2019年07月29日

2019年7月28日 主日礼拝説教「ヨハネの証し」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書1章19節〜28節

 本日、私たちが読みます御言葉は、ヨハネによる福音書1:19-28です。4月から3回に渡って、ヨハネによる福音書の序文、プロローグを読んで参りました。今朝からはいよいよ、本文へと入っていこうとしております。しかし、この本文の始まりはどこか不思議なものでありました。19節の始めの部分をもう一度お読みしたいと思います。
 さて、ヨハネの証しはこうである。(19節)
 ここに登場してくるのは、物語の主人公であるはずの主イエスではありません。ヨハネという人物です。このヨハネとは一体誰でしょうか。ヨハネは、他の福音書を読むと、主イエスの親類である、祭司ザカリヤとエリザベトとの間に生まれたとあります。彼の生い立ちはルカによる福音書に詳しいのですが、不妊であった老夫婦のもとに主の御使いが現れて、「ヨハネの誕生」を告知する物語が記されています。天使は父ザカリヤにこう言います。
 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいる時から聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。(ルカ1:15-16)
ヨハネは大人になり、天使が告げた通り、荒れ野で禁欲生活を送り、ユダヤの人々に洗礼を勧める活動を行うようになりました。しかし、当時、洗礼とは異邦人がユダヤ教に改宗する際に行われる儀式でした。つまり、生まれながらの神の民であるユダヤ人には、必要のない儀式だったのです。しかも、ユダヤ人は聖書(今の旧約聖書)の規定に従って、汚れるたびに何度でも沐浴をし、水によってその汚れを取り除くことをしていました。しかし、ヨハネはユダヤ人も洗礼を受けなさいと勧めた。いや、むしろユダヤ人こそ洗礼をうけるべきであると言った。他の福音書の並列記事を読んでみると、そこは、皆さんが家に帰ったらぜひ読んでいただきたいのですが、ヨハネがユダヤ人達に、かなり厳しい言葉を投げかけていたことが分かります。あなた達には罪がある。今こそ、悔い改めて神の方に向き直らなければいけない、彼は荒れ野でこのように叫んでいたのです。
 しかしそれを、エルサレムにあるユダヤ教のトップ、最高法院が黙って見過ごすはずはありません。ヨルダン川沿いの辺境の地ベタニアに、エルサレムからはるばる祭司やレビ人が派遣されてきました。ヨハネの活動や宣教の内容を調査して、報告しなさいと指示されて来たのです。ヨハネの活動がどんどん大きくなり、たくさんのユダヤ人が集まっている。多くの人が彼から洗礼を受けている。もしかしたら、ユダヤ教の脅威になるかもしれない。彼らは、ヨハネのもとを訪ねてきて言いました。
「あなたは、どなたですか。(19節)」
20節を読むと、ヨハネの答えはこうでした。
公言して隠さずに「わたしはメシアではない」と言い表した。(20節)
この「公言して」と「隠さず」は、ギリシア語の「Homologein」と「arneisthai」という言葉です。この「公言する」という言葉と同じ意味の言葉に、「証しする」という言葉があります。この言葉は、いわゆる、ヨハネによる福音書の愛用句で、特に、洗礼者ヨハネと結びつけて使われることが多い言葉です。この「証し」とは当時一般的には、法廷用語でした。「証し人ヨハネ」と言うと、信仰的な響きに聞こえるかもしれませんが、「証言者ヨハネ」と言い方を変えるとどうでしょう。裁判で証言台に立つヨハネの姿が思い浮かんできます。また20節の「公言して隠さず」の「隠さず」も同じく法廷で用いられる言葉でした。「否認せず」と言った方がそれらしいかもしれません。
 ユダヤ人にとって、ヨハネは裁きの対象でした。いわば被告人です。祭司やレビ人達は思っていました。私たちは神の民だ。なのに、この男は、私たちに罪があると言う。なぜ私たちが、悔い改めなければならないのか。この男が授ける洗礼とは一体何なんだ。なんの権限で洗礼を行っているのか。神がこの男を遣わしただと?私たちに許可なく神の名を語るとはけしからん。私たちは許していないぞ。
 このような背景から考えると、19節の「あなたはどなたですか。」という、セリフはもしかしたら、少し穏やかすぎる口調かもしれません。「お前は誰だ。」と言った方が状況に合っているように思います。この一言によって、法廷にヨハネは引きずり出されました。ヨハネは、ユダヤ教の脅威として今、正に裁かれようとしているのです。
