2019年05月19日

2019年5月19日 主日礼拝説教「主イエスの招き」須賀 工 牧師

聖書:マルコによる福音書1章16節〜20節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章16節から20節の御言葉であります。今朝の御言葉の小見出しには、「四人の漁師を弟子にする」と記されています。
 主イエス・キリストの弟子である。これは何を意味しているのでしょうか。これは、「主イエス・キリストと堅く結ばれている」ということであります。あるいは、「主イエス・キリストのものとされている」ということであります。
 つまり、この物語は、私達のことも指し示していると言えるでありましょう。私達もまた、主イエス・キリストの弟子であり、主イエス・キリストに結ばれ、主イエス・キリストと一つにされた存在だからであります。
 それでは、私達は、どのようにして、主イエス・キリストの弟子になるのでしょうか。もう少し掘り下げて言うならば、私達は、どのようにして、キリストのものとされて、救いを得ることが出来るのか。そのようにも言えるかもしれません。私達は、どのようにして、主イエス・キリストの弟子となるのか。どのようにして主イエス・キリストと結ばれ、救いを得ることが出来るのでしょうか。
 それは、試験に合格することが条件なのでしょうか。優れた知識や知恵を持つことが条件なのでしょうか。社会の中で優れた仕事を持つことが条件なのでしょうか。あるいは、財産を沢山持っていることが条件なのでしょうか。
 主イエス・キリストの弟子になるということは、そのようなことではありません。主イエス・キリストの弟子になる。それは、主イエス・キリストが、まず、あなたを選ぶ。主イエス・キリストが、まず、あなたを招く。そこから、まず始まるのであります。
 主イエス・キリストは、ここで漁師たちに目を向けられます。その様子について、聖書には「御覧になった」と書かれています。この「御覧になる」ということは、ただ「目を付ける」ということではありません。強い意志や関心をもって見つめることであります。それは、言い換えるならば、相手に価値を生み出して見つめる。価値ある存在として見つめる。そのようにも言えるかもしれません。
 主イエス・キリストの招きは、この主イエス・キリストの強い眼差しから始まるのです。主イエス・キリストの選びは、主があなたを強く見つめていてくださる。そこから始まる。そして、その眼差しの中で、主イエス・キリストの側から声を掛けてくださる。これが、主イエス・キリストの弟子になる。そのことの第一歩なのであります。
 私が、主イエス・キリストを選ぶのではありません。この私が、沢山の選択肢の中で、自分にとって一番条件の良いものを選んでいるのではないのであります。主イエス・キリストが、あなたに価値を見出し、主イエス・キリストが、あなたの存在を喜ばれる。これが、主イエス・キリストの弟子になることであり、その弟子であることの幸いなのであります。
 主イエス・キリストは、ここで漁師たちを弟子に迎えられました。彼らは、特に教養があったわけではありません。財産があったわけでもない。ましてや、彼らには、強い意志や力があったわけでもありません。むしろ、彼らは後に、主イエス・キリストを裏切る弟子たちであります。意志が弱く、力も弱いものであります。あるいは、ヤコブと兄弟ヨハネは、「雷の子」とも呼ばれています。気性の荒い人たちだったのかもしれません。
 人間的に言うならば、決して、弟子に適当ではない人たちであります。罪に満ち、弱さに満ち、惨めさの中にある人たちであります。到底、誰も選ばない存在であります。勿論、主イエス・キリスト御自身も、そのことを良くご存じでありましょう。
 しかし、そこに、主イエスは眼差しを向けられ、そこに価値を生み出し、そして、招きの声を与えてくださる。
 つまり、神様の選び、キリストの救いは、ただ一方的な深い憐れみと愛そのものなのであります。到底、価値の見出せない存在に対して、価値を生み出し、必要としてくださる。選びは憐れみなのであります。招きは愛なのであります。これこそが、この招きの物語の非常に重要な部分であり、私達の信仰生活において、大切な原点なのであります。
