2019年02月26日

2019年3月3日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「最後の晩餐」
聖書:ルカによる福音書22章14節〜23節
※礼拝後、誕生者の祝福と誕生日会があります。
※保護者の方がも、是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「キリストの祝福をあふれるほど持っていく」須賀 工牧師
聖書:ローマの信徒への手紙15章22節〜33節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:35| 日記

2019年2月24日 主日礼拝説教「福音の宣教」須賀 工 牧師

ローマの信徒への手紙15章17節〜21節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙15章17節から21節の御言葉であります。17節から19節の御言葉をお読みします。「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」
 パウロの務めは、異邦人に、神様の救いを宣べ伝えることです。パウロの務めは、神様の救いから遠く離れた人たちに、神様の救いを宣べ伝えることです。
 しかし、パウロは、この務めが、自分による働きではないことをよくわきまえています。「キリストがわたしを通して働いてくださる。」「キリストがわたしの言葉と行いを通して働いてくださる。」「キリストがしるしや奇跡や聖霊によって働いてくださる。」
 キリストが、私を通して、救いのために働いてくださる。パウロは、何も出来ないのです。パウロは、何もしていないのです。だから、パウロは、自分の行いや業績や知識を誇ることはできないのであります。
 しかし、キリストの働きの中で、こんなに無力な自分が用いられている。そのことを誇りに思うことができるのであります。
 自分には何も出来ない。自分には何もない。そのように嘆く必要は無いのです。何も出来ない無力なものを、主が用いてくださり、あなたを通して、主が働いてくださる。そのことを誇りに思って良い。自信をもって良い。そのように示されているのかもしれません。
 「私が主のために何かをしなければいけない。」これも大切な心かもしれませんが、何もできかなかったら落ち込むだけです。だから、本当は、違います。「私が主のために何かをする」のではなくて、「主が、私達を用いて、何かをしてくださる。」そこに誇りと自信と喜びを見出して生きて良いのであります。
 「エルサレムからイリリコン州まで福音を宣べ伝えた」のだと、パウロは、記しています。しかし、福音を宣べ伝えたのは、本当にパウロなのでしょうか。パウロは、エルサレムで、一切、伝道活動はしていません。エルサレムから始まった伝道は、聖霊降臨−聖霊の働き−からであります。
 イリリコン州は、パウロが伝道した最も遠い土地です。しかし、聖書によれば、その伝道も、パウロの計画によるものではなく、聖霊の導きであると言われています。パウロが語っているのではない。聖霊が語っているのです。神様が語っているのです。キリスト御自身が福音を宣べ伝えているのです。
 自分は何もしていない。誇れるものは何もない。けれど、このような無力な自分を通して、主が語ってくださる。そこに、私の誇りがあるのだと言うのであります。
 パウロは、もう自分を誇っているのではないのかもしれません。神様ってすごいよね。キリストってすごいよね。こんな自分を用いてくださるのだから。神様の憐れみとお働きに、パウロは、誇りを見出しているのかもしれません。
 20節から21節の御言葉をお読みします。「このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。『彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう』と書いてあるとおりです。」
 パウロは、キリストを知らない人々に、福音を告げ知らせる。そのことを大切にしてきました。その人たちが、キリストを知り、キリストの救いを知り、神様のものとされるために、伝道をすることに努めてきたのであります。
 しかし、キリストが、異邦人を神のものとするために働いてくださった。救いを知らず、キリストを知らず、希望を知らず、罪の只中にいる人間が、キリストを通して、神様のものとされ、神に従うものとなるために、キリスト御自身が働き続けてくださった。その働きの中に、自分は生かされ、その働きの中で、自分は用いられている。それが、ここで言われていることの本意であります。
 何よりも、救いから遠く離れた人たちが、人間の力によってではなく、神様の力によって救われ、神様に従うものへと変えられていく。そのことは、パウロ自身が、よく確信していたことでもあるのです。
 パウロは、自分を誇る人間でした。ユダヤ教のエリート組です。将来有望の人間でありました。その誇りをもって、他人を裁き、キリスト者を迫害しました。自分の才能、自分の信仰、自分の生き方や自分の知識を誇り、その誇りをもって、他人を裁く。神を誇るのではなく、自分の働きを誇る人間であります。それが、かつてのパウロの姿でありました。
 しかし、パウロは、復活のキリストとの出会いを通して、自分の無力さを知った。自分の罪を知った。自分の誇りが空しいものであること知った。
 しかし、同時に、こんな自分が赦され、愛され、受け入れられていることを知るものとされた。救いから、最も隔てられた自分が、神様のものとされ、神様に従うものへと変えられていくことを知ったのであります。
 だから、パウロは、自分の言葉や思いではなく、神様が、主イエス・キリストが、そこで生きて働き、御言葉を語り、出会ってくださることを知っている。そして、自分の力ではなく、キリストが、その一人一人を神様のものへと変えてくださることを知っている。救いから遠く離れた土地の人々もまた、自分ではなく、自分を通して、キリストが出会ってくださり、語ってくださり、変えてくださることを知っている。だから、誇りをもって、自信をもって、福音を宣べ伝えるものとして生きたのであります。
 パウロの誇りや自信は、自分の内側から出てくるものではありません。キリストが、かつて、自分に対して働かれたように、今、異邦人に向けて、全ての世界の人に向けて生きて働かれる。そのところに、彼の誇りと自信があり、パウロの伝道の全てがあるのだと、この箇所から強く示されていくのであります。
 私たちにとっても、最終的に意味を持つのは、私たちが何かを成し得るか否かではありません。私たちが何かを完成できたか否かでもありません。そうではなく、私たちを通してキリストが働かれることこそが重要なのです。そのようにして、私たちは神によって用いられ、神の喜びとすることが実現していくのです。それが教会が今日まで続けてきた伝道です。その神の喜びを共に喜びつつ私たちは自分自身を神に献げられた者として仕えていくのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:31| 日記