2018年12月13日

2018年12月9日 主日礼拝説教「善をもって悪に勝つ」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章12章19節〜21節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章19節から21節の御言葉であります。19節の御言葉をお読みします。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。」
 「復讐」とは、何でしょうか。それは、やりかえすことです。そして、それは、「怒り」です。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と記されています。つまり、復讐の原理が、「自分の怒り」であることが、ここから分かります。
 それでは、なぜ、人は、「怒り」、そして、「復讐する」のでしょうか。それは、自分が「正しい」立場に立っているからです。だから、自分の「正しい立場」を否定されたり、何も問題のない正しいはずの自分を傷つけられたりするから、怒るのであります。そして、「復讐したい」と思うのであります。
 しかし、私は、このような人間の感情は、決して否定されてはいけないだろうと思います。何も問題はないのに、愛する人を、突然、奪われてしまう。何もしていないのに、突然、大切なもの奪われてしまう。だから、復讐をしたい。赦せない。そのように思うのは、ある意味では自然のことであるかもしれません。そして、そのような自然の感情は、大事な気持ちとして、認められるべきだと思うのであります。
 そう考えるならば、今朝の御言葉は、やはり、人間の範疇を超えた、難しい教えの一つなのかもしれません。そして、この生き方は、正に、人間の力ではなく、与えられた信仰と聖霊の豊かな支えなくして、正に、神様の深い導きなくしては、決して、成就できない生き方なのだろうと思うのです。信仰生活は、決して、自立した生活ではありません。神様に信頼し、神様に支えられ、神様の家族が励まし合いながら、初めて、成り立つ生活なのであります。そのことを、改めて、ここで示されているのではないかと思うのです。
 そのことを大前提とした上で、今朝の御言葉にお聞き頂ければと思います。今朝の御言葉は、「神の怒りに任せなさい」「復讐は神のすること、神が報復する」のだ、と示しているのであります。即ち、神様だけが、怒ることができ、復讐することができ、罰することや裁くことができるのだということなのであります。少し、言い方を変えるならば、神様だけが、唯一人「正しい御方」なのだということなのであります。
 ここで記されている「任せなさい」という言葉は、「場所を空けなさい」という意味です。自分の正しさで一杯になると、神様の正しさを忘れてしまう、神様の入るスペースを失ってしまう。そのような人間の現実を表しているのかもしれません。そのような人間に対して、怒る時には、その心の内にまず、神様の正しさが入るようにしてほしい。そのように、ここで示されているのだろうと思うのです。
 つまり、この箇所で大切なことは、この私の怒りを、神様が代行し、代わりに復讐してくれるのだということではなくて、この私が正しいのではなく、神様の正しさに委ねなさい。神様の正しさに立ち帰りなさい。そのように、まず、私達の悔い改めを示しているということなのではないかと思うのであります。
 続いて、20節から21節をお読みします。「『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
 神様が、唯一、正しい御方です。そして、神様だけが、唯一、人を裁き、人を罰し、人に復讐が出来る御方であります。しかし、その神様は、この人間に対して、どのように働かれたのでしょうか。
 神様は、御子イエス・キリストに、その裁きや罰や復讐を背負わせ、身代わりとなって十字架に架けられ、そして、私達を赦された。唯一人、人間を裁ける御方が、裁くどころか、御子を惜しみなく死に渡されるほどに、私達を赦すことを御心に留めていてくださる。
 その神様の愛の中で、私達もまた、愛に生きるものへと召し出されているのであります。20節以下の御言葉は、読み方を間違えると、悪に対して愛で対応することで、逆に相手を困らせることが目的になるように読めるかもしれません。つまり、悪を倒すために、愛を手段として利用するという発想が生まれてしまいます。
 しかし、例えば、「炭火を頭に積む」という言葉は、相手を苦しめることを目的としているのではなく、元々は、悔い改めへと導くことを意味しています。つまり、愛をもって、悪に対応するのは、悪を困らせることを目的とするのではなく、敵が赦しを知り、愛を知り、神様に立ち帰って行くことを意味しているということなのであります。私達が、悪に対して愛をもって対抗するのは、全ての人が、神様の赦しの豊かさを知り、神様によって変えられていくことを目的とする。だからこそ、大切なことは、神様が、その人を裁くことを望むのではなく、あるいは、自分がその人の苦しみを望むことではなく、赦しを通して、貫かれる、神様の正しさに全てを委ね、目の前の存在と向き合って生きることなのだろうと思うのであります、
 神様は、御子イエス・キリストを惜しみなく、死に渡された。私達を赦すためであります。その赦しは、私達の敵に対して与えられた赦しの恵みでもあります。唯一人、正しい御方が、そのような御心を持たれた。そうであるならば、裁くことではなく、赦すことが、神の正しさであるといえるでありましょう。その神様の赦しの豊かさを知り、その恵みの中を生き、神様の御心に全てをゆだねて、他者と向き合っていく。そのような生活へと、私達は、歩みを進めていくものでありたいと思うのです。
 御子イエス・キリストの御降誕を記念するクリスマスが迫ってきています。本来、裁かれ、罰せられるべき人間を救うために、救い主がお生まれになった。そのことを改めて、心に留めつつ、その赦しの御心を貫かれる、神様を覚えつつ、私達もまた、共に生きる、共に赦し合う生活へと歩み続けたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:24| 日記