 主イエス・キリストの弟子となる人生とは、どういう人生でしょうか。それは、私達の生活が転換する人生であります。彼らが網や家族を捨てたように、人生の土台、人生の根本が転換するほどの新しい人生であります。
 もし、自分で、主イエス・キリストを選んだという人がいるならば、その人は、自分の生活をよりよくするために、主イエス・キリストを選んだことになります。そうであるならば、その人の人生の土台は、何も変わっていません。自分の生活の延長線上に、キリスト教を据えているだけのことです。そうであるならば、実は何も変わっていないのであります。
 主イエス・キリストと結ばれ、主イエス・キリストの弟子になるということは、何を意味しているのでしょうか。それは、今まで自分を支配していたものから解放されて、主イエス・キリストの御支配の中で、主のものとして新たに生きるということを意味しているのであります。
 だからこそ、生活が転換するのであります。これは、決して「仕事を辞めなさい」とか、「家族を捨てなさい」という意味ではありません。主イエス・キリストに従っていくことによって、全てのことが、主イエス・キリスト中心になる。そのように、今までの生活が変えられていく。その変化の中で、家族や仕事や生活が新たに見つめ直されていくことがあるのだということなのであります。
 家族との関係、仕事での関係。色々な生き方や価値観があるだろうと思います。しかし、主イエス・キリストと結ばれて生きるということは、その今までの価値観から、主イエス・キリストを中心とした価値観へと変えられていく。その意味で、主イエスの弟子であるということは、全てを捨てることであり、新しい人生の幕開けなのであります。
 主イエス・キリストの弟子へと招かれる。それは、言い換えるならば、主イエス・キリストのものとされることです。私達は、この生活の全てのことから解放され、キリストのものとして新たに生きるのであります。そこで、私を縛り付けるものは何もありません。罪も死も、生活のあらゆるしがらみからも。私達は、キリストの御手の中で、自由に生きることが赦されている。
 私達の生活の目に見える部分は、もしかしたら変わらないかもしれない。家族に縛られ、仕事に縛られ、人に縛られているかもしれない。
 しかし、そこで、本当に私達を支配しているのは、家族でも、仕事でも、人でもなく、キリストの愛、キリストの救い、キリストの恵みなのだと思う時、私達は、何度でも、立ち上がり、喜びをもって、この今を、見つめ直し、新たに受け止め直すことができるのだろうと思うのであります。
 この四人の漁師達は、主イエス・キリストの招きに無言で応えます。この姿に驚かされるものであります。
 しかし、この弟子達は、そんなにすごいのでしょうか。彼らは、後に、主イエス・キリストを裏切る弟子たちです。間違いも起こします。
 しかし、そのような弱さを抱えた弟子達が、主イエス・キリストと共に歩む。その歩みの先には何があるのでしょうか。
 そこには、キリストの十字架の死がある。キリストの復活がある。復活した主イエス・キリストは、どこで弟子達を待つのでしょうか。ガリラヤで待っているのであります。あなたたちの罪は赦されている。新たに歩み出して良い。人間を取る漁師のために生きなさい。即ち、神様の御業のために生き直しなさい。 
 このように、私達を、何度でも原点へと立ち帰らせ、救いの恵みをますます強く指し示し、私達を新たに造り替え、この世界へと再び遣わして下さる。
 だから、失敗してもよい。間違っても良い。あなたが、私を選んだのではない。私があなたを選んだ。もう一度、共に歩み出そう。そのように復活の主は、それぞれに声を掛けておられるのではないでしょうか。
 私達の捧げる礼拝は、言うならば、その復活のキリストと出会う場所であります。つまり、礼拝は、私達の原点を思い起こさせるものでありましょう。そして、礼拝は、復活の主に再び見つめられ、主と再び出会い、また新たに声を掛けられ、その価値観が、再び新たにされる場所でもあるのです。
 私達が選んだのではない。神様が、御子を通して、私達を招き、選び、価値を生み出し、救い出す。そして、私達はを必要なものとして用いてくださる。この幸いを改めて深く思い起こしつつ、主の招きに応えて、新たに歩み出す者でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:28| 日記

