。「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」
 愛の生活は、「尊敬をもって相手を認める」生活なのだと言われています。互いに尊敬し合い、認め合うということは、何を意味しているのでしょうか。
 それは、自分と他人を比べ、自分よりも優れた人を褒め称え、自分を卑下することなのでしょうか。それでは、ここで言われているように「お互いに」ということが成り立たないことになります。どちらかが敬われ、どちらかが自己卑下をするところには、真実に「互いに尊敬し合う関係」は成立していないのです。
 それでは、「互いに尊敬し合う」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「お互いの賜物を認めること」です。自分とは、違う個性を認めることです。自分にはないものを持っているその人の賜物や個性を知り、それを認め合い、そして、共に喜ぶことです。「あなたには、こんなにも素晴らしい賜物がある」という、その喜びを、共に分かち合うことであります。
 ローマの信徒への手紙12章4節の御言葉をお読みします。「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いの部分なのです。」
 私達は、一つの体なのです。家族であると同時に、家族をこえて、一つの体なのであります。そして、その中心に、主イエス・キリストが立っているのです。このキリストに共に結ばれている一つの体なのです。
 体には、沢山の部分があり、それぞれの働きは異なります。しかし、どのような部分も必要とされる部分です。それと同じように、キリストに結ばれた私達も、働きは異なりますが、その人に合った必要な賜物を頂き、必要な器として用いられているのであります。キリストに結ばれた全ての人が、何かを与えられ、全ての人が主に必要とされている。その幸いの中で、お互いの存在を認め合うのであります。
 ここで大切なことは、「キリスト者の生活とは、一人の生活ではない」ということです。それは、協同の生活なのです。一人ぼっちで生きることがキリスト者ではないのです。どのような状態であっても一人ではないのです。どのような人であっても、どのような働きであっても、その人は、他の人と同じように、キリストに結ばれた、一つの大切な部分なのです。自分も大切な部分です。そのことを改めて思うところで、私達は、お互いの賜物を認め合い、お互いを尊敬し合う関係へと一歩を進めることができるのであります。私も、あの人も、主に結ばれた大切な部分。そして、主のために共に生きる大切な存在なのだ。そう思い起こしていくところで初めて、お互いを尊重し合える関係へと新たに歩み出すのであります。
 愛し合うこと、尊敬し合うこと。簡単なことではないかもしれません。なかなか、実際に実現させることも容易ではないと思います。しかし、究極的なことを申し上げるならば、今朝の御言葉で大切なことは、この私が、愛に生きているか否か、尊敬に生きているか否か、それが教会で実現されているか否か。それが一番の重要な事柄ではないということです。
 私が愛のない人間、尊敬できない人間であったとしても、あるいは、教会の中で、そのような生き方が実践されていない状況があったとしても、私達が、共に神様の家族であり、一つの体であることには何も変わりはないということなのであります。どうしようもない、自分をとことん愛し抜いてくださる神様であるならば、自分の目にどうしようもなく映る誰かも、同じように愛されている。その愛は、自分に対しても、その誰かに対しても、決して変わることはない。そういう神様の愛の断固たる決意と広がりに思いが至るところでこそ、新しい人間関係が開かれていくのではないかと思うのであります。
 神様は、御子を惜しみなく死に渡されるほどに、あなたを愛しています。しかし、その愛は、あなたの目の前の人にも与えられた愛です。あなたも、その人も、この私も、共に、この愛の中に入れられています。その愛の中で、私達は、一つの神の家族であり、一つの体であります。それぞれが違う存在であり、それぞれが大切な存在です。でも、皆が、共に、神様の愛の中にいる。その神様の愛の広がりに思いを馳せながら、日々、兄弟姉妹との関係を見つめ直しつつ、共に歩みを進めて、共に生きていくものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:43| 日記

2018年09月16日

2018年9月23日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「マルタとマリア」
聖書:ルカによる福音書10章38節〜42節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も、是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「互いに思い合う」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙12章10節
※礼拝後、五分の集い(青年会)、信仰の学びが行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:21| 日記

