2019年03月05日

2019年3月10日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ペトロの離反の予告」
聖書:ルカによる福音書22章31節〜34節
※礼拝後、絵本の読み聞かせがあります。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「キリスト・イエスに結ばれて」須賀 工 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙16章1節〜16節
※五分の集い、信仰の学び、ダニエル会、野の花会があります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:52| 日記

2019年3月3日 主日礼拝説教「キリストの祝福をあふれるほど持っていく」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙15章22節〜33節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙15章22節から33節の御言葉であります。22節の御言葉をお読みします。「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。」
 パウロは、ローマに行くことを計画していました。しかし、ローマに行くことが出来ませんでした。なぜなら、「妨げられた」からです。計画通りにはいかなかったのです。いや、計画通りにいかないだけではありません。
 しかし、パウロは、絶望したのでしょうか。もし、絶望をしたのであれば、早々と諦めていたかもしれません。しかし、彼は諦めていなかった。絶望していなかった。
 なぜでしょうか。それは、この自分を妨げているのが、人ではなく、「神様」であることを、彼は知っていたからであります。
 つまり、計画の破綻も中断も、苦しみも痛みも、全ては、神様の御心であると信じていたから。神様の御心であると信じた上で、全力をつくしてきたから。だから、絶望をしないのであります。
 自分の思い通りにならないこと。私達にもあるかもしれません。自分の思い、計画、願いとは違うことがあります。
 しかし、まず、主に委ね、主の御心を優先し、主を信じて道を歩み、努力をする時、私達は、その結果がどのようなものであったとしても、絶望することはないのです。
 神様を信じるとは、そういうことであると思います。自分の願いのために、神様がいるのではない。自分の願いとは違くても、神様の御心を信じ、従って行くところに平安と喜びと確信がある。そう思いながら歩み続ける。そこに信じる者の生活があるのだということを、ここから強く教えられるのであります。
 23節から24節をお読みします。「しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。」 パウロの計画は、ローマでは終わらないようです。イスパニア−スペイン−に行くこと。その途中で、ローマに寄るのだと、ここで記されています。
 スペインは、当時、「世界の果て」とも呼ばれていました。正に福音の届かないところ。救いの届かないところ。それが、スペインであると考えられていたのです。パウロは、そこに福音を届けたい。そのように計画をしているのであります。
 つまり、「福音」は、止まらないのです。神様の救いの御言葉は、止まることがないのであります。「これだけ伝道したからもう終わり」ではないのです。礼拝堂が一杯になったので、私達の務めは終わりました。そうではないのです。福音を語り続け、キリストを証し続ける。全ての人が救いを受けるまで、救いの働きは、止まらない。それが、神様の御心なのであります。 
 しかし、人間は、いつかは止まります。いつかは中断します。パウロは、スペインに行く前に、殉教してしまうのです。計画通りにはいかなかった。計画が中断してしまった。 しかし、絶望はしない。なぜなら、それが、神様の御心だから。そう信じて、自分の命が果てるまで、走り続けていく。それが、パウロの姿、信仰者の姿なのかもしれません。
 人間の計画は、中断します。しかし、神様は、そのような私達を完璧な者として、受け入れてくださるのではないでしょうか。「走るべき道のりを、よく走りきった。」「私のもとで安息しなさい。」そのように受け止めていてくださる。そこに、私達の慰めを深く思うものであります。そして、それを知っているからこそ、主に委ねつつ全力で走り抜くことができるのだろうと思うのです。
 25節から29節をお読みします。「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。」
 この箇所は、パウロの伝道に対する大切な心構えがあると思います。パウロは、イスパニアに行く前に、まずエルサレムに行くのだと言うのであります。
 何の爲でしょうか。それは、献金を届けるためであります。この手紙は、そもそも、コリントで書かれたそうです。そうであるならば、献金を誰かに託して、自分は、ローマに急いだ方が良いのではないか。そう思うものです。
 長い旅路を中断して、一度、数千qも離れたエルサレムに戻る必要があるのか。ましてや、31節を読むと、エルサレムには、パウロに敵対する人もいるのだと言うことが分かります。
 つまり、無事にたどり着けるかどうか、分からない旅であり、たどり着いても、無事に生還できるかわからない。そういう旅になるだろうと思うのです。そのような危険をわざわざ冒してまで、なぜ、エルサレムに戻るのか。そのように思うのであります。
 パウロは、次のように記しています。「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかたのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」
 霊的なものとは何でしょうか。それは、キリストの救いです。ユダヤ人の社会で実現した救いが、今は、異邦人もその救いに与ることができた。そうであるならば、肉のもの−献金−で助けることが大切なのだと言うのです。
 この「あずかる」という言葉と「助ける」という言葉は、実は、同じ言葉なのです。元々の意味は、「分かち合う」「共に生きる」という意味らしいです。
 つまり、パウロは、ただ、献金を届けることを目的としているのではないのです。異邦人とユダヤ人が、一つの恵みを共に分かち合うことを願い、異邦人とユダヤ人が共に生きるために、自分はエルサレムにいくのだと考えているのであります。
 異邦人とユダヤ人の間には、教会の中で壁があったようです。しかし、キリストの十字架は、その壁を壊し、全ての人が、共にキリストの救いを味わい、その一つの恵みを味わい、共に生きる道を切り開くものではないでしょうか。
 その救いの真理を、改めて、証しするために、自分は、エルサレムにまず行くのだというのです。
 伝道をしたい。その気持ちがあります。福音を伝えたい。その気持ちがあります。はやく、次の場所に行きたい。そういう願いがあります。
 しかし、それよりもまず、教会の内部が、一つの恵みを味わい、共に生きる教会であってほしい。違いを乗り越え、痛みを乗り越え、共に生きる、共に歩む。キリストの十字架を土台とした、教会であってほしい。
 それが、使徒パウロの思いであり、そこに神様の御心があるのではないでしょうか。だから、彼は、エルサレムへと導かれていくのです。
 伝道のためにあれをしなければ、これをしなければ。それを考えることも、もちろん大切なことです。しかし、同じように大切なこと、いや、まず優先されなければいけないこと。それは、私達が、キリストの十字架を通して、一つの恵みを味わい、共に生きる家族であるということの再確認なのかもしれません。そして、そこに共に立つところから、新しい伝道の日々がスタートしていくのではないでしょうか。
 そのために、パウロは、祈って欲しいと願います。人と人とが共に、一つの恵みに生かされ、神様の家族として生きる。そのために、沢山の人の祈りが重要なのでありましょう。まず何よりも神と人、人と人とが、キリストの十字架を土台として共に生き、共に恵みを味わい、共に歩み出し、喜びをもって、新しい伝道の日々へと歩み出していけるように、私達もまた、祈りを合わせていくものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:39| 日記