2019年02月03日

2019年2月10日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「宮清め」
聖書:ルカによる福音書19章45節〜48節
※礼拝後、絵本の読み聞かせがあります。
※保護者の方々も、どうぞ、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「今日は主の日、安息日」須賀 舞姉
聖書:ルカによる福音書6章1節〜5節
※礼拝後、五分の集いとダニエル会(壮年会)があります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:41| 日記

2019年2月3日 主日礼拝説教「みんなのための福音」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙15章7節〜13節

 私達にとって、「希望」とは何でしょうか。私達の願いが叶うことでしょうか。自分の欲しい物が手に入ることでしょうか。確かに、それもまた、大切な「希望」であります。 しかし、そのような「希望」は、大概、手に入ることもあれば、失うこともある希望です。つまり、「不安定な希望」です。そして、何よりもそれは、「死」をもって終わる希望であります。つまり、「限界のある希望」です。それが、本当の「希望」と呼べるものなのでしょうか。
 私達にとって「希望」とは何でしょうか。7節の御言葉をお読みします。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。
 私達にとって「希望」とは何でしょうか。それは、「キリストがわたしを受け入れてくださる」ということです。言い方を変えて申し上げるならば、「キリストのものとされること」「神様のものとされること」。これが、私達の「希望」であります。つまり、「希望」とは、主イエス・キリストと結ばれて生きるということであります。
 そして何よりも幸いなことは、私達とキリストの関係が、決して切り離せるものではないということであります。私達が、キリストを忘れても、キリストは、私達のことを忘れない。私達が、神を憎んだとしても、神が私達を愛することは変わらない。私達が、死を迎えても、永遠なる神の御手からは、誰も奪い去られることはない。ここにこそ、信仰者の「希望」があり、「喜び」や「平安」があるのであります。
 ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても、私達にとっても、ここに一つの希望があり、喜びと平安があります。つまり、この一つの喜びの下で、私達は、お互いを受け入れあい、認め合い、共に生きることができるのではないでしょうか。
 8節の御言葉をお読みします。「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、」
 「ユダヤ人」とは、どのような存在でしょうか。彼らは、何よりもまず、神様によって選ばれた民です。そして、救いの約束を受けた人々です。
 しかし、神の御子イエス・キリストを十字架にかけました。神の独り子を受け入れなかったのであります。本来ならば、神の救いを取り去られるべき人々であります。
 しかし、そのユダヤ人のためにも、主イエス・キリストは、命をかけて仕える者となったのであります。御自身の命を捧げて、十字架に架かり、その犠牲によって、ユダヤ人もまた、神様のものとしてくださったのであります。本来ならば、救いを取り去られて良い存在のために、御子イエス・キリストは、十字架で命を捨てられたのであります。そして、その十字架の犠牲によって、ユダヤ人もまた、神様のものとしてくださったのであります。
 9節〜12節の御言葉をお読みします。「異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。『そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう』と書いてあるとおりです。また、『異邦人よ、主の民と共に喜べ』と言われ、更に、『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ』と言われています。また、イザヤはこう言っています。『エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。』」
 「異邦人」とは、どういう人たちでしょうか。異邦人とは、「神を知らぬ人々」であります。キリストを知らない人々であります。神様の救いから遠い存在であります。
 しかし、その異邦人もまた、「主の憐れみを知る」ものとされている。本来、救われる価値のない異邦人が、キリストの憐れみを通して、キリストのものへと受け入れられている。ユダヤ人のために十字架に架かられたお方は、異邦人のためにも十字架に架かり、一人一人を神の民、神のものとして、永遠に受け入れてくださるのであります。
 パウロは、ここで旧約聖書の御言葉を引用しています。最初の引用は、詩編117篇です。次の引用は、申命記32章です。次の引用も詩編117篇から引用されています。そして、最後にイザヤ書の御言葉であります。「申命記、イザヤ書、詩編」の言葉を、パウロは、引用しています。旧約聖書を三つに分けると、「律法」「預言者」「諸書」です。「申命記」は「律法」です。「イザヤ書」は「預言者」。「詩編」は「諸書」です。
 つまり、旧約聖書全体に於いて、異邦人の救いもまた、保障されているのであります。そして、その救いは、正に、主イエス・キリストの十字架の死の憐れみの中でこそ、実現しているのであります。ユダヤ人のための救いは、同時に異邦人のための救いの成就でもあるのです。キリストの十字架は、その両者に対して、救いを宣言していることになるのであります。
 異邦人とユダヤ人の関係は、決して良いものではありませんでした。お互いに軽蔑し合い、お互いに裁きあっていました。しかし、主イエス・キリストは、どのような立場であろうとも、あなたのために、命を捨てられたのであります。どのような立場であろうとも、あなたのために、命を捨て、キリストのものとしてくださったのであります。
 このただ一つの福音、ただ一つの救い、ただ一つの喜びのもとで、ユダヤ人と異邦人が一つになって共に主を賛美することができるのであります。このキリストの贖いを起点として、両者の敵意の壁も又、崩れ去っていけるのであります。
 教会にも沢山の人がいます。人はみな違う存在です。しかし、その私達の中心にも又、主イエス・キリストの十字架が立てられているのではないでしょうか。この私のために命を捨てられた方は、そこのあなたのためにも命を捨てられたのであります。私達は、価値観の違いを越えて、ただ一つの希望、喜び、救いの下で、真の平和を、共に築きあげていけるのであります。
 希望とは何でありましょうか。それは、キリストのものとされることです。そのために、御子イエス・キリストは、ユダヤ人のために命をかけられた。異邦人のために憐れみをお示しになられた。そこに希望がある。そこに、私達が共に立てる希望がある。その幸いが、ここから強く指し示されているのです。
 13節の御言葉をお読みします。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであながたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」
 希望は、どのような仕方で、手に入るのでしょうか。私達が、希望を手に入れるために頑張るのでしょうか。それは違います。「信仰によって」「聖霊の力によって」、希望も喜びも平和も、「主から与えられるもの」なのであります。
 私達が見つけるのではなく、この私達の真ん中に、今も、キリストが立っていてくださり、神様が、今も共に生きていてくださり、主イエス・キリストの贖いの恵みを、私達のうちに指し示し、そして、そのことを通して、私達にただ一つの喜びと希望を与え、平和を実現してくださるのであります。
 実は、今朝の御言葉は、ローマの信徒への手紙の「集大成」とも言われています。今朝の御言葉は、手紙本文の最後なのです。最後のメッセージなのであります。
 パウロを通して、神は、最後に何を語りたかったのでしょうか。それは、キリストの十字架の死と復活は、私達のただ一つの喜びであり、希望なのだということ。そして、その救いの力は、人種や人間性を越えて、全ての人を共に救う力なのだということであります。パウロを通して、最後の最後に、私達は、その福音の力を共に味わうことができたのではないかと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:37| 日記