2018年9月16日 主日礼拝説教「偽りのない愛」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章9節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章9節の御言葉であります。改めて今朝の御言葉をお読みします。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず」。
 「愛には偽りがあってはなりません。」このように今朝の御言葉が始まっています。キリスト教の生活は、一言で申し上げるならば「愛の生活」です。但し、その愛は「真実の愛」です。「偽りの愛」ではありません。「真実の愛に生きる」ことが、「キリスト者の生活の基盤」であります。
 「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い、怠らず励み…。」9節以下には、色々な生き方が書かれています。改めて、キリスト者の生き方の豊かさを思うものです。しかし、その全ては、「真実の愛に生きる」ということを土台としているのであります。
 つまり、「愛には偽りがあってはなりません」というお勧めは、色々あるキリスト者の生き方の一つではないということです。そうではなくては、色々あるキリスト者の生き方を支える土台なのだということを、ここでご理解いただければと思うのであります。
 「愛には偽りがあってはなりません」と、ここでは記されています。しかし、そもそも、この言葉は、本来、このように訳すべきではない言葉なのです。
 もし、そのままの言葉で読むならば、非常に律法主義的、あるいは、命令文のような言葉として読めます。そして、どこかで自分の生き方を強く問われるような思いがします。あるいは、人の生き方を裁きたくなるような言葉でもあります。自分は真実の愛に生きているのか、あの人は真実の愛に生きているのか。そのように、自分や他者の生き方を問うような言葉として読むことが出来るだろうと思うのであります。
 しかし、先ほども申し上げましたが、この一文は、そのように、律法主義的、命令文として読むことが、正しい読み方ではないのであります。
 この一文は、「愛には偽りはない」という断定された言葉なのです。もう少し付け加えると、「愛には偽りがないことを知っている」という言葉なのです。要するに、私達は、出来る出来ない関わらず、「真実の愛を知っている」のだと、ここでは断定的に言われているのであります。「人がどう」とか「自分がどう」ということではなく、そもそも、私達は、「愛に偽りがないこと」をよく知っているのだということなのです。そのことを深く知っている者として、初めて「真実の愛に生きる具体的な生活が始まる」のであります。
 しかし、ここで大切なことがあります。それは、私達自身が、真実の愛を知り続けるということです。愛される経験が、愛を生み出すように、私達自身が、真実の愛を受けているからこそ、真実の愛に生きることができるのではないでしょうか。自分の思う愛とか、自分に都合の良い愛では、やはり「偽りの愛になりえる」危険性を孕んでいると言えるかもしれません。大事なことは、私達自身が、真実の愛を知り続ける、その愛の中に生かされ続ける。それを起点に愛をもって生きる。それが大切なことなのであります。
 では、私達は、どこで、真実の愛、偽りのない愛を知ることが出来るのでしょうか。ローマの信徒への手紙5章8節の御言葉をお読みします。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあります。
 そして、同じ5章5節には、次のような言葉があります。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 どこで「真実の愛」を知るのでしょうか。それは、キリストの十字架において知るのです。神様は、御子を惜しみなく死に渡されるほどに、私達を愛してくださる。愛という言葉が分かりにくいのであれば、「お大切」という言葉をイメージして頂いても構いません。私達は、キリストの十字架において、神様の愛を知り、私達をかけがえのないほどに大切にしてくださることを知るのであります。私達は、この愛を真実の愛として知っているのです。
 では、その愛は、どのように知るのでしょうか。聖霊によって知るのであります。私達が愛について学び、実践することが、第一ではないのです。まず、神様によって愛されている。大切にされている。その恵みを聖霊によって味わい知ることができる。そこで真実の愛を知り、その愛に押し出されるようにして、それぞれの生活へと歩み出すのであります。
 私達は、愛が偽らないことを知っているのです。神様が、変わることなく、裏切ることなく、私達を愛し、かけがえのないものとしてくださることを、私達は、いつも、聖霊によって、御言葉によって、味わい知る者とされているのです。そして、その恵みをうけて、新たに生きるものとされているのであります。
 それでは、「真実の愛」を土台とした生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。それが、次に続く御言葉であります。それが「悪を憎み、善から離れない」ということです。「悪を憎み、善から離れない」ということは、善悪が何かを知っているということです。即ち、「真実の愛を土台として生きる人」は、「正しい道を歩む」ということです。あるいは、「真実の愛を知る人」、ということは、「正しい道を知る人」ということでもあるのです。
 少し違和感がある人もいるかもしれません。もし、真実の愛というものがあるならば、「悪を憎む」というよりは、「悪を赦す」という言葉の方が良いのではないか。そのように感じたのは、私だけでしょうか。
 しかし、悪を赦す。そのところにある愛は、最終的には、その人を破滅へと至らせることもあるのではないかと思うのです。本当に、私達が、自分を愛し、隣人を愛するということは、その自分が、その隣人が、正しい道を歩むことを心から望むものです。それ故に、真実の愛を知り、真実の愛に生きる人は、正しい道を知り、正しい道を歩む、ということになるのです。
 しかし、ここにも大切なことがあります。真実の愛についても同じですが、その愛や正しさが、自分の愛や正しさにならないということです。真実の愛が、自分から発せられることがないように、正しい道も、自分が作り出すものではないのです。
 私達は、真実の愛を知るように、真実の正しさも知っているのです。私達の知っている真実の正しさとは何でしょうか。それは、「神様だけが正しい」ということです。何か道徳的な答えや倫理的な答えではなく、私達は、神様だけが正しいことを知っている者なのであります。この神様に強く結ばれていくところで、私達は、正しい道を知り、その道を歩むのであります。真実の愛に生きることも、あるいは、それを土台として、正しい道を行くにしても、その歩みは、自分だけの歩みではなく、神様と深く結ばれたところにある歩みなのだということを、改めて心に留めるものでありたい。そして、そのようなキリスト者の生活の中心には、主が立っていて、支えてくださり、愛を注ぎ続けてくださっている。その幸いにも深く思いを馳せるものでありたいと思うのであります。
 実際に、真実の愛に生きることは、大変、困難の道のように思います。しかし、私達は、聖霊を通して、神様によって真実に愛されていることを知っています。そして、その愛が、偽りのない、決して変わることのない愛であることを知っている。そして、愛されている、この私達が、神様の目に正しい者として受け入れられていることも知っています。その恵みを何度でも噛みしめながら、新たに日々歩み出す。そこに偽りのない愛に生き、愛を土台として、正しい道を歩む、私達の日々の営みがあるのだということを、今朝の御言葉は、強く教えられているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:18| 日記