2019年07月03日

2019年7月7日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題 「祝福をだまし取る」
聖書 創世記27章18節〜29節
※礼拝後、誕生者祝福の祈り、誕生日会を行います。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題 「深く憐れむ」須賀 工牧師
聖書 マルコによる福音書1章40節〜45節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:38| 日記

2019年6月30日 主日礼拝説教「私たちは、主の栄光を見た」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書1章1節〜18節

 本日の、御言葉はヨハネによる福音書1:1-18節です。今日でこの箇所の説教をするのは3回目ですが、1回目は主に、1-5節までを、2回目は6-13節までを皆さまと読んで参りました。本日は、その続きである14-18節までの御言葉に、共に聞きたいと思います。
 説教題を「私たちは、主の栄光を見た。」としました。これは、14節からとったものです。もう一度お読みします。

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 ここにある「言」とは、主イエスのことであります。「肉」とは、人間を意味します。1:1において、「言は神であった。」と言われているように、ヨハネによる福音書は、「イエスをわたしたちの主、神である。」ということを、「光や命」といった独特の言葉を用いて宣言します。そして、14節以下は、神様が、肉ある人間として私たちの間に来られたと告白するのです。
 14節は、「受肉」の出来事を言い表しています。「受肉」とは、神の言が肉を取る。歴史の中に存在する一人の人間となる、ということを意味します。それは、単に歴史の中にイエスという人間が存在したということではありません。信ずる者たちにとってこの御言葉は、何を意味するか。それは、「受肉」の出来事によって、私たちの救いが既に完成されたということです。
 人類の救いは、主イエスの十字架の死と復活によって成し遂げられました。それは、言が肉を取らなければ、神様が人間とならなければ、成し遂げられない救いでありました。従って、この御言葉において、私たちの救いとは、言が肉となったその時に既に完成を見ていたということが強く示されていくのです。もっと言うならば、1節からを振り返って読み、主イエスが、初めに神様と共におられた、ということに再び目向ける時、私たちは、私たちの救いが、「初め」の時から既に定められていた、神様の秘められたご計画であった、ということに気づかされるのです。
 主イエスは、私たちに命を与えてくださいました。それは、決して無限の命の源泉から、つまり、たくさんあるところから、私たちがお裾分けをいただくというようなことではありません。主イエスにとって、私たちに「命を与える」ということは、「己の命を棄てる」ということでありました。罪ある私たちに、こんな赦されるに値しない私たちに、主イエスは「私の友よ」と呼びかけてくださり、私たちの代わりに自らの命を捨ててくださった。これこそが、主イエスを通して神様が私たちに示された、唯一無二、絶対的な愛であったのです。
 神様の愛は、私たちの罪を包み込む、大きな大きな愛です。この大きな愛に、私たちは、主の栄光を見るのです。主の栄光は「恵みと真理」に満ちていました。この「恵みと真理」という言葉は、本日読んでいただいた旧約聖書、出エジプト記33:18以下に由来する言葉です。「どうか、あなたの栄光をお示しください。」と願うモーセに対して、神様は「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」と言われました。これは、神様が私たちを恵もうとされ、また憐れもうとされる時、その神様の「恵と憐れみ」が満ち溢れるところに、神様の栄光が現れるのだという事です。そして、もう少し後の、出エジプト記34:6-7では、神様の憐れみと恵み、そして慈しみは、忍耐深く、罪と背きと過ちを赦すとあるのです。つまり、ここでは、神様が、恵みと憐れみを与えられる時、神様は、人の罪を裁くのではなく、赦されるのだという一つの「約束」が明らかになっていくのです。
 ここでもう一度、ヨハネによる福音書の、16節に戻りたいと思います。

 わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

この「満ち溢れる豊かさ」というギリシア語は、何かで満ち満ちていっぱいになっている様を言い表す言葉です。「この方」とは、主イエス・キリストのことです。主イエスに一体何が満ち溢れていたのでしょうか。コロサイの信徒への手紙1:19-20の御言葉は、この16節を理解する上で重要な注解を私たちに与えてくれます。それは次のような言葉です。
 
