2019年05月12日

2019年5月19日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ノア」
聖書:創世記9章12節〜17節
※礼拝後、手話を楽しむ時間があります。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「主イエスの招き」須賀 工 牧師
聖書:マルコによる福音書1章16節〜20節
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:32| 日記

2019年5月12日 主日礼拝説教「神の国は近づいた」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書1章14節〜16節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章14節から15節の御言葉であります。改めて、御言葉をお読みします。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」
 主イエス・キリストの公的な活動とは、どのような活動だったのでしょうか。それは、一言で申し上げるならば、「神の福音を宣べ伝えること」であります。主イエス・キリストの活動は、「神の福音を宣べ伝えること」。それが目的なのであります。主イエス・キリストの一つ一つの具体的な働きや教えもまた、「神の福音を宣べ伝えること」を目的としているのであります。
 それでは、「神の福音」とは一体何でしょうか。それは、「喜びの知らせ」という意味であります。それでは、「喜びの知らせ」とは何でしょうか。それは、「時が満ち、神の国が近づいた」ということなのであります。
 この「時」という言葉は、「時間」という意味ではありません。「時間」というよりは「瞬間」という意味であります。時間は「一定速度で流れていくもの」であります。それに対して、「瞬間」とは、何でしょうか。それは、「その時間を断ちきって突入してくるもの」であります。それが「瞬間」であります。
 つまり、私達が生きる、この時間の只中に、満を持して、何かが外部から突入してきたのだということなのであります。それでは、何が突入してきたのでしょうか。「神の国」が突入してきたのであります。これが、主イエス・キリストの伝えたかった福音−よき知らせ−なのであります。
 それでは、神の国とは何でしょうか。この「国」という言葉は、土地のことではありません。「支配」という意味です。つまり、私達の世界に、私達の時間の中に、キリストと共に、神の支配が突入してきた。これが、キリストの宣べ伝えた福音なのであります。
 しかし、私達は、「支配」という言葉を聞くと窮屈な思いがします。抑圧されているような、縛られているような気持ちになるものであります。誰にも縛られたくない。自由に生きたい。神様に支配されるよりも、自分らしく自由に生きたい。そのように願うこともあるかもしれません。
 聖書には、次のような言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
 ここに、神様の計画が書かれています。神様の計画は、御子を通して、信じるものが、裁かれることなく、永遠の命を得ること。これが、神様の計画の中身となります。この計画が、キリストと共に、この世界や私達の内に突入し、実現し、そして、その光が世界を覆っているのであります。
 この計画を踏まえた上で、改めて問わなければいけなでありましょう。神様の支配は、本当に私達に不自由を強いるものなのでしょうか。神様の支配とは、私達を裁き、縛り上げるものなのでしょうか。
 神様から離れることは、確かに自由な生き方なのかもしれません。しかし、それは、私達が新しい支配者のもとで縛られることでもあると言えるでありましょう。
 新しい支配者とは誰でしょうか。「罪と死」であります。神様から離れて自分勝手に生きることは、罪と死に支配されることでもあるのであります。
 そこに本当の自由はあるのでしょうか。神様の支配とは、人間を縛り付けることではありません。罪からも死からも、私達を解放し、神様の子どもとして、神様の赦しと愛の中で、真の自由な意志をもって生きられることなのではないでしょうか。
 主イエス・キリストは、この恵みが、御自身と共に、この世界に実現しているのだと叫び、招かれるのであります。
 主イエス・キリストは、「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」とは、「反省」することでありません。「立ち帰ること」であります。「方向を転換」することであります。自分の罪を数えて、自分を責めたり、後悔したり、自分の弱さを嘆き、涙を流すことではありません。喜びや救いを知って、そこに歩みを進め直すことであります。
 つまり、「悔い改める」ことと「喜びを味わう」こととは、同じ事なのであります。主イエス・キリストは、あなたがあなたの罪を数えて後悔しなさいと言っているのではないのであります。真の喜びを知り、喜びの中へと来なさいと言っている。だから、真の悔い改めは、真の喜びを知り、喜びの中でこそ、実現するものなのであります。
 さて、主イエス・キリストは、神の福音を宣べ伝えました。神の福音とは、神様の救いの支配が来ることであります。神様の愛が来ることです。神様の赦しや招きが来ることであります。この大いなる喜びの知らせは、いつ、どこで語られたのでしょうか。
 ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤで語られたのであります。ヨハネは、誰の手によって捕らえられたのでしょうか。ヘロデ王であります。何故捕らえられたのでしょうか。神様の御言葉に堅く立ち続けたからであります。
 つまり、神様の御言葉に聴かず、神様を畏れることのない支配者によって、ヨハネは捕らえられたのであります。ガリラヤは、正に、そのヘロデの領地であります。神を神と思わず、御言葉に聴かず、福音を受け入れない世界。その世界の只中でこそ、主イエス・キリストは、福音を宣教するのであります。救いを証するのであります。
 このような闇の世界は、言うならば、私達の心の中にも潜んでいるかもしれません。しかし、その闇の中でこそ、神の福音、神様の救い、神様の赦しの言葉が、キリストによって実現していく。その喜びへの招きが、キリストの御言葉となって響くのであります。
 ガリラヤという土地は、「異邦人の土地」とも呼ばれていたそうです。救いが届かない世界という意味であります。
 しかし、キリストによる神の福音は、救いの届かない土地や心の中にも、確かに届けられるのであります。救いが見出せない。救いが分からない。希望や平和が見出せない。そのような闇の中でこそ、キリストは、生きて、福音をお示しになってくださる。今、あなたの心の中にも、真の救い主は、真の自由と希望を指し示し続けてくださる。この招きの声に、一人一人が耳を傾け、喜びの道へと再び共に歩み出す。そのような、私達でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:29| 日記