2018年12月04日

2018年12月9日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「マリア、エリサベトを訪ねる」
聖書:ルカによる福音書1章39節〜45節
※礼拝後、絵本の読み聞かせがあります。
※保護者の方々も、是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「善をもって悪に勝つ」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙12章19節〜21節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学び、野の花会、ダニエル会があります。どの会でもどうぞ、お気軽にお越しください。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:21| 日記

2018年12月2日 主日礼拝説教「悪に悪を返さない」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章17節〜18節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章17節から18節の御言葉であります。改めて御言葉に聴いてみたいと思います。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」
 クリスチャンであるからといって、全ての人に愛されるとは限りません。いや、クリスチャンだからこそ、人々との間に価値観のずれが生じ、衝突を経験することもあるかもしれません。あるいは、与えられた信仰が否定されることもあれば、この世の争いに巻き込まれてしまうこともあります。
 信仰者は、決して、神様とだけ関わるわけではありません。神様と人とに関わる存在です。しかし、神様に対しても、人に対しても、その関係が、いつでも良好であるとは限らないものです。衝突することもあれば、破滅することもあります。この世に憎まれ、苦しめられることもあります。神様のものでありながら、この世のものに苦しめられることは、信仰者では、いつでも起こり得るものでありましょう。
 しかし、このような、私達の現実を深く踏まえた上で、今朝の御言葉は、驚くべきことを教えているのであります。「悪に悪を返すな」「善を行うように心がけよ」「全ての人と平和に暮らしなさい」。
 つまり、私達信仰者に望まれた生き方とは、私達の正義で、悪をなぎ倒し、勝利を勝ち取ることではないということです。悪に立ち向かい、悪を倒すことが、私達の生き方なのではなく、自分自身の側から、自分の思いや心の武器を捨てて、相手と向き合っていくことなのだということになるのです。これは、大げさに言うならば、「自分を捨てろ」と言われているようなものなのかもしれません。
 誰でも、自分自身の内側に、自分の意志や思いというものを強く持っているものです。それを曲げたくないと思うこともあれば、それを捨てたくないと思うこともある。いや、むしろ、その自分の思いをもって、相手に勝利し、自分の正しさを証明したいとまで思うこともあるかもしれない。言うならば、自分の中に、自分が作り上げた、自分そっくりの絶対者や王様が生きていて、他者に勝利することを望んでいるのかもしれません。但し、これもまた、私達が、自らを省みていくならば、私達の現実なのだと言えます。いや、人間の自然な姿なのだと言えるのかもしれません。
 つまり、今朝の御言葉に従って生きるとするならば、それは、自分自身が内側から砕かれていくということが、とても必要なことになるのだろうと思います。言い方を変えるならば、日々、新たにされて生きるということ。そこからまず始められていくのだろうと思うのです。
 さて、このような難しい御言葉に対して、私達の救い主であるイエス様は、どのようにして生きたのでしょうか。まずは、主イエス・キリスト御自身の姿に、思いを向け直したいと思います。新約聖書のペトロの手紙一2章21節から25節の御言葉をお読みします。新約聖書431頁です。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」
 主イエス・キリストは、私達の罪を担って、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、十字架にかかって死んで行かれたのであります。そのお受けになった傷によって、私達は癒され、罪が赦され、神様の子どもとなったのであります。
 そして、大切なことは、私達が、神様の子どもとなったのは、私達の罪が赦されるためであると共に、私達も又、キリストの足跡に続いて歩んでいく為なのだと言われているのであります。私達が、悪に悪を返さない生き方をするために、まず、大事なことは、先だって、そのように生きてくださった、主イエス・キリストの十字架を見上げるところから始めなければいけない。いや、そのような、救い主へと立ち帰って行くところにこそ、悪に悪を返すことなく、善に生きる私達の姿が作り上げられていくのだと言えるのであります。
 私達がすべきことは、何か特別なことではありません。私達がすべきことは、キリストの十字架を見上げ、キリストが、私達のために何をしてくださっのか、という原点に立ち続けて行くこと。そのところから、悪循環を断ちきる、新しい道へと歩みだせるのだろうと思うのです。
 しかし、私達がそのように生きたからといって、悪が、悪であることを辞めるはずはありません。むしろ、それを利用し、より強く、私達を苦しめてくることもあるだろうと思います。しかし、今朝の御言葉では、次のように語られています。「せめてあながたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と。つまり、私達の側だけは、平和を思いながら生きよと言われるのです。相手に、平和であることを求めるのではなく、わたしたちの側から、平和を実現していく。
 しかし、それは、私達が思う平和ではなく、主イエス・キリストの十字架によって、神様が、キリストを通して実現してくださった平和なのだということ。そのことを、改めて心に留めつつ、私達は、信仰生活をすすめていくものでありたいのであります。
 今朝、私達は、待降節第一主日礼拝を捧げています。主イエス・キリストの誕生を記念するクリスマス。そのクリスマスまでの四週間に入ります。主イエス・キリストが、私達の救いのためにお生まれになった。その救い主は、ののしられても、ののしり返さず、悪に悪を返すことのない救い主として、この世にお生まれになられた。そして、実は、そのように生きることで、救いの勝利を収められた。そうなんです。私達は、悪に悪で返さないことによって、この世では敗北者です。
 しかし、神様の目には、眞の勝利者なのです。そして、最後の最後には、神様の子どもとして、神の国で、主の栄光に包まれて生きることがゆるされているのであります。本当の勝利は、最後の最後に主によって決められるのです。そのことを、改めて、心に留めつつ、この時を過ごしていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:18| 日記