2018年12月13日

2018年12月16日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「洗礼者ヨハネの誕生」
聖書:ルカによる福音書1章57節〜66節
※23日、30日の日曜日の礼拝はありません。
※22日(土)10時よりクリスマスの礼拝を行います。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「真の支配者なる神」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙13章1節〜7節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びの会があります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:39| 日記

2018年12月9日 主日礼拝説教「善をもって悪に勝つ」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章12章19節〜21節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章19節から21節の御言葉であります。19節の御言葉をお読みします。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。」
 「復讐」とは、何でしょうか。それは、やりかえすことです。そして、それは、「怒り」です。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と記されています。つまり、復讐の原理が、「自分の怒り」であることが、ここから分かります。
 それでは、なぜ、人は、「怒り」、そして、「復讐する」のでしょうか。それは、自分が「正しい」立場に立っているからです。だから、自分の「正しい立場」を否定されたり、何も問題のない正しいはずの自分を傷つけられたりするから、怒るのであります。そして、「復讐したい」と思うのであります。
 しかし、私は、このような人間の感情は、決して否定されてはいけないだろうと思います。何も問題はないのに、愛する人を、突然、奪われてしまう。何もしていないのに、突然、大切なもの奪われてしまう。だから、復讐をしたい。赦せない。そのように思うのは、ある意味では自然のことであるかもしれません。そして、そのような自然の感情は、大事な気持ちとして、認められるべきだと思うのであります。
 そう考えるならば、今朝の御言葉は、やはり、人間の範疇を超えた、難しい教えの一つなのかもしれません。そして、この生き方は、正に、人間の力ではなく、与えられた信仰と聖霊の豊かな支えなくして、正に、神様の深い導きなくしては、決して、成就できない生き方なのだろうと思うのです。信仰生活は、決して、自立した生活ではありません。神様に信頼し、神様に支えられ、神様の家族が励まし合いながら、初めて、成り立つ生活なのであります。そのことを、改めて、ここで示されているのではないかと思うのです。
 そのことを大前提とした上で、今朝の御言葉にお聞き頂ければと思います。今朝の御言葉は、「神の怒りに任せなさい」「復讐は神のすること、神が報復する」のだ、と示しているのであります。即ち、神様だけが、怒ることができ、復讐することができ、罰することや裁くことができるのだということなのであります。少し、言い方を変えるならば、神様だけが、唯一人「正しい御方」なのだということなのであります。
 ここで記されている「任せなさい」という言葉は、「場所を空けなさい」という意味です。自分の正しさで一杯になると、神様の正しさを忘れてしまう、神様の入るスペースを失ってしまう。そのような人間の現実を表しているのかもしれません。そのような人間に対して、怒る時には、その心の内にまず、神様の正しさが入るようにしてほしい。そのように、ここで示されているのだろうと思うのです。
 つまり、この箇所で大切なことは、この私の怒りを、神様が代行し、代わりに復讐してくれるのだということではなくて、この私が正しいのではなく、神様の正しさに委ねなさい。神様の正しさに立ち帰りなさい。そのように、まず、私達の悔い改めを示しているということなのではないかと思うのであります。
 続いて、20節から21節をお読みします。「『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
 神様が、唯一、正しい御方です。そして、神様だけが、唯一、人を裁き、人を罰し、人に復讐が出来る御方であります。しかし、その神様は、この人間に対して、どのように働かれたのでしょうか。
 神様は、御子イエス・キリストに、その裁きや罰や復讐を背負わせ、身代わりとなって十字架に架けられ、そして、私達を赦された。唯一人、人間を裁ける御方が、裁くどころか、御子を惜しみなく死に渡されるほどに、私達を赦すことを御心に留めていてくださる。
 その神様の愛の中で、私達もまた、愛に生きるものへと召し出されているのであります。20節以下の御言葉は、読み方を間違えると、悪に対して愛で対応することで、逆に相手を困らせることが目的になるように読めるかもしれません。つまり、悪を倒すために、愛を手段として利用するという発想が生まれてしまいます。
 しかし、例えば、「炭火を頭に積む」という言葉は、相手を苦しめることを目的としているのではなく、元々は、悔い改めへと導くことを意味しています。つまり、愛をもって、悪に対応するのは、悪を困らせることを目的とするのではなく、敵が赦しを知り、愛を知り、神様に立ち帰って行くことを意味しているということなのであります。私達が、悪に対して愛をもって対抗するのは、全ての人が、神様の赦しの豊かさを知り、神様によって変えられていくことを目的とする。だからこそ、大切なことは、神様が、その人を裁くことを望むのではなく、あるいは、自分がその人の苦しみを望むことではなく、赦しを通して、貫かれる、神様の正しさに全てを委ね、目の前の存在と向き合って生きることなのだろうと思うのであります、
 神様は、御子イエス・キリストを惜しみなく、死に渡された。私達を赦すためであります。その赦しは、私達の敵に対して与えられた赦しの恵みでもあります。唯一人、正しい御方が、そのような御心を持たれた。そうであるならば、裁くことではなく、赦すことが、神の正しさであるといえるでありましょう。その神様の赦しの豊かさを知り、その恵みの中を生き、神様の御心に全てをゆだねて、他者と向き合っていく。そのような生活へと、私達は、歩みを進めていくものでありたいと思うのです。
 御子イエス・キリストの御降誕を記念するクリスマスが迫ってきています。本来、裁かれ、罰せられるべき人間を救うために、救い主がお生まれになった。そのことを改めて、心に留めつつ、その赦しの御心を貫かれる、神様を覚えつつ、私達もまた、共に生きる、共に赦し合う生活へと歩み続けたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:24| 日記