2018年10月28日

2018年11月4日 礼拝予告

教会学校 9時15分〜
主題:「放蕩息子の譬え」
聖書:ルカによる福音書15章11節24節
※礼拝後、誕生者祝福の祈り、そして、誕生日会を行います。
※保護者の方々もぜひ、共にお越しください。

主日礼拝 10時30分〜
主題:「もてなしの心」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙12章13節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びの時があります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:50| 日記

2018年10月28日 主日礼拝説教「永遠に生きる」須賀 工 牧師

聖書:ヨハネによる福音書6章52節〜59節

 今朝、私達は、永眠者記念礼拝を捧げています。過ぐる日、神様の御下へと召された兄弟姉妹の面影を偲びつつ、主の御名を賛美する礼拝を捧げる者でありたいと思います。
 主イエス・キリストは、次のように述べています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」
 主イエス・キリストの命が、私達を永遠に生かすのであります。他の何物でもなく、ただ、主イエス・キリストの命だけが、私達を永遠に生かすのであります。
 私達が食べる食物が、私達の内側に吸収されて、私達の命を支えるように、主イエス・キリストもまた、私達の内側に生きて働き、私達を永遠に生かす糧となるのです。
 但し、違うこともあります。私達が食べる食物は、この地上においてだけ、私達の命を支えます。しかし、食べ物は、私達を永遠に生かすことはできません。食べ物を食べ続けたとしても、人間は、いつかは肉体が滅び、終わりの時を迎えます。
 しかし、主イエス・キリストの命を頂く一人一人は、その死すらをも越えて、永遠の命に与ることが約束されているのであります。
 私達は、今、その約束の中に入れられています。そして、過ぐる日、主の御下に召された一人一人もまた、私達以上に、その約束を深く噛みしめながら、神の御腕に抱かれつつ、平安の時を過ごしているのではないでしょうか。
 私達が信じている救い主とは、どのような救い主なのでしょうか。あるいは、過ぐる日、主の御下へと召された聖徒たちが、私達と共に信じた救い主とは、どのような救い主なのでしょうか。
 この地上で豊かさを保証する救い主なのでしょうか。困ったときに、必要なものを与えてくださる御利益のある救い主なのでしょうか。この地上で幸せを保証してくださる救い主なのでしょうか。
 もし、そうであるならば、私達は、死を前にして、ただ嘆くだけの者であります。この地上だけの保証では、死を乗り越えることは出来ないからであります。そして、その救い主は、結局は死に打ち勝てない救い主であるということです。そこに真の希望は見出せるのか。それが、改めて問われているのであります。
 私達が信じ、過ぐる日、主の御下へと召された聖徒たちが信じた救い主とは、一体、どのような御方なのでしょうか。それは、私達一人一人が、死を越えて、永遠に生きるために、御自身の命を与えられた救い主であります。
 私達が食べる食べ物も命です。食べ物は、その命を犠牲して、私達の命を支えます。それと同じかもしれません。救い主御自身が、犠牲となり、自らの体と命とを与え、私達と一つになってくださり、それによって、私達が永遠に生きることを叶えてくださったのであります。私達の救い主であるイエス・キリストは、死んで終わる地上の恵みを与えるだけではなく、死を越えて、永遠に生きる命を与えるために、御自身の命を惜しみなく、私達に与えてくださる救い主なのであります。
 しかし、この救いは、ただ、主イエス・キリストが犠牲になったということだけではありません。主イエス・キリストは、次のように述べています。「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
 私達が、永遠に生きるために主イエス・キリストは、御自身の命を与えられた。そのキリストは、「天から降ってきたパン」だと言われています。つまり、この救いの出来事は、天の御心、即ち、神様の御心でもあるのです。神様御自身が、愛する独り子の命を与えてしまうほどに、私達と共に永遠に生きることを望んでおられるのであります。
 本来ならば、死んで滅びるだけの人間です。弱さや汚れに満ちたものであります。しかし、神様は、御子の命を与えるほどに、私達をかけがえのない、大切な、愛すべき存在として受け止めてくださり、神様御自身と共に、私達一人一人が生きることを望んでおられるのであります。
 そもそも、「永遠」とは何でしょうか。「永遠」とは、「時間が永続すること」ではありません。永遠とは、時間の外にあるもの、時間に縛られないもの。これが永遠です。被造物は、全て、時間に縛られています。なぜなら、造られたものには皆、寿命があるからです。だから、全ての被造物は時間に縛られているのであります。
 時間に縛られない存在とは何でしょうか。造られたものが有限であるならば、造った御方だけが、時間に縛られない存在なのであります。それが、私達の信じている神様なのであります。もし、神様が時間に縛られる存在であるならば、それは、人間が作り上げた神様であります。そして、もし、神様が時間に縛られる存在であるならば、神は死に打ち勝つこともできない無能な神様であり、同時に、私達は死を乗り越えられぬまま、滅びて終わるだけなのであります。
 永遠に生きるとは、時間が永続することではありません。時間の外におられる、全知全能なる神様と一つとなって生きるということなのであります。そのためには、私達は神様の目に相応しいものとならなければいけないでありましょう。しかし、私達は、自分の力で永遠を勝ち取ることはできません。
 だから、神様の御子イエス・キリストは、御自身の命を与え、私達の内に生きて働き、私達を主の目に相応しいものへと造り替え、そして、永遠の命、神様と一つになって生きる可能性を切り拓いてくださったのであります。
 私達は、私達の力で永遠を手にするのではありません。主イエス・キリスト、神の御子の命を頂いて、初めて、主の目に相応しい者とされ、そして、神様の御下へと導かれていくのです。過ぐる日、主の御下へと召された聖徒たちは、この深い恵みに抱かれつつ、今も、主の御下で、神様と一つとなって生き、主の御名を賛美するものとされているのであります。
 しかし、今を生きる私達には、それがまだ、分かりません。では、その恵みをどこで知るのでしょうか。主イエス・キリストは、この御言葉をカファルナウムの会堂で語られました。礼拝の中で語られたのであります。主イエス・キリストは、今も、この礼拝の中で、生きて同じ事を語っておられるのではないでしょうか。そして、今も、これからも、主イエス・キリストは、御自身の命を差し出しながら、私達を永遠の命へと招かれているのではないでしょうか。私の命を受けなさい。あなたのために、命を捧げる。この命に委ねなさい。そのように、主の声が、今も聞こえるのであります。
 私達は、キリストの命を頂いたものです。そして、過ぐる日、主の御下へと召された方々も、同じように、主の命を頂いたものたちであります。同じ一人の救い主の一つの命を分かち合う家族であります。その家族の絆は、この地上で終わるものではありません。私達に永遠の命が約束されているように、私達もまた、同じ約束のもとで、一つの希望を分かち合う家族であり続けるのであります。その幸いを深く思いに馳せながら、私達は、私達に与えられた人生の旅路を、永遠に希望を抱きつつ、その希望を信仰の先達と共に味わいながら歩んでいく者でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:48| 日記