 尋問は続きます。「(ユ)メシアじゃないと言うなら、何だ。じゃあ、エリヤか。」「(ヨ)違う。」「(ユ)じゃあ、あの預言者か。」「(ヨ)そうではない。」ヨハネの回答は全て直訳すると「否」という言葉でした。祭司やレビ人らの問いかけに「否認」をしたのです。ところで、「エリヤ」や「あの預言者」というのは、旧約聖書の預言に基づく言葉です。旧約聖書の最後の預言の言葉、マラキ書3:23の有名な預言の言葉です。
 見よ、わたしは
 大いなる恐るべき主の日が来る前に
 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。(マラキ3:23)
そして、「あの預言者」とは、申命記18:15にあるモーセの言葉からきています。
 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者をたてられる。(申18:15)
エジプトからイスラエルの民を導き出したモーセが、いつの日か私のような預言者が立てられると預言していたのです。ヨハネが登場した時代、ローマ帝国の統治下にあって、イスラエルでは、終末への期待が非常に高まっていました。終わりの日が来て、神は必ず私たちを救ってくださる。そのために、メシアを送ってくださる。皆がそのように待ち望んでいたのです。そして、人々は、まず聖書(旧約聖書)に書かれている、メシアの先駆者となる預言者を待望していました。それが、「エリヤ」ないしは「モーセ的預言者」だったのです。
 ヨハネから洗礼を受けた人々は、彼がメシアそのものか、あるいは、そのメシアの先駆者だと答えるのを期待していました。そして、恐らく尋問しているユダヤ人達もそのような答えを期待していたと思います。ヨハネがそう認めてくれたら、しめたものだ、彼を公然と罰することができると考えていたのです。しかし、ヨハネの答えは「違う」の一点張りでした。
 ところで、少し話はそれますが、このヨハネという人物は、一般的には「洗礼者ヨハネ」という呼び名の方が馴染み深いかもしれません。それは、ヨハネが荒れ野で悔い改めのバプテスマを勧め、主イエスに洗礼を授けた人物であったからです。しかし、注目すべきは、ヨハネによる福音書が、彼を、「洗礼者ヨハネ」というよりは、「証し人ヨハネ」として描き出している点です。祭司やレビ人たちが「あなたはどなたですか。」と聞いた時既に、ヨハネには、「洗礼者」という十分周知された身分、立ち処がありました。多くのユダヤ人がヨハネのもとで洗礼を受け、誰もが、彼が「洗礼者」であることを知っていた。皆、彼が「洗礼者」であることを「証し」することができたのです。
 にもかかわらず、ヨハネは「わたしは洗礼者である。」とは言わなかった。それは、何故か。それは、周囲が自分のことをどう思っているかは、自分が何者かを証明してくれるものではない。また、多くのユダヤ人に洗礼を授けたという業績も、自分の「証し」にはならない。このことを、ヨハネは十分に分かっていたからです。
 そして、あえて最初に「わたしはキリストではない。」と答えたのは、自らが「光ではなく、光について証しするために来た(8節)」という、徹底した自己理解があったからに他なりません。私は、光、即ち、主イエス・キリストが誰かであるかを「証し」する者である。それ以外の「私」は、何者でもない。それは、ヨハネにとって全て無に等しいものであり、「否」であったのです。
 しかし、このままでは、祭司やレビ人達は黙っていません。「これじゃあ、最高法院に報告することもできない。一体、お前は誰なんだ。お前が誰なのか、ちゃんとした答えをくれ。」そう彼らは言いました。
 ヨハネはそこで、預言者イザヤの言葉を借りてこう答えます。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(23節)
ヨハネは、積極的に自分が何者かを言い表しませんでした。そこに全てを否定することを通しての、沈黙があったのです。しかし、あえて何者であるかを示さねばならなくなった時に、ヨハネは自分を、その沈黙中に、静寂の中に響き渡る「声」であると言うのです。それは、主イエスの「道」を整えるための「声」でした。荒れ野とは、文字通り、荒れた野原です。草は生い茂り、石で凸凹、道らしき道はなかったでしょう。そのような場所を整え、主イエスが歩いていかれる道を整える。これこそが、私に託された務めである、とヨハネは答えるのです。
 残念なことに、このヨハネの返答は、祭司やレビ人には何も理解されずに終わっていったようです。聖書には、何のリアクションも記されることなく、違う話題へと移っていきました。それは、ヨハネが授けていた洗礼の問題です。メシアでも、エリヤでも、あの預言者でものない。それでは、一体何の権限でヨハネは、洗礼活動を行っていたのかということが問いただされていくのです。
 ここで初めