2018年10月17日

2018年10月21日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「大宴会の譬え」
聖書:ルカによる福音書14章15節〜24節
※礼拝後、楽しみながら手話を学ぶ時間を持ちます。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇特別伝道 主日礼拝 10時30分〜
主題:「幸いな人生とは」北 紀吉牧師(松沢教会)
聖書:マタイによる福音書20章1節〜15節
※礼拝後、愛餐会と講演会があります。無料です。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:40| 日記

2018年10月14日 主日礼拝説教「希望は欺かない」須賀 工牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章12節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章12節の御言葉です。改めて御言葉をお読みします。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」 クリスチャンの生活は、「希望をもって喜べる生活」であります。「希望」は、実現したら、その地点から「希望」ではなくなります。つまり、「希望」とは、今はまだ、実現していないことであります。今はまだ、実現していないけれど、必ず最後には実現することであります。これが「希望」であります。
 但し、人間の最後は「死」であります。つまり、必ず最後には実現する「希望」とは、「死」を越えた先にある「希望」でなければいけません。私達に与えられた「希望」とは、そのような「希望」であります。正に、「死」すらも凌駕するほどの大きな「希望」です。「死」によって揺らぐことのない「希望」です。死の先にこそ、真の希望があるのです。
 人間は、生きていく中で、沢山、悲しみます。沢山、苦しみます。沢山、痛みを負います。そして、その苦しみの中で、「希望」が見出せない時があります。
 しかし、「希望」とは、私達の目に見える所にあるものではなく、私達の目には見えない「死」の先にあるものなのです。これが「真の希望」なのであります。
 苦しみの中で、悲しみの中で、痛みの中で、倒れてしまうことがあるかもしれません。しかし、私達には、死を越えた先に「真の希望」が約束されている。そのように思いが至る時、この今の苦しみが、最後の苦しみになるではなく、「真の希望」に向かうための一つの通過点であることに思いを至らしめる者とされるのであります。
 そして、正に、その希望を土台とした所でこそ、私達は、初めて、そこで喜びをもって生き、更には、苦難を耐え忍ぶ。そのような新しい生活へと歩みを進めていくものとなるのであります。
 どのような苦しみ中にあっても、その苦しみが永遠ではないことを知っているのです。その苦しみの果てに死があります。そして、その死を越えた先にこそ「真の希望」があることを知っている。その幸いを知る時、この今の苦しみは、いつかは過ぎ去るものであることを知ることができる。その幸いを深く知るからこそ、今を喜ぶ者となるのです。あるいは、その幸いを深く知る所でこそ、初めて苦難を耐え忍ぶ者となるのであります。
 はっきりと申し上げなければいけないのは、信仰者の生活とは、苦難が取り去られる生活ではありません。苦難を耐え忍ぶ生活です。苦難の下に留まる生活です。
 しかし、その苦難とは、永遠の苦難ではないことを知っています。私達には、死を越えた先に、真の希望がある。そのことを深く見つめながら、苦しみの中をも歩んでいけるのであります。「もうダメだ」と思わなくても良いのです。私達には、「終わりがない」ことを、私達は、既に知っているのであります。
 しかし、人間は完璧ではありません。苦難の中で、希望を忘れてしまうことがある。真の希望に思いが至らないこともある。死の先にある希望よりも、早く希望が欲しいと思うこともある。死の先にある希望が見出せないこともあるでしょう。それもまた、人間の自然な姿であると思います。
 しかし、そのような人間の現実の中でこそ、大切なことがあります。それが「たゆまず祈る」ということです。言い方を変えて申し上げるならば、神様との交わりに生きるということであります。真の希望が見えない所でこそ、私達は、自分で、それを探すのではなく、主を頼って良いのであります。自分で希望を見つけるのではなく、神様が、真の希望を与えてくださる。そのところに、寄りかかって良いのであります。希望が分からないから、神様から離れてしまうのであれば、いつまでも、希望が分からないままであります。真の希望が何であるかを、神様との交わりに生きるところでこそ、私達は知る者となるのであります。希望を喜び、苦難を耐え忍ぶ生活とは、自分一人で頑張る生活ではなく、神様との深い交わりの中で、真の希望を知り、その恵みの中で、喜び、忍耐する生活なのであります。
 ローマの信徒への手紙5章5節には、次のように記されています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」神様との深い交わりの中で、私達は神様の愛を知り、神様の愛を知るところで、希望が真実であることを知る者とされる。それが、私達に与えられた信仰生活なのであります。
 さて、真の希望とは何でしょうか。それは、死を越えた先にある希望です。死の先にある希望とは何でしょうか。それは「永遠の命」であります。「神様と共に生きる命」とも言えるかもしれません。この地上から離れ、神様の支配する国で、神様と共に生きること。これが、「永遠の命」です。そして、これが死を越えた、その先にある「真の希望」であります。
 「永遠の命」を与えるために、神様は何をしてくださったのでしょうか。神様の御子イエス・キリストをおつかわしになってくださったのであります。そして、御子イエス・キリストを惜しむことなく死に渡し、私達の罪を赦して下さったのであります。
 このキリストは、今、死を越えて、私達と共に生きて下さいます。このキリストに結ばれて生きるところで、私達も又、罪が赦されて、神様の子どもとして、神様の国で、神様と共に永遠に生きることが赦されています。
 惜しむことなく御子を死に渡された方が、日々、私達に愛を注ぎ続けてくださる。死を越えられたキリストが、いつも、共に生きていてくださる。そのところで、私達は、いつでも、死の先にある真の希望を知り続けることができる。真の希望に立ち帰ることができる。ここに、信仰者であることの深い慰めがあるのです。そして、この慰めに支えられながら、私達は、喜びの日々、忍耐の日々へと押し出されていくのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:29| 日記

