2019年06月23日

2019年6月30日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記24章62節〜67節
主題:「イサクの結婚」
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も是非、お越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書1章1節〜18節
主題:「私たちは、主の栄光を見た」須賀 舞伝道師
※礼拝後、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:43| 日記

2019年6月23日 主日礼拝説教「主イエスが先頭に立つ」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書1章35節〜39節

 今朝、私たちに与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章35節から39節の御言葉であります。35節の御言葉をお読みします。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
 主イエス・キリストは、一人で祈っています。沢山の人々が、主イエス・キリストを求めます。あれをしてほしい。これをしてほしい。恐らく、一日中、主イエス・キリストは、その人々の願いに応えてこられただろうと思います。
 しかし、主イエス・キリストは、今、一人で、お祈りをされた。一人で、神様との交わりの時を持たれた。何を祈ったのかは、分かりません。
 しかし、分かることがあります。それは、主イエス・キリストが、ここで、神様との交わりに生きたということであります。人々の願いを優先するのではなく、神様との交わりをここで優先した。それだけは、ここから強く分かるものであります。
 さて、真の救い主とは、どういう存在であるのでしょうか。何のために救い主がいるのでしょうか。それが、ここから強く表されています。
 即ち、主イエス・キリストは、人間の願望に応える救い主なのでしょうか。それとも、神様の御心に従う救い主なのでしょうか。人の欲望に従う救い主なのでしょうか。神の御心にのみ従う救い主なのでしょうか。
 主イエス・キリストは、神の御心に従うことを、優先する救い主なのであります。人間の願望に応える。そのことよりもまず、神の御心、神の願いに応えていく。それが、主イエス・キリストなのであります。だからこそ、主イエス・キリストは、ここで祈りを優先したのであります。言い換えるならば、主イエス・キリストが、神の御心を優先するところにこそ、人間の真の癒しがあるのだということ。それが、この聖書の語るメッセージなのであります。
 36節〜39節の御言葉をお読みします。「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」
 弟子達は、人々の願望に応えたい。そう思っています。この世のニーズに応えて欲しいと願っている。人々もまた、自分の願望に応えて欲しいと思っている。私たちもまた、心の中で、自分のニーズに応えてくれる救い主。そういう救い主を願っているかもしれません。 
 しかし、それは、本当の「信仰」と言えるものなのでしょうか。自分にとって都合の良い存在を作り上げているだけなのかもしれません。聖書は、それこそが「偶像」であると示しています。偶像は、像を作り上げることだけではありません。自分の心の中で、自分にあった神を理想化していくこと。これもまた、偶像崇拝なのであります。
 そして、この偶像こそが、病よりも更に恐ろしい、罪や滅びを引き起こすことになるのであります。偶像は、自分の理想を中心にして、神を形作ることです。つまり、人間が、神を作る行為であります。それは、自分に神を従わせることであり、自分が神になることでもあると言えるかもしれません。その先にあるものは何でしょうか。罪であります。滅びであります。死であります。
 病が取り除かれることは大切なことです。癒されたいと誰もが願います。しかし、たとえ、この身が癒されても、罪や滅びや死に支配されているならば、それは、本当に救われていることになるのでしょうか。逆に言うならば、病が癒されることはないかもしれない。しかし、罪から救い出され、滅びから解放され、死を越えていけるとするならば、それが本当の救いになることはないのでしょうか。
 主イエス・キリストが応える、神の御心はどこにあるのでしょうか。それは、人々が癒される代わりに、罪を犯すことなのでしょうか。体が癒される代わりに、神様に背を向けることなのでしょうか。もし、そうであるならば、神は、人を本当の意味で救うことも、愛することもない存在であるということであります。
 神様の御心は、人々が本当の意味で、罪や滅びや死から解放され、神様のものとなり、神の国に入ることなのではないでしょうか。そして、その御心に応えるようにして、主イエス・キリストは、人間の願望に応じるのではなく、神様の御心を優先して、先の道へと歩み続けて行かれるのではないでしょうか。
 主イエス・キリストは、先に進みます。その先で福音を宣教します。しかし、その土地からも離れ、更に先に進みます。その先に何があるのでしょうか。
 そこには、まず、ゲッセマネの祈りがある。そこでも主イエスは、一人で祈る。「出来ることならば、この苦しみを取り除いてほしい。しかし、神の御心を優先して欲しい」。そのように一人で祈るのであります。
 「苦しみを取り除いて欲しい。」誠に人間性に満ちた問いかけです。しかし、その苦しみの中でも神の御心を優先するのであります。人間の思いを越えて、ただただ、神様の御心に従って行くのであります。
 その従って行く最終地点に何があるでしょうか。十字架の死と復活がある。ここに神様の御心の最終地点がある。罪を背負い、死んで復活すること。そこに神の御心がある。ここにこそ病から癒されるよりも、もっと大きな救いがある。ここにこそ、神の本当の救いの出来事がある。
 人間の願望に応える道ではなく、神の御心に応える道を歩まれるのが、主イエス・キリスト。その歩みの最後に、真の救いをもたらす十字架の死と復活がある。今朝の御言葉は、その真実を明らかにする箇所でもあるのです。
 石山教会が71年目の歩みを始めようとしています。71年の間、教会を取り巻く環境は、著しく変化し続けています。そして、人間が教会に求めるニーズもまた、変わっていくでありましょう。そして、その変化や世のニーズに従って、教会も又、変化が求められていくこともあるだろうと思います。
 しかし、この世のニーズに応えることが、キリストに従う道なのでしょうか。キリストが先頭にたって歩む先は、本当は、ただ一つなのではないでしょうか。そして、教会が指し示す道もただ一つなのでしょうか。
 本当に、この世を愛し、この世に生きる人を愛し、家族を愛し、友達を愛し、信徒同士で愛し合うということは、その人のニーズに応えることではない。本当に愛しているからこそ、神様の真の救いの道を指し示していく。そのことこそ、これからの私たちに必要なことなのかもしれません。
 神様が、そして、御子イエス・キリストが、この世のニーズではなく、十字架の死と復活へとひたすらに歩まれたように、私たちも又、そこに一心に思いを向け直し、改めて、キリストが歩まれた道を指し示し続けていく。それが大切なのであります。
 信仰者がどこを向くべきなのか。教会がどこを向くべきなのか。私たちの本当の喜びと癒しがどこにあるのか。それが、十字架の死と復活。罪の赦しと永遠の命。体が癒されることよりも、大きな幸いがここにある。キリストは、その救いの宣教のために、今日も歩んで行かれる。そのキリストを先頭にして、私たちもまた、新しい一年の歩みを始めたいのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:39| 日記