2019年05月12日

2019年5月19日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ノア」
聖書:創世記9章12節〜17節
※礼拝後、手話を楽しむ時間があります。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「主イエスの招き」須賀 工 牧師
聖書:マルコによる福音書1章16節〜20節
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:32| 日記

2019年5月12日 主日礼拝説教「神の国は近づいた」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書1章14節〜16節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章14節から15節の御言葉であります。改めて、御言葉をお読みします。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」
 主イエス・キリストの公的な活動とは、どのような活動だったのでしょうか。それは、一言で申し上げるならば、「神の福音を宣べ伝えること」であります。主イエス・キリストの活動は、「神の福音を宣べ伝えること」。それが目的なのであります。主イエス・キリストの一つ一つの具体的な働きや教えもまた、「神の福音を宣べ伝えること」を目的としているのであります。
 それでは、「神の福音」とは一体何でしょうか。それは、「喜びの知らせ」という意味であります。それでは、「喜びの知らせ」とは何でしょうか。それは、「時が満ち、神の国が近づいた」ということなのであります。
 この「時」という言葉は、「時間」という意味ではありません。「時間」というよりは「瞬間」という意味であります。時間は「一定速度で流れていくもの」であります。それに対して、「瞬間」とは、何でしょうか。それは、「その時間を断ちきって突入してくるもの」であります。それが「瞬間」であります。
 つまり、私達が生きる、この時間の只中に、満を持して、何かが外部から突入してきたのだということなのであります。それでは、何が突入してきたのでしょうか。「神の国」が突入してきたのであります。これが、主イエス・キリストの伝えたかった福音−よき知らせ−なのであります。
 それでは、神の国とは何でしょうか。この「国」という言葉は、土地のことではありません。「支配」という意味です。つまり、私達の世界に、私達の時間の中に、キリストと共に、神の支配が突入してきた。これが、キリストの宣べ伝えた福音なのであります。
 しかし、私達は、「支配」という言葉を聞くと窮屈な思いがします。抑圧されているような、縛られているような気持ちになるものであります。誰にも縛られたくない。自由に生きたい。神様に支配されるよりも、自分らしく自由に生きたい。そのように願うこともあるかもしれません。
 聖書には、次のような言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
 ここに、神様の計画が書かれています。神様の計画は、御子を通して、信じるものが、裁かれることなく、永遠の命を得ること。これが、神様の計画の中身となります。この計画が、キリストと共に、この世界や私達の内に突入し、実現し、そして、その光が世界を覆っているのであります。
 この計画を踏まえた上で、改めて問わなければいけなでありましょう。神様の支配は、本当に私達に不自由を強いるものなのでしょうか。神様の支配とは、私達を裁き、縛り上げるものなのでしょうか。
 神様から離れることは、確かに自由な生き方なのかもしれません。しかし、それは、私達が新しい支配者のもとで縛られることでもあると言えるでありましょう。
 新しい支配者とは誰でしょうか。「罪と死」であります。神様から離れて自分勝手に生きることは、罪と死に支配されることでもあるのであります。
 そこに本当の自由はあるのでしょうか。神様の支配とは、人間を縛り付けることではありません。罪からも死からも、私達を解放し、神様の子どもとして、神様の赦しと愛の中で、真の自由な意志をもって生きられることなのではないでしょうか。
 主イエス・キリストは、この恵みが、御自身と共に、この世界に実現しているのだと叫び、招かれるのであります。
 主イエス・キリストは、「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」とは、「反省」することでありません。「立ち帰ること」であります。「方向を転換」することであります。自分の罪を数えて、自分を責めたり、後悔したり、自分の弱さを嘆き、涙を流すことではありません。喜びや救いを知って、そこに歩みを進め直すことであります。
 つまり、「悔い改める」ことと「喜びを味わう」こととは、同じ事なのであります。主イエス・キリストは、あなたがあなたの罪を数えて後悔しなさいと言っているのではないのであります。真の喜びを知り、喜びの中へと来なさいと言っている。だから、真の悔い改めは、真の喜びを知り、喜びの中でこそ、実現するものなのであります。
 さて、主イエス・キリストは、神の福音を宣べ伝えました。神の福音とは、神様の救いの支配が来ることであります。神様の愛が来ることです。神様の赦しや招きが来ることであります。この大いなる喜びの知らせは、いつ、どこで語られたのでしょうか。
 ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤで語られたのであります。ヨハネは、誰の手によって捕らえられたのでしょうか。ヘロデ王であります。何故捕らえられたのでしょうか。神様の御言葉に堅く立ち続けたからであります。
 つまり、神様の御言葉に聴かず、神様を畏れることのない支配者によって、ヨハネは捕らえられたのであります。ガリラヤは、正に、そのヘロデの領地であります。神を神と思わず、御言葉に聴かず、福音を受け入れない世界。その世界の只中でこそ、主イエス・キリストは、福音を宣教するのであります。救いを証するのであります。
 このような闇の世界は、言うならば、私達の心の中にも潜んでいるかもしれません。しかし、その闇の中でこそ、神の福音、神様の救い、神様の赦しの言葉が、キリストによって実現していく。その喜びへの招きが、キリストの御言葉となって響くのであります。
 ガリラヤという土地は、「異邦人の土地」とも呼ばれていたそうです。救いが届かない世界という意味であります。
 しかし、キリストによる神の福音は、救いの届かない土地や心の中にも、確かに届けられるのであります。救いが見出せない。救いが分からない。希望や平和が見出せない。そのような闇の中でこそ、キリストは、生きて、福音をお示しになってくださる。今、あなたの心の中にも、真の救い主は、真の自由と希望を指し示し続けてくださる。この招きの声に、一人一人が耳を傾け、喜びの道へと再び共に歩み出す。そのような、私達でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:29| 日記