2019年05月28日

2019年5月26日 主日礼拝説教「神の子を生む言葉」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書1章1節〜18節

 本日与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書1:1-18です。先月は、特に1-5節を皆さんとお読みしました。これは、全体のプロローグ、序文にあたる箇所です。つまり、この福音書が今から一体何を語ろうとしているかを記しているのです。先月は、イエスは神である。そして、主イエスは、人間を罪の縄目から救う救い主であるということが、言・命・光という象徴的な言葉を用いて示されていくところを共にお読みしました。
 今朝は、その続きの6-13節をご一緒に読んで参りたいと思います。本日の説教題を「神の子を生む言葉」としました。この題は、12-13節に由来するものです。もう一度この箇所をお読みしたいと思います。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」「イエスは神である」と信じることで、人々は神の子となる。これが、本日の箇所が示している一番大切なメッセージです。これは慰めのメッセージであり、希望のメッセージであり、喜びのメッセージであります。主イエス・キリストを信じる私たち一人一人が、神の子として生み出される、この喜びを今朝は皆様とご一緒に味わいたいと願います。
 「神から遣わされた一人の人がいた。」6節はイエス・キリストの証人として一人の人物を紹介します。その人の名はヨハネ。一般には、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人物です。マタイ・マルコ・ルカの共観福音書と、ヨハネによる福音書では、このヨハネの記述は少し異なります。共観福音書では、ヨハネは荒れ野で活躍する預言者として登場します。人間の罪を指摘し、悔い改めを促し、バプテスマを授けることで、イエス・キリストを迎える備えをなした人物として伝えられているのです。主イエスに洗礼を授けたのもこのヨハネでした。しかし、実は、ヨハネによる福音書は、ヨハネが洗礼者であったことを前提としながらも、彼を洗礼者と直接的に呼ぶ箇所はないのです。7節によると、ヨハネは、「証し」をするために来たとあります。また、1:19以下に記される「洗礼者ヨハネ」についての詳細な紹介は、「さて、ヨハネの証しはこうである。」という言葉から始まります。つまり、ヨハネによる福音書は、彼が「証し人」「証人」であったことを強調するのです。
 「証しする(マルトゥレイン)」及び、「証し(マルトゥリア)」は一連のヨハネ文書、ヨハネによる福音書や、ヨハネの手紙が好んで使用した語でした。よく、クリスチャンの証しとか、自分がどのようにして信仰を持ったか話をするとき、「証し」をするなどと言う言葉を耳にします。この「証し」とは、自分が、見たり、聞いたり、手で触れたり、体験した事柄を、他者に伝えることを言います。ある人が、「私はこんな言葉を聞いた、こんなことを見た、こういうことを経験したんですよ。」と誰かに伝える、そうして相手が「ああ、そうなんだ。」と、伝えた人を通してその事柄を知るようになる、これが「証しする」ということなのです。
 では、ヨハネは何を証ししたのでしょうか。それは、光についてです。8節にはこうあります。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」ヨハネは、自分の後から来られるお方、光であるイエス・キリストを証しするために来たのであって、ヨハネが光そのものではないのです。「あなたは誰なのか」と問われたとき、ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」と言います。ヨハネのその声が、彼の叫びこそが、人々の目を、耳を、心を、足を、そして心をイエス・キリストへと向けるものであったのです。イエス様がヨハネについて語っている箇所が、5:33以下にあります。そこを読んでみます。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。」。「わたしは、人間による証しは受けない。」とイエス様は言われます。なぜなら、人は罪ある存在であり、人がイエス様とは何者であるかを伝えることは本質的に不可能であるからです。しかし、イエス様は、「ヨハネは真理について証しをした」「燃えて輝くともし火であった」と言われるのです。ヨハネはイエス・キリストについて証しをし、人々が彼の証しによって主イエスの光に照らされたと。イエス様は、ヨハネを、イエス・キリストを「証し」した人だと評価されるのです。ここに、私たち信仰者の模範としてのヨハネの姿があります。私たちは、自分自身を決して光としないヨハネの生き方に、ただ、イエス・キリストを証しする証し人としての姿を見るのです。
 そのような意味で、ヨハネによる福音書は証しの書であると言えます。しかし、洗礼者ヨハネ然り、この福音書を記した人たち然り、なぜ、彼らはイエスについて「証し」をするのでしょうか。7節に、その答えがあります。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」これが、ヨハネが「証し」をする意味なのです。ヨハネによる福音書という証しの書の、執筆された目的も、全くもって同じです。20:30以下に「本書の目的」という小見出しがついた段落があります。次に21章が続いていきますが、この21章は後代の付加である可能性が高いと言われています。したがって、本来のヨハネによる福音書はこの20:30で終わりであったのです。序章があるのならば、当然、結論があります。それが、この箇所なのです。そこには、このように記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」    
 「証言」や、「証人」とは本来法廷用語でありました。事件や事故などの重大が出来事を見聞きした人が、証人として何が起きたかを証言する。しかし、それを法廷で証言したとしても、その場に居合わせなかった人たちには、何が真実であるかを証言からだけで判断することは困難でありましょう。証言を聞く人々は、その証言が信用するに足るものかどうか、決断をする必要があるのです。
 では、「イエスが神である。」という証言は、私たちが信じるに値する証言なのでしょうか。私たちは今ここに、信仰の決断を迫られているということに気づくでしょう。聖書は、ここにいる私に、あなたに、そして、この言葉を聞いたり読んだりするすべての人に「私を信じなさい。」と語りかけているのです。
