2019年04月21日

2019年4月28日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「アダム」
聖書:創世記2章4節b〜9節
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「神の言葉はいのち、そして私たちを照らす光」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書1章1節〜6節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:53| 日記

2019年4月21日 主日礼拝説教「復活の救い主」須賀 工 牧師

聖書:ルカによる福音書24章1節〜12節

 今、私達は、主イエス・キリストの復活を記念する「イースターの礼拝」を捧げています。そして、今、私達に与えられた御言葉は、ルカによる福音書24章1節から12節の御言葉であります。
 「復活の出来事」。それは、一体、どういう出来事だったのでしょうか。それは、まず、何よりも「墓が空であった」ということなのであります。復活の物語は、復活のキリストが登場して始まるわけではないのです。まず、「墓が空であった」。そのような現実から、復活物語は始まるのであります。
 それでは、「墓が空であった」ということ。それは、どういう意味でしょうか。それは、「墓が空しくなった」ということなのであります。
 主イエス・キリストにおいて、「墓が空しくなった」のであります。死に打ち勝つことの出来る人間はいません。どのような人間であっても、誰もが、死に敗北します。
 しかし、主イエス・キリストは、違ったのであります。主イエス・キリストにおいて、死は敗北した。そして墓が空しくなった。それが、復活の物語から強く指し示されていくことなのであります。
 死に打ち勝つことの出来る人間はいない。しかし、主イエス・キリストを通して、死に打ち勝つことができる。その道が開かれたのだということなのであります。
 つまり、死に打ち勝ったキリストに結ばれて、死に打ち勝ったキリストと一つになって、私達もまた、死に打ち勝つ道を歩むことができる。復活のキリストに結ばれ、復活のキリストと一つになって生きる。そのところで、到底、打ち勝つことの出来ない死に、私達は打ち勝つ者へと変えられていくのであります。ここにキリストの復活の大いなるメッセージが示されているのであります。
 復活物語は、「墓が空であった」という事実から始まります。ここにはもう一つ大切なメッセージがあります。それは、「キリストは死人の中にいない」ということであります。つまり、主イエス・キリストは、生きておられるということであります。
 主イエス・キリストは、死んだ、過去の偉人ではないのであります。キリストは、今も生きている御方なのであります。死に負けた偉人が、私達に永遠の命を与えることはできません。死に敗北した人間が、永遠の命をもたらすことなど不可能であります。
 主イエス・キリストは、死に打ち勝ち、今も生き、今も私達と共に歩み、永遠の命へと招き続けてくださる。この復活物語は、過去の物語なのではなく、今、私達の内にもキリストが生きておられ、永遠の命へと招き続けてくださっている。その事実を指し示している物語なのであります。
 聖書によると、幾人かの婦人たちが、香料をもってお墓に行きます。主イエスの葬りのためであります。しかし、お墓の中に主イエスはいません。彼女たちは、そこで天使と出会い、天使を通して、キリストの御言葉を思い出します。そして、弟子たちに一部始終を話した。そのように、ここで書かれています。
 婦人たちは、「主イエス・キリストが復活した」「主イエス・キリストは今も生きている」とは、弟子たちに言わなかったのであります。ただただ、出来事の一部始終だけを話して終わったのであります。つまり、彼女たちは、キリストの復活を本当に信じたのでしょうか。キリストの御言葉を思い出しながら、しかし、まだ、半信半疑だった。これが彼女たちの姿なのかもしれません。
 しかし、弟子達については更にひどいものであります。主イエス・キリストの御言葉を思い出しながら、キリストの復活を信じるどころか、それを受け入れることすらできない。つまり、人間の力、人間の理性、人間の思いだけでは、キリストの復活はわからない。そこにある恵みがわからない。その悲しい現実が、ここで描かれているのであります。
 但し、ペトロだけが、立ち上がります。主イエス・キリストを知らないと拒んだペテロであります。主イエス・キリストの御言葉を思い出し、キリストと再び出会いたい。キリストと出会って赦されたい。そのように、強く願ったのかもしれません。
 しかし、彼が走り出した先は、どこであったか。お墓なのであります。キリストに出会いたい。そう願いながら、行き着く先は、キリストのいないところでしかないのであります。
 人間の力、人間の理性、人間の思いや願いだけでは、キリストと出会うことはできない。復活のキリストを受け入れることはできない。その本当の恵みは分からない。その悲しい人間の現実が、ここでまず示されているのであります。
 それでは、私達は、どのようにして、復活のキリストと出会い、その恵みを味わうことができるのでしょうか。ルカによる福音書は、24章全体を用いて、復活の物語を記しています。
 つまり、ここに与えられた御言葉だけが復活物語ではありません。この後、主イエス・キリストは、弟子達と出会い、そのことによって、復活を信じるものへと変えられていくのであります。つまり、私達人間が、キリストを見出すのではないのです。キリストが、私達と出会ってくださる。それが、ここから強く指し示されていることではないでしょうか。
 私達が、主イエス・キリストを見出すのではないのです。私達にはそれが出来ないのであります。しかし、復活のキリスト御自身が、私達の方へと歩み寄ってくださる。キリストが、私達と出会ってくださる。そして、罪の赦しと永遠の命を指し示してくださる。これが大切なことなのであります。
 では、私達は、いつ復活のキリストに出会えるのでしょうか。ルカによる福音書24章は、復活物語です。そして、この復活物語は、一日の出来事として記されています。その一日とはいつでしょうか。それが、「週の初めの日」、つまり、「日曜日」であり、私達にとっては、「主の日」であります。
 つまり、私達が捧げている、この礼拝の只中にこそ、復活のキリストが生きて、私達の間に立っておられるのだ、ということなのであります。この礼拝を通して、キリストが、私達と出会い、永遠の命、死に打ち勝つ道を指し示し、その道へと、私達を招き続けてくださる。「あなたの罪は赦された。」「私とつながろう。」「私と一つになって、死を越え、永遠に共に生きよう。」今、この時、この所でこそ、いや、今までの礼拝、これからの礼拝全てにおいて、復活のキリストは生きて、私達と出会い、死に打ち勝つ道へと招き続けてくださる。その幸いを深く心に刻みつつ、この招きに聞きながら、希望に満ちた、信仰生活へと共に歩みを進めていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:50| 日記