2018年09月04日

2018年9月2日 礼拝説教

聖書:ローマの信徒への手紙12章2節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章2節の御言葉であります。改めてお読みします。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
 キリスト者の生活とは、どのような生活なのでしょうか。それは、人に愛される生活でしょうか。あるいは、人を愛する生活でしょうか。あるいは、自分の生活を犠牲にして、人の期待に応える生活でしょうか。あるいは、逆に、人里を離れて、修行を積むような生活なのでしょうか。
 勿論、そのような生活のスタイルを否定するつもりはありません。しかし、キリスト者の生活において、一番大切なことはなんでしょうか。それは、「神様と共に歩む生活」であります。「神様と結ばれた生活」であります。これが大切です。ここが忘れられてしまうならば、その人の生活が、どれだけ良いものであったとしても、神様の御心には空しい生活となります。
 キリスト者の生活とは、神様と結ばれた生活です。それは言い換えるならば、神様と離れていた古い生活ではなく、神様と一つに結ばれた新しい生活であります。実は、この「新しさ」こそが、大切なのです。
 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」このようにパウロは記しています。「この世」とは、どのような「世」でしょうか。「俗世間」のことでしょうか。「罪に満ちた世界」のことでしょうか。間違いではないでしょう。しかし、もし、それだけであるならば、キリスト者の生活とは、そのような世界から離れて、山に籠もるような生活をしなければいけません。果たして、「この世」とは、どのような世なのでしょうか。
 「この世」とは、先ほども申し上げましたが、「神様と離れた古い世」のことです。あるいは、主イエス・キリストと関わりのなかった「古い世」のことであります。私達は、今、キリストによって救われ、神様と共に生きる新しい世を生きています。しかし、かつては、神様を知らなかった、キリストを知らなかった古い世を生きていた。今、私達は、神様と共に生きる新しい世界を生きている。しかし、キリストを知ることなく、神様を知ることなく、今もまだ、古い世に生き続けている人がいる。同じ一つの世界や時代の中に、神によってもたらされた新しい世に生きる人と神を知らぬ古い世に生きる人が共存しているのであります。
 だから、ここで大切なことは、この世から離れれば良いということではないのです。神様の支配と神様に背く支配が共存する世にあって、神様を知らぬ世ではなく、神様と共に結ばれた生活をしていこう。新しい世に生き直そう。それが、ここで大切な教えとして示されていくのです。
 ローマの信徒への手紙13章11節〜12節をお読みします。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」今は、どういう時か、今はどういう世か。それは、日が近づいている世、時代なのです。わたしたちは、もう既に、新しい日に生きるものなのです。しかし、夜はまだ更けている。まだ、闇が残っている。それが、今の世なのであります。この闇の世に生きるのか。この新しい一日に生きるのか。それが、問われている。そして、新しい日に生きることを、神様が望んでおられるのであります。
 だからこそ、ただ、この世を離れ、修行すれば良いというわけではないのです。大事なことは、今、ここに生きる、私達が、神様のものとして、神様をあがめて新たに生きるということに尽きるのです。それこそが、「この世に倣わない生き方」なのであります。それは、言い換えるならば、日々、古い自分から切り離され、新たにされながら生きるということでもあります。
 では、どのように新たにされるのでしょうか。それは、キリストの十字架を知ることであります。キリストの十字架の死と復活に生かされる生活です。その光の中で生きていくところで、私達は、日々新たにされて生きる。徹底的に、日々、キリストの十字架の前に立つ。それは、悔い改めの生活をすることであり、救いを味わい、恵みを味わいながら生きることでもありましょう。そこにキリスト者の新しい生活があり、この世に倣うことのない生活があるのです。何か特別なことをすることが求められるわけではないのです。ただ、日々の生活の中で、この生活の只中で、十字架の死と復活のキリストを見上げて生きるのです。そのところで、私達は、古い自分から新しくされていくのです。神様と結ばれる新しい生活。その生活は、キリストの十字架の死と復活に生きる生活。そのところで、私達は、日々、新たにされる。日々、新たに生き直すことができる。日々、神様の愛の御手の中に新たに生きることができる。そのことが、ここで強く示されているのであります。
 この新しい生活とは、更に具体的には、どのような生活なのでしょうか。ここにもあるように、「神様の御心に適った、神様の目によい、神様に喜ばれた、完全なるもの」として、新たに生きるということです。
 2節の後半部分は、どうしても、倫理的な響きが強く感じる部分です。こう生きなければいけないのか。こうしなければいけないのか。どこか、キリスト者の生活は、窮屈に感じるかもしれません。
 しかし、「わけまえるようになりなさい」という言葉は、実際には、「わきまえるようになる」という断定の言葉です。私達が、そのように「なるように努力する」のではありません。キリストによって新たに命を頂き、そのような存在へと造り替えられていくということなのです。
 今や、私達は、キリストを通して、神様に喜ばれる者として、生きてよいのです。いや、主は、そのような存在として、私達を受け入れてくださるのであります。キリストを自らの主と受け入れ、キリストの十字架の死と復活に生かされるところで、私達は、主の御心に適った、主に喜ばれるものとしての新しい生へと押し出されていくのです。
 何が主の御心か、何が主に喜ばれるのか。それは、私達には、とらえがたいものでありましょう。しかし、その私達が、既に、キリストによって御心に適ったものへと造り替えられている。新しくなるのではなく、そのように新しくされて生かされる。その深い幸いの中で、私達は、主の御心を問いつつ、しかし、同時に、自由な心をもって、この生活を歩んでいくのです。その幸いを深く心に留めて、日々、キリストの十字架の死と復活によって、新たに生かされながら、共に信仰生活を歩む者でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:51| 日記