 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」た、つまり、わたしたちの主イエス・キリストには、神様の御心が満ち溢れているのです。それは、かつて、神様がモーセに与えた言葉のとおり、私たちを恵みと憐れみをもって赦そうとされる御心であります。十字架の血によって万物を神様と和解させるという、神様の深い愛が、主イエスには、満ち溢れているということなのです。
 ヨハネによる福音書の中心的なメッセージの一つは、主イエスの十字架の死と復活の出来事を通して、神様の愛が示されたというメッセージです。言い換えるならば、ヨハネによる福音書はどこを読んでも、神様の愛、憐れみ、恵、真理、忍耐、罪の赦しを、私たちに語っているということであります。ですから、私たちはこれからこのヨハネによる福音書を共に読み進める時、そのどこを読んだとしても、神様の愛に癒され慰められていくのです。
 ところで、14節や16節には、「わたしたち」や「わたしたちは皆」という言葉が出てきます。これは、13節までには、出てこなかった言葉です。14節から突然、明らかに人間の側から発せられた言葉が語られるのです。教会は、聖書は「神の言葉」であると信じています。しかし、「わたしたち」という言葉を読む時、聖書は人間が書いた言葉ではないかという疑問が湧いてくるのです。そう、それは全くその通りです。福音書や手紙、どこを読んでも、聖書は、「人間の言葉」なのです。しかも現実には、偉大なる神様から想像する力強さとは程遠い、むしろ真逆の、迫害を受け虐げられた小さな者たちの言葉でした。もちろん、このヨハネによる福音書もローマ帝国やユダヤ教の迫害下で、苦しみや弱さの中から生まれた言葉であったと考えられます。しかし、聖書の言葉を聞く時、私達は、そのような弱々しく小さな人間達の言葉に、神様の力強さを感じるのです。そして、神様の力が働かれる時(ロマ1:16)、私たちは、「人の言葉」を「神の言葉」と信じて受け入れることができるようになるのです。
 それでは、一体、ここにある「私たち」とは誰なのでしょうか。まず第一に、これは当然、このヨハネによる福音書を書いた誰かのことありましょう。しかし、ここでは「私たち」とあります。次に考えられるのは、この福音書を書いた人の言葉を「神の言葉」として聞いていた、ヨハネの教会の人達のことでありましょう。また、ヨハネによる福音書が文書として成立するまでに、多くの「私たち」が主イエスの福音を聞き、語ってきたのです。更にこの「私たち」とは、イエス様と共に生き、イエス様の業と言葉を直接見聞きした者たち、即ち、主イエス・キリストの弟子たちにまで遡ることができるのです。
 ところで、先日、ヨハネによる福音書について、ある注解書を読みました。そこには非常に興味深いことが書かれていました。それによると、この1-18節は、もともとは賛美歌であったというのです。それは、「ロゴス賛歌」と呼ばれる、ヨハネの教会が礼拝や洗礼式で繰り返し歌ってきた賛美歌でありました。更に、この注解書は、それが交唱歌であったと言うのです。交唱歌とは、司会者などが歌う独唱と、会衆が歌う応答歌から成る賛美歌のことです。私たちが、いつも礼拝で行っている交読詩編に、メロディーをつけて歌うようなイメージです。1-13節の原型となった部分が、主イエス・キリストを、言(ロゴス)や命、光といった独特の言葉で歌い上げる「ロゴス賛歌」と呼ばれた独唱歌で、14節以下の部分が、会衆が歌う、「ロゴス賛歌」への応答歌であったのではないかと、説明されていました。そう考えると、14節に「私たち」という言葉が唐突に現れることにも納得ができます。
 ヨハネによる福音書の1:1-18節が賛美歌、もしくは詩であったということは、何人かの聖書学者が唱えていることです。しかし、それが御言葉の読み方の全てになってしまうのは危険です。ただ、私はこの注解書を読んだ時、このように思いを巡らせたのです。約2,000年前、ローマ帝国の支配下であったシリア・パレスチナ地方のどこかに、迫害を受けながらも、主イエスを神様として礼拝し続ける信仰共同体があった。それは、ヨハネの教会と呼ばれていた。人々は、礼拝の中で、繰り返し繰り返し主イエス・キリストを讃える歌を歌っていた。司会者が歌い、会衆がそれに答えてまた歌う。彼らはどのような思いを込めてこの賛歌を作り、歌っていたのだろうか。どんな気持ちで、歌い続けてきたのだろうか。おそらく、彼らは周囲から迫害され、拒否された者たちの集まりでした。ですから、きっと大きな悲しみや苦しみを抱えていたことでしょう。世に対する恨みや憎しみを持っていたかもしれません。そんな自分の罪の現実をも受け入れられずにいたかもしれない。そして、何より主イエス・キリストがユダヤ人の同胞たち、つまり、彼らの家族たちに受け入れられない現実を心から悲しんでいた。しかし、そんなどうしようもない暗闇の中に、光が輝いていた。彼らは、その光り輝く主の栄光を見ていた。主イエスの死と復活によってもたらされた究極の赦し、和解、平和を知っていた。そこに、神様の大きな愛を見ていた。彼らは自分たちがもはや、永遠に拒否されることがない存在であることを喜んでいた。「神の子」として神様に受け入れられているという喜びを知っていた。愛されている喜びを知っていた。だからこそ、神様の愛に答えたい、わたしたちはとどうしてもその喜びを歌わずにはいられないのだ。
 今ここにいる私たち一人ひとりは、古の教会が行ってきたこのような信仰告白とは無関係なのでしょうか。決してそうではありません。この石山教会も、イエス様の弟子たちの信仰を継承する教会です。ヨハネの教会の人たちが歌う喜びの歌は、私たちの喜びの歌でもあるのです。先週の主日礼拝は、石山教会創立71年目を記念する礼拝でした。石山教会の歩みは、教会が誕生して約2,000年の歴史から見たら、ほんのわずかな時間かもしれません。しかし、この石山教会も、71年の歩みの中で、揺らぐことなく、主イエス・キリストの福音を継承し続けて来ました。そして、今ここにも、主なるキリストは生きて働いておられる。私たちは「神の子」として神様に愛されている。そのことを、今新たに私たちの心に深く示されているのです。「私たちは、主の栄光を見た。」この喜びに満たされ、この一週間も、歩んで参りたいと願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:24| 日記