2018年10月12日

2018年10月7日 主日礼拝説教要旨「罪を焼かれた者として」野田 沢牧師(SCF主事:学生キリスト教友愛会)

聖書:ヨハネによる福音書15章1節〜17節

 この聖句を読み、私たちは不安になる。「私はよい実をつけることができるだろうか?」と。…その思いをもつのは自然でしょう。むしろ、我々の中で誰が「自分はよい実をつけている」と言えるか。だからこそ、聖書に向き合い、礼拝を守る。
私たちはこの聖書箇所を読むときに、「私から離れるな」「豊かな実を結べ」…と、脅迫的な感覚をもって読み、聞いている。しかし主イエスは、十字架の死のまさにその前夜、最後の晩餐の席上で、弟子たちと私たちに語りかけてくださっている場面です。
「私は、あなたがたとつながるために父から離れ地上に下ってきた。だから、私の愛に繋がっていなさい。」「主イエスが繋がっていてくださる」。…なんという喜びと慰めに満ちた言葉でしょうか。
 しかしながら私たち人間は自立を望む。神からの自立を。私たちの人間性を最も良くあらわしているのが、「アダムとエバ」。神からの自立を望む人間の姿です。神から離れた方が、もっと豊かでもっと強くなれるのだと。自分たちの力で、生きるすべてを決定したいのだと。
自分たちの善悪、自分たちの価値判断、自分たちの裁き、自分たちの自分たちの……その先には、争いや痛み、嘘や妬み。弱い人々に目を向けず、力の追求と力による支配しかない。私たちの人類の歴史が、イスラエルの歴史がまさにそうであった。神からの自立。そして堕落。争いと力の支配。預言者の出現による立ち返り。…その繰り返しであった。
だから、主イエスは言う。「自分の言葉ではなく、私の言葉をいつも胸におきなさい」と。繋がって生きること。頼って生きること。神の目に豊かに生きること。自立して、私たちの目に豊かに生きるのではない。「弱さの中で、貧しさの中で、その中で、私を頼って生きなさい」とおっしゃるのです。
私たちキリスト者にとって、病や老い、欠乏や弱さは決して欠点ではないのです。
 私につながっていなさい。…これは私たちの努力を求める言葉ではありません。いつも「私はあなたとつながっている。」という主による約束の言葉。主イエスはおっしゃる。私は、あなたを離すことはない。何があっても離さず滅びから救い、愛へと導く。
「焼かれるのはあなたたが枝ではなく、幹である私自身である。」…主は何というお方でしょう。こんな私のために死んでくださるとは。生涯を通して十字架の主に感謝を奉げましょう。


posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:39| 日記