2018年09月09日

2018年9月16日 礼拝予告

○教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書10章25節〜37節
主題:「よきサマリア人の譬え」
※礼拝後、手話を楽しく学びます。
※保護者の方々も是非、共にお越し下さい。

○主日礼拝 10時30分〜
聖書:ローマの信徒への手紙12章9節〜13節
主題:「偽りのない愛」須賀 工牧師
※礼拝後、コーヒーブレイクがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:38| 日記

2018年9月9日 主日礼拝説教「一つの体」須賀 工 牧師

○ローマの信徒への手紙12章3節〜8節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章3節から8節の御言葉であります。3節の前半部分をお読みします。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」
 実は、ここで既に大切なことが示されています。それは、パウロが、「わたしに与えられた恵みによって言う」のだということです。つまり、パウロは、ここで、ただ自分の言葉で語るのではないのです。神様の恵みの中で、神様の恵みに支えられて、神様の恵みに生かされながら、教会に向けて言葉を語っているのです。
 実は、これが、今朝の御言葉の大切なポイントなのです。即ち、キリスト者の働きとは、その人自身の力や特性に基づくものではないということです。神様の恵みの中で、神様の恵みに押し出され、神様の恵みに支えられて、初めて、その働きに意味をなすということなのであります。
 もし、キリスト者の働きが、神様の恵みから離れて、自分一人のものとなるならば、その働きは、もはや、主のためでもなければ、隣人のためでもない。正に、自分のための働きに終始してしまうのだということなのであります。ここに今朝の御言葉の大切なポイントがあるのです。
 そのことを踏まえた上で、3節の残りの部分をお読みします。「自分を過大評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」
 パウロが、この手紙を書いた時、パウロは、どこにいたのでしょうか。それは、コリントです。コリントの教会にいました。そのコリントの教会には、一つの大きな問題がありました。それが「賜物についての問題」です。教会の中で、自分の賜物を誇る人がいたようです。あるいは、自分の働きを誇り、他人を裁く人がいたようです。
 そのような問題の只中で、パウロは、この手紙を書いているのであります。コリントの教会の問題をローマの教会に伝える意味は何でしょうか。恐らく、パウロの中で、この問題が、コリントだけの問題ではないと感じたのかもしれません。世界中の教会の問題の一つなのだと感じたのかもしれません。要するに、私達もまた、この問題とは無関係ではないということを暗に示しているのだろうと思うのです。
 「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」このようにパウロは記しています。これは、決して、神様が、「ある人には弱い信仰を与え、ある人には強い信仰を与えた」という意味ではありません。「神様が、あの人に弱い信仰を与えたのだから、この程度の働きで十分。神様がその人に強い信仰を与えたのだから、これだけするのが当たり前」ということではないのです。そもそも、「度合いに応じて」という言葉は、「基準に従って」という意味もあります。
 つまり、神様が信仰を与え、生かしてくださった。神様が恵みによって信仰を与え、生かしてくださった。そのことを基準として、そのことを中心に据えて、慎み深く−これは「目を覚まして」という意味もある−、目を覚まして自分を見つめ直して欲しい。その所で、過大評価することが、本当に正しいことなのか。もう一度、自らの目を覚まして見つめ直してほしい。それが、ここで言われていることなのであります。
 要するに、そもそも、神様によって信仰が与えられなければ、今の自分はないのだということを思い起こすことが大切なのです。神様が恵みによって、信仰を与えてくださった。そこに立ち帰って、自らを再評価する。そのところで、誰が、自分を過大評価できますか、ということが問われているのです。そもそも、神様が恵みよって信仰を与えてくださらなければ、今のあなたはいないのだということを思い起こす。そのところで、誰が、自分を過大に評価できるのでしょうか。それが、問われているのであります。
 正に、神様の恵みなくして、今の自分はない。そこに立ち帰ることなくして、本当の奉仕は生まれないのだということであります。良い行いをするから信仰が認められるのではないのです。神様が、恵みによって信仰を与えられ、救いを与えられるところから、それぞれの行いへと導かれるのであります。私達の働きは、私達から始まるのではなく、神様の恵みから始められ、神様の恵みの只中で行われるのであります。これは本当に大きな幸いであり、慰めであります。この幸いに立ち帰り続けるところに、キリスト者の具体的な生き方があるだということなのであります。
 これらのことを踏まえた上で、改めて、私達は教会とは何か。そのことを見つめ直していくものでありたいと思います。4節から5節をお読みします。「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」
 教会とは何でしょうか。それは一つの体なのです。体には、沢山の部分があります。そして、それぞれ、働きが違います。それと同じように、教会も又、それぞれの人がいて、それぞれの働きがある。その働きによって、教会が形成されていくのが事実なのです。
 しかし、忘れてはいけないことがあります。その体の中心が、それらの部分ではないのです。部分は、部分でしかない。教会も同じです。私達の働きが教会を支えます。しかし、私達の働きが教会の中心ではないのです。
 教会の中心は何でしょうか。私達の中心はどこにあるのでしょうか。「キリストに結ばれて一つの体を形作っている」のが教会です。教会の中心は、キリスト御自身なのであります。キリストからキリスト者が生まれ、キリストから全ての働き始められるのであります。キリスト者の働きは、全て、ここから始まるのであります。私達の一つ一つの働きは、キリストが中心に立ち、キリストと固く結ばれて、キリストの恵みの中で、初めて意味をなしているのであります。
 先ほども申しました、神様の恵みなくして、私達は何もできない。それと同じです。キリストを離れては、私達は何も出来ないのです。キリストと固く結ばれ、キリストの恵みに生かされて生きる。その恵みの只中で、私達は初めて、キリストを中心とする一つの体の大切な一部として、それぞれの働きへと導かれていくのであります。
 キリストを中心とすること。それが教会であります。その教会の働きには様々な働きがあります。6節から7節をお読みします。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精をを出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」
 キリストを主軸とする教会。その教会には、様々な働きがあります。その沢山の働きをもって、私達は教会を建て、神様と人とにお仕えをします。
 しかし、その働きもやはり、人間の自発的な行いから始まるわけではありません。恵みとして与えられる賜物によって始まるのです。神様が、私達に、それぞれ異なった賜物を与え、神様と人にお仕えするため、そして、教会を建てるために、私達を用いられます。
 どの賜物も、神様が恵みによって与えられるものであります。その賜物を自分のものとするのではなく、神様のために、人のために、お互いのために、惜しみなく、互いに捧げる。そのところで教会形成をしていくのです。
 自分を過大評価するところでは、その賜物は、それが、どれだけ素晴らしいものであったとしても自分だけのものになります。しかし、神様の恵みを覚えて生きるところでは、私達は、神様のために、隣人のために惜しみなく、自らを捧げるものとして、新たに生きるものとなるのです。
 なぜでしょうか。私達は、知っているのです。まずは、神様が、惜しみなく、快く、御子を捧げるほどに、私達を愛してくださることを知っています。その恵みに支えられ、その恵みに押し出されるようにして、私達は、個人的な感情ではなく、与えられた信仰に基づいて、主のために、隣人のために、お互いのために、自らに与えられた賜物を惜しみなく捧げるものとなるのです。主がまず捧げてくださった。その恵みなくして、私達の働きは生まれてこないのです。
 改めて、まず主が、私達のために御子を捧げ、恵みをもって、私達を選びだしてくださったことを覚え、目を覚まして、自らの立場を見つめ直し、与えられた賜物、与えられた新しい命を、主のために、隣人のために惜しみなく捧げるものとして、共に歩み出していくものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:35| 日記