 しかし、世は主イエスを理解しませんでした。認めませんでした。受け入れませんでした。世は、神様がすべてを創られた、神様を賛美するために創られたということをすっかり忘れてしまった。11節に、注目すべき言葉があります。それは、「自分の民」という言葉です。これは、学者によって解釈が別れる言葉であります。一つの解釈は、自分の民を、この世と解釈する説です。即ち、キリストは神と等しいお方であるので、自分の民とは天地創造に由来する被造物、すべての人間を指すという考え方です。そして、もう一つの解釈は、旧約の時代に神と契約を交わし「神の民」となったユダヤ民族、つまり、当時のユダヤ人を示しているという解釈です。被造物全体を指すのか、当時のユダヤ人を指すのか、そのどちらの解釈が正しいのか、その結論は未だ出てはいません。しかし、私は、そのどちらもが正しいのではないか、つまり、どちらに読んでもこの御言葉深い意味を持つのではないかと思うのです。人間は本来、全ての者が神様のもの、神様の所有物であります。しかし、あのアダムとエバの出来事以来、神様と人との関係は敗れてしまいました。しかし、神様はそのような人間を決して見捨てることはなく導き続けておられたのです。しかし、神の民と呼ばれたユダヤ人でさえ、何度も神様に背き、裏切ってきました。神様を信じる者も、信じない者も、まことの信仰に生きていない。それが、主イエスが到来された時代でした。そのような、罪のうちにある「自分の民」のもとに主イエスは来られた。「自分の民」がイエス・キリストを受け入れ、神様との関係を回復するために来られたのです。しかし、その「自分の民」によって主イエスは、十字架にかけられました。これは、決して過去の出来事ではありません。いつの時代も信じる者と信じない者がいます。そして、信じる者であっても信じない者になることがあるのです。聖書はこれをよく知った上で、私たちもイエスを十字架につけた「自分の民」であるという、罪の現実を鋭い言葉で突きつけるのです。榎本保郎牧師の『一日一章』のヨハネによる福音書の1章のページには、次のような言葉がありました。「私(榎本牧師)は三年ほど前に約半年の間入院生活をした。その時に示されたことは、私の罪ということである。…聖書の言葉によって私が神の目にどのように映っているかを示されて、非情な恐れとおののきを感じた。自分で自分は罪人であると言うのではなく、神のほうからおまえは罪人であると言われたとき、それは非常に恐ろしいものである。」罪の自覚は、神様からくる。神様から、あなたは罪人だと言われた時、私たちは丸裸にされ、もう逃れようもないのです。そして、その状況に、私たちは恐れとおののきを感じるのです。
 しかし、榎本牧師の言葉はこう続きます。「自分の罪がどんなにすごいものであるかを知れば知るほど、イエス・キリストの十字架の恩恵(恵み)が、いかに大きかを知らされるのである。」と。暗闇にいたこの私を救ったものは何であったか。それは、イエス・キリストの光でした。罪のうちに死んでいた私を生かすものは何であったか。それは、イエス・キリストの命の言でした。そして、聖書はこのように言います。12節「しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」主イエスを信じるものは、神の子とされる。これこそが、今朝の一番大切な、心に刻みこみたいメッセージであります。ここで、一つひっかかる言葉があります。それは、「資格」という言葉です。この言葉はギリシヤ語の「エクソウシア」という語の翻訳でありますが、この「エクソウシア」は幾つもの意味を持ち、文脈によって流動的に意味を使い分けるのです。新しい翻訳である聖書協会共同訳では、「権能」という言葉が用いられていました。口語訳では「神の子となる力」、文語訳では「権」と訳されております。「権利を主張する」などの「権利」の「権」です。英語の翻訳を見ても、主に文語訳の「権」に近いright,力という意味のpower,そして「権能」に近いauthorityなどの翻訳がありました。私は最初、authority「権威」という語がしっくりくるのではないかと考えていました。しかし、ある牧師の説教を読んでいた時、「その三つの意味を重ね合わせた時に、正しい意味が浮かび上がってくるのではないか」という言葉を目にし、「ああ、そうかもしれない」と思い始めたのです。つまり、私たちはイエス・キリストを信じた時に、神の子となる権威が与えられる。権威と聞くと、上に立つものをイメージします。実際に、この「エクソウシア」という語は、支配などと訳されることもあるようです。権威ある者には、特権がある。力がある。そして、そのような者には、当然それらの全てを持ち合わせるに足る資格があるのです。それほどまでに、崇高で栄誉あるものこそが、信じるものに与えられる「神の子の資格」であるのです。
 13節は、神の子は、神によって生まれたのであると私たちに語りかけます。ここにある、血や肉や人とは罪を象徴する言葉です。人間が罪ある存在である限り、罪からは決して神の子は生まれません。「資格」とは外からくるものです。人間の外側、つまり神様の側からその資格が、権威が、力が与えられ、神の子が生み出されるのです。
 人間を人間たらしめるものとは何でしょう。人間の「尊厳」とは何でしょう。それは、私が、神の子であるということです。私の価値、私の値打ちはどこから来るのでしょう。それは、名誉でもお金でも地位でもない、ただ、神から与えられる「神の子の資格」であるということなのです。神様は、私たちを神様の子どもとして、あなたは尊い存在であると、価値ある存在であると、愛してくださっています。今朝、御言葉をもって主が私たちを神の子として生み出してくださったこと、新たに命を与えてくださったことを、感謝したいと思います。 
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:38| 日記

2019年05月26日

2019年6月2日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ロト、ソドム滅亡から逃れる」
聖書:創世記19章15節〜26節
※礼拝後、誕生者の祝福、誕生日会を予定しています。
※保護者の方々も是非、気軽にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「権威ある新しい教え」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書1章21節〜28節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆さんのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:18| 日記

2019年05月19日

2019年5月26日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「アブラハムとサラ」
聖書:創世記12章1節〜9節
※礼拝後、分級があります。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「神の子を生む言葉」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書1章1節〜18節
※礼拝後、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:35| 日記