2019年05月01日

2019年4月28日 主日礼拝説教「神の言葉はいのち、そして私たちを照らす光」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書1章1節〜18節

 私たちは、今、この礼拝から、ヨハネによる福音書を共に読み始めようとしております。今朝は、その冒頭1:1-18を先ほど司会者に読んでいただきました。1-18節は一つのかたまりです。しかし、この箇所は、ヨハネによる福音書のプロローグにあたる大事な箇所でありますから、同じ箇所を3度の礼拝に分けて読もうと計画し、準備をしてまいりました。伝道師の説教は月に1度程度でありますから、来月も再来月も1回ずつ1:1-18節についての説教をする予定です。このペースで読んでいきますと21章まであるこの福音書を、一体いつ頃読み終えることができるであろうと考えながら準備をしておりました。
 さて、時は、紀元90年の初め頃。シリア・パレスチナ地方の地中海沿岸のある都市で、ナザレ派と呼ばれていたユダヤ教の一派が、ユダヤ教から異端宣告を受け追放されました。ナザレ派は、そもそもはユダヤ教徒でありながら、ナザレの人、イエスを、「神である」と告白する集団でした。しかし、それは、唯一の神以外の者を崇める偶像崇拝であると批判されていました。ユダヤ教徒からすると、極めて異端的な信仰であったのです。ナザレ派と呼ばれた集団は、シナゴーグを追放され、更には、ローマ帝国のドミティアヌス帝による激しい迫害を受けることになってしまうのです。ドミティアヌス帝は、自らを神であると宣言して恐怖政治を行った王様でした。ですから、イエスを神であると告白することがどうしても許せなかったのです。迫害という厳しい状況下で、多くの者が信仰を捨てその集団から脱落していきました。彼らは、迫害を受け続け、弱りつつありました。そこで、自らの信仰的アイデンティティーを確認し、その信仰を硬く保ち、自らの信仰共同体を鼓舞するためにある文書を記すことにしたのです。それは、神様が人間に与えられた真の救いとは何であったかを普遍的な言葉で広く知らせる文書でした。それは、信じる者たちを勇気づけるだけでなく、信仰を捨て脱落した者、イエスを神であると信じようとしないユダヤ人、そして、福音をまだ知らない全ての人類を罪の縄目から救うために記されたのです。その文書は、イエスが愛した愛弟子である使徒ヨハネの名を冠した福音書でありました。その冒頭は、彼らの信仰告白を、豊かな表現を用いて、超越的かつ普遍的な真理として高らかに宣言します。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と。そして、彼らはその冒頭のたった5節の中に、イエスを神であると告白することはどういうことであるか、イエス・キリストとは誰であるか、人間とはどんな存在であるか、神様が私たちをいかに愛されているか、というキリスト教の信仰を凝縮して語っているのです。
 まず、はじめに、1節をもう一度お読みしましょう。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」この「言」とは、イエス・キリストのことです。この1節のうちに本当に多くの神学的に重要なメッセージが込められています。一番初めに示されているメッセージは、「イエス・キリストは初めに存在した。神と共に存在した。」ということです。この初めとは、物事の出発点や開始点という意味ではなく、時間を超えた概念であります。それは、永遠と言い換えることもできます。有限ではなく無限ということです。キリストは時間が始まるその外側で、全ての起源として既に神と共に存在されていたということが示されているのです。
 天地創造の前に存在するとは、ユダヤ教において、神のみが有している性質でした。ですから、ヨハネによる福音書はその福音書全体の最初の一節を、「言は神であった。」、即ち、「イエスは神であった。」と締めくくるのです。この福音書を記した共同体は、「イエスは神である」という信仰の故に、ユダヤ教やローマ帝国から迫害を受けてきました。しかし、彼らは、苦難の中にあってもなお、その文書のしかも冒頭に「イエスは神である」と宣言するのです。それは彼らの信仰の核でありました。ところで、核とは何でしょうか。ただ大切にしてきた考えでしょうか。そうではありません。「イエスは神である」という信仰は、彼らを闇から救い、光で照らし、そして、彼らに命を与えるただ一つの道であったのです。
 2−3節は、創世記の天地創造物語になぞらえて、キリストがどのようなお方であるかを示しています。「神様は世界の造り主である。」それは、旧約聖書、新約聖書の両方に共通する基本的な信仰理解です。神様は目に見えるもの、見ええないもの全てを創造されました。「光あれ。」と、言によって、創造されました。天地万物をお造りなり、そして、私たち人間を創造されたのです。私たちは、神様に形どって、神の似姿に創造されました。それは、私たちが神様の良さ、知恵、そして愛をうつしだす存在として造られたということです。私たちの姿に神様の姿が写し出されているのです。人間は本来、神様の知恵と愛とに満ちた存在でありました。ところが、私たちは神様に背くものとなってしまいました。罪にまみれた存在となってしまったのです。人は、神様の知恵ではなく、自分の知恵に頼るようになりました。愛することではなく、憎み傷つけ合うようになりました。神様との関係は壊れ、人間同士の関係も壊れてしまったのです。
 神様は、そんな私たちをお見捨てになってしまったでしょうか。私たちは、最初は良いものであったけど、もはや、なんのいいところもない、ただの不良品となってしまった。神様は、そんな私たちに「もういらない」と言われるお方でしょうか。いいえ、違います。神様はそんな私たちをずっと愛し続けてくださるお方なのです。その愛の表れが、この世に到来された神と等しいお方、私たちの主イエス・キリストであったのです。
 3節以下に記されている事柄は、神様がいかにして愛と哀れみをもって、私たちを罪から救ってくださったかということです。先ほども申しましたように、ここで記される「言」とはイエス・キリストです。では、3節にある、「万物は言によって成った。」とは、どういうことでしょうか。これは創世記にある、天地創造の物語ではなく、イエス・キリストによる、第二の創造物語のことを示しているのです。罪にまみれた混沌としたこの世に、神様は、私たち人間が、再び生まれ変わるため、新しく創造されるためにイエス様を送ってくださいました。今から読み進めようとするヨハネによる福音書には、イエス様のこの地上での生涯が記されています。イエス様は、この世で、福音を語り、病気の人を癒し、飢えた人を満たし、子ども達を祝福し、罪ある私たちの友となってくださいました。イエス様の言葉には、神様の権威がありました。イエス様のなさる業には、神様の力がありました。私たちは、イエス様を通して、神様がどんなお方であるかを知るのです。イエス様の言葉は、神様を知るための唯一の道です。私たちはイエス様の言葉を受け入れて信じることで、神様との壊れた関係を回復していくことができるのです。
 4節になると、命と光という新たな言葉が登場します。ここでは、「言」、即ちイエス・キリストは、命であり、人間を照らす光であると言われます。先週、私たちは、主の御復活をお祝いするイースターの礼拝を持ちました。復活というのは、世間一般的には非常に馴染みのない概念です。一度死んだ者が蘇る、これは普通ではありえない超自然的な出来事だからです。しかし、私たちは、私たちの信仰において、例えば使徒信条の一節を借りるとするならば、「体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白するのです。この信仰告白は、主イエス・キリストの御復活の出来事を根拠とします。主イエスは十字架につけられ死に、三日目に死人のうちより蘇りました。使徒パウロは、「罪が支払う報酬は死です。」と言います。これは、私たちが罪の状態から抜け出すために、自分の命を償いの代金として支払わなければならないという意味です。神様を裏切ったこと、誰かを傷つけてしまうことを、神様に「ごめんなさい」と謝る必要があるのです。そのためには、私たちは死ななければならないのです。そんなことができるでしょうか。
 しかし、私たちが到底できないことを、私たちの代わりにしてくださったお方がいます。私たちの罪のために命を捧げてくださったお方です。それが、私たちの主イエス・キリストです。私たちは自らの命を捧げることなく、罪赦された者とされました。私たちは、十字架の死と復活の出来事を通して、死から生き返ったのです。私たちはもはや、死から解放された存在となりました。永遠の命を与えられたのです。これは、私たちが通常経験する、生きるとか死ぬとかということとは全く違います。神様との関係のうちに永遠に生き続けられるということです。よく、死んだ方を、「◯◯さんは、私たちの心で永遠に生き続けます。」とか、周りの人から忘れられ去られた時が、本当の死だとか言ったりすることがあります。復活や永遠の命は、これに似ていると思います。神様は信じる者達を、永遠に、決して忘れることはありません。そして、この世界の終わりの日に、全てが滅びようとも、私たちは必ず蘇るのです。
 永遠の命に生きる私たちの内に、もはや闇はありません。そこには主イエスという光が照り輝いているからです。しかし、一度信仰を持ってクリスチャンとなった者であっても、その神様の深い愛を忘れてしまうことがあります。正しくまっすぐに歩むための光がどこからくるのか、見失ってしまうことがあるのです。自分が舞台の上に立ち、スポットライトを浴びている姿を思い浮かべてください。人はより自分を目立たせるため、たくさんの方向からライトを浴びたいと願う者です。しかし、様々な方向からくるライトであっても、舞台の上の自分からは一つの光にしか見えないのです。その一つ一つを消していく他に、まことの光を知る道はありません。この世には、たくさんの光があります。どれも魅力的で自分の人生を豊かにしてくれそうな光ばかりでしょう。しかし、まことの光は主イエス・キリストただ一つです。私たちは、何時いかなる時も、まことの光だけを請い求める者でありたいと思うのです。
 そして、忘れてはならないこと、それは、舞台の上でスポットライトを一つ一つ消していった時のことです。全ての光が無くなった後には、暗闇しか残りません。私は誰からも見えなくなってしまうのです。それは、私が輝く光ではないからです。聖書は、信じる者が光となる、とは言いません。ここで強く示されていることは、主イエス・キリストが私たちを照らす光であると言うことなのです。
 5節は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と言います。注解書には、5節は編集の際の挿入句で、本来は、11節がここにきていたと書かれていました。5節と11節は、どちらも、同じことを違う表現で言い表しています。それは、イエスの受難の出来事です。ヨハネによる福音書はそのプロローグの最初の段落を、この句で締めくくります。これは、何を意味しているのでしょうか。この言葉は、間違いなく、私たちに信仰の決断を迫っている言葉です。それは、ここに本来入るはずだった11節に続く、12節を読むと明らかです。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」受け入れる人がいるということは、受け入れない人がいるということです。ヨハネによる福音書では、このような信じるものと信じないものとの対比が繰り返し語られます。主イエスは、今、ここにいるあなたに、この言葉を聞くあなたに、この言葉を読むあなたに「わたしの言葉を信じよ」と、信仰の決断を求められておられるのです。信じる者には命が与えられ、そして光に照らされる道が示されます。この一週間も、共に主イエスの言を信じ、命与えられ生かされる喜びに歩んで参りたいと願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:59| 日記