2018年11月19日

2018年11月18日 主日礼拝説教「迫害者のために」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章14節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章14節の御言葉であります。改めてお読みします。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってはなりません。」
 「迫害する者」とは誰でしょうか。それは、「あなたを追いかけて苦しめる人」のことであります。クリスチャンになったからと言って、「誰からも愛される人になる」とは限りません。信仰の故に、苦しみが迫ってくることもあります。信仰を理由に、心を傷つけられることもあります。その迫害者は、あなたの信仰生活を追い続けてくるかもしれません。それが、キリスト者の現実でもあることを、私達は、覚えて起きたいものであります。何よりも、主イエス・キリスト御自身が、多くの人々から迫害を受けたように、キリストと一つにされた私達もまた、そのような痛みの中を、歩むものなのだということ。そのことを、心のどこかに留めておきたいものであります。
 では、この「迫害する者」に対して、どのように対応をしたら良いのでしょうか。それが、今朝の御言葉の大切なことであります。改めてお読みします。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってはなりません。」
 つまり、この私を苦しめ、この私を呪う人のために、祝福を祈りなさい。このように、今朝の御言葉は、教えているのであります。本来ならば、呪ってやりたいものです。
 しかし、そのような相手のために「祝福を祈るように」と教えているのであります。自然な思いからすれば、それは、到底、ありえないこと。そのように思うものであります。
 この手紙の著者であるパウロは、どのような思いで、この言葉を記したのでしょうか。元々、パウロ自身が、「迫害者」でありました。彼は、熱心なユダヤ教徒であり、主イエス・キリストを憎み、キリスト教徒を迫害し、諸教会を破壊する側の人間でありました。
 そのようなパウロが、復活のキリストと出会い、その赦しに触れ、強くとらえられ、そして、伝道者へと造り替えられていくことになるのです。彼自身が、主イエス・キリストの祝福の豊かさを深く味わった者の一人なのであります。
 本来ならば、キリストに呪われていても仕方のないような人物が、祝福を受ける者とされたのであります。そのような存在を、キリストは、愛され、祝福されたのであります。そのような祝福の豊かさ、恵み深さの中で、パウロ自身も又、この言葉を自分の教えとして書いたのではなく、この言葉を自分自身が、主の言葉として聞くものとされたのではないかと思うのであります。
 このパウロの出来事は、決して、私達と無関係ではないと思います。私達も又、本来ならば、神様の目には、罪深いものであります。神様に呪われ、裁かれるべき存在であります。そこに、私達一人一人の現実があります。
 しかし、神様は、私達を呪うことはありません。神様は、私達を裁くためではなく、救うために御子を与えられたのであります。
 私達の呪いを御自身の御子イエス・キリストに背負わせ、身代わりとして、呪いの十字架を与えられたのであります。御子イエス・キリストに呪いを負わせてしまうほどに、私達を祝福される。そこに、神様の祝福の豊かさがあるのだろうと思います。
 この恵みを深く味わう時、今、目の前の迫害者が、呪われて当然だとは、誰も思えないだろうと思うのであります。私達自身が、あり得ない仕方で救いを頂いたのです。それと同じように、今、目の前の人が、私と同じように救いから漏れるはずはないのであります。
 神様の救いの力は、そんなに無力ではないのです。なぜなら、この私が救われたからです。そして、そこに、神様のただ一つの救いの御意志があるのです。
 そうであるならば、その人を呪うことに、これ以上何の意味があるのか。そのように問われるのです。そして、十字架のキリストを見上げ、復活の主との出会いを思う時、そのような新しい思いへと、私達は変えられていくのであります。
 「祝福すること」も、「呪うこと」も、それは、私達に委ねられている働きではありません。私が、その人に復讐をしたり、苦しめたり、逆に、祝福したりするのではありません。その全ては、神様の御業です。つまり、祝福を祈るということは、神様が、その人を祝福することを祈るのであります。
 要するに、迫害者を主に委ねること。これが、私達のすべきことなのかもしれません。何か具体的に、悪い人をゆるさなければいけないとか、ゆるせない人を祝福しなければいけないとか。そのようなことなのではなくて、その人を主に委ねる。その人の救いを主に委ねていく。その姿勢が大切なのかもしれません。
 そして、私達は知っています。その神様が、呪う神ではなく、祝福の神であるということを知っています。この小さな私を、呪われて当然の私を、主は呪わなかった。祝福してくださった。この神様に、迫害者の存在を委ねていく。そこに、キリスト者としての新しい姿があるのだと言えるのであります。
 自分を苦しめる人を受け入れること。これは、大変に難しいことかもしれません。出来ないことが書かれているように思うかもしれません。
 しかし、ここで大切なことは、この私を苦しめる人を、自分の手に委ねることではありません。自分の思いに委ねることでもありません。呪いを祝福に変えるほどに、大きく、深く、憐れまれる、主に委ねていく。それが、ここで、私達に強く問われ、求められていく生き方なのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:22| 日記

2018年11月12日

2018年11月18日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「重い皮膚病を患っている十人のいやし」
聖書:ルカによる福音書17章11節〜19節
※礼拝後、手話の学びの時があります。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「迫害者のために」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙12章14節

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:40| 日記

2018年11月11日 主日礼拝説教要旨「賜物をもちいる」須賀 工 牧師

聖書:ルカによる福音書16章1節〜13節

 主イエス・キリストの譬え話の中でも、一番、分かり難く、誤解の生じやすいお話の一つではないかと思います。
 主人と管理人がいました。管理人は、主人のお金を無駄遣いしてしまいます。主人に雇われた恩恵を忘れて、主人よりもお金を大事にしてしまいます。しかし、管理人の悪事に気づいた主人は、管理人に帳簿を出すようにと要求します。自分の居場所を失うことを恐れた管理人は、主人に借りのある人々の借金を主人の名で軽減します。
 つまり、主人から預かったお金を、再度、自分を守るために、悪用してしまうのです。言い方を変えるならば、自分を守ることに必死になるがあまり、悪事に悪事を重ねてしまうということが起きてしまうのです。
 しかし、主人は、この管理人を責めるのではなく、むしろ、その賢さを誉められるのです。
 このお話は、とてもわかりにくいお話です。まるで、主イエス・キリストが、私達に悪事を奨めているかのようにも聞こえます。
 しかし、ここで大事なことは、この世の子らですら、自分のものを守るために一生懸命ではないかということです。この世の子らは、自分の立場や富を守るために、知恵を働かせ、何とか、自分のものを守ろうとします。そうであるならば、光の子らである私達も、私達のもの、即ち、神様の救いや恵み、信仰の賜物を守るために一生懸命になれるのではないかということなのです。この世の子らが、自分の思いに一心であるように、私達も、与えられた救いや信仰に一心になることが大切なのです。
 私達は、神様から命を頂き、恵みを頂き、救いや信仰を頂いています。その一つ一つの恵みの賜物を無駄にしてしまうということもあるかもしれません。しかし、神様は、決して、私達を、見捨ててしまうのではなく、新たに生き直すための機会を備えてくださいます。今まで、自分だけを見ていた管理人が、主人の評判を上げ、他人のために生きたように、全く新しい生き方へと生き直す機会が備えられているのです。 
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:54| 日記