2018年09月16日

2018年9月23日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「マルタとマリア」
聖書:ルカによる福音書10章38節〜42節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も、是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「互いに思い合う」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙12章10節
※礼拝後、五分の集い(青年会)、信仰の学びが行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:21| 日記

2018年9月16日 主日礼拝説教「偽りのない愛」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章9節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章9節の御言葉であります。改めて今朝の御言葉をお読みします。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず」。
 「愛には偽りがあってはなりません。」このように今朝の御言葉が始まっています。キリスト教の生活は、一言で申し上げるならば「愛の生活」です。但し、その愛は「真実の愛」です。「偽りの愛」ではありません。「真実の愛に生きる」ことが、「キリスト者の生活の基盤」であります。
 「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い、怠らず励み…。」9節以下には、色々な生き方が書かれています。改めて、キリスト者の生き方の豊かさを思うものです。しかし、その全ては、「真実の愛に生きる」ということを土台としているのであります。
 つまり、「愛には偽りがあってはなりません」というお勧めは、色々あるキリスト者の生き方の一つではないということです。そうではなくては、色々あるキリスト者の生き方を支える土台なのだということを、ここでご理解いただければと思うのであります。
 「愛には偽りがあってはなりません」と、ここでは記されています。しかし、そもそも、この言葉は、本来、このように訳すべきではない言葉なのです。
 もし、そのままの言葉で読むならば、非常に律法主義的、あるいは、命令文のような言葉として読めます。そして、どこかで自分の生き方を強く問われるような思いがします。あるいは、人の生き方を裁きたくなるような言葉でもあります。自分は真実の愛に生きているのか、あの人は真実の愛に生きているのか。そのように、自分や他者の生き方を問うような言葉として読むことが出来るだろうと思うのであります。
 しかし、先ほども申し上げましたが、この一文は、そのように、律法主義的、命令文として読むことが、正しい読み方ではないのであります。
 この一文は、「愛には偽りはない」という断定された言葉なのです。もう少し付け加えると、「愛には偽りがないことを知っている」という言葉なのです。要するに、私達は、出来る出来ない関わらず、「真実の愛を知っている」のだと、ここでは断定的に言われているのであります。「人がどう」とか「自分がどう」ということではなく、そもそも、私達は、「愛に偽りがないこと」をよく知っているのだということなのです。そのことを深く知っている者として、初めて「真実の愛に生きる具体的な生活が始まる」のであります。
 しかし、ここで大切なことがあります。それは、私達自身が、真実の愛を知り続けるということです。愛される経験が、愛を生み出すように、私達自身が、真実の愛を受けているからこそ、真実の愛に生きることができるのではないでしょうか。自分の思う愛とか、自分に都合の良い愛では、やはり「偽りの愛になりえる」危険性を孕んでいると言えるかもしれません。大事なことは、私達自身が、真実の愛を知り続ける、その愛の中に生かされ続ける。それを起点に愛をもって生きる。それが大切なことなのであります。
 では、私達は、どこで、真実の愛、偽りのない愛を知ることが出来るのでしょうか。ローマの信徒への手紙5章8節の御言葉をお読みします。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあります。
 そして、同じ5章5節には、次のような言葉があります。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 どこで「真実の愛」を知るのでしょうか。それは、キリストの十字架において知るのです。神様は、御子を惜しみなく死に渡されるほどに、私達を愛してくださる。愛という言葉が分かりにくいのであれば、「お大切」という言葉をイメージして頂いても構いません。私達は、キリストの十字架において、神様の愛を知り、私達をかけがえのないほどに大切にしてくださることを知るのであります。私達は、この愛を真実の愛として知っているのです。
 では、その愛は、どのように知るのでしょうか。聖霊によって知るのであります。私達が愛について学び、実践することが、第一ではないのです。まず、神様によって愛されている。大切にされている。その恵みを聖霊によって味わい知ることができる。そこで真実の愛を知り、その愛に押し出されるようにして、それぞれの生活へと歩み出すのであります。
 私達は、愛が偽らないことを知っているのです。神様が、変わることなく、裏切ることなく、私達を愛し、かけがえのないものとしてくださることを、私達は、いつも、聖霊によって、御言葉によって、味わい知る者とされているのです。そして、その恵みをうけて、新たに生きるものとされているのであります。
 それでは、「真実の愛」を土台とした生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。それが、次に続く御言葉であります。それが「悪を憎み、善から離れない」ということです。「悪を憎み、善から離れない」ということは、善悪が何かを知っているということです。即ち、「真実の愛を土台として生きる人」は、「正しい道を歩む」ということです。あるいは、「真実の愛を知る人」、ということは、「正しい道を知る人」ということでもあるのです。
 少し違和感がある人もいるかもしれません。もし、真実の愛というものがあるならば、「悪を憎む」というよりは、「悪を赦す」という言葉の方が良いのではないか。そのように感じたのは、私だけでしょうか。
 しかし、悪を赦す。そのところにある愛は、最終的には、その人を破滅へと至らせることもあるのではないかと思うのです。本当に、私達が、自分を愛し、隣人を愛するということは、その自分が、その隣人が、正しい道を歩むことを心から望むものです。それ故に、真実の愛を知り、真実の愛に生きる人は、正しい道を知り、正しい道を歩む、ということになるのです。
 しかし、ここにも大切なことがあります。真実の愛についても同じですが、その愛や正しさが、自分の愛や正しさにならないということです。真実の愛が、自分から発せられることがないように、正しい道も、自分が作り出すものではないのです。
 私達は、真実の愛を知るように、真実の正しさも知っているのです。私達の知っている真実の正しさとは何でしょうか。それは、「神様だけが正しい」ということです。何か道徳的な答えや倫理的な答えではなく、私達は、神様だけが正しいことを知っている者なのであります。この神様に強く結ばれていくところで、私達は、正しい道を知り、その道を歩むのであります。真実の愛に生きることも、あるいは、それを土台として、正しい道を行くにしても、その歩みは、自分だけの歩みではなく、神様と深く結ばれたところにある歩みなのだということを、改めて心に留めるものでありたい。そして、そのようなキリスト者の生活の中心には、主が立っていて、支えてくださり、愛を注ぎ続けてくださっている。その幸いにも深く思いを馳せるものでありたいと思うのであります。
 実際に、真実の愛に生きることは、大変、困難の道のように思います。しかし、私達は、聖霊を通して、神様によって真実に愛されていることを知っています。そして、その愛が、偽りのない、決して変わることのない愛であることを知っている。そして、愛されている、この私達が、神様の目に正しい者として受け入れられていることも知っています。その恵みを何度でも噛みしめながら、新たに日々歩み出す。そこに偽りのない愛に生き、愛を土台として、正しい道を歩む、私達の日々の営みがあるのだということを、今朝の御言葉は、強く教えられているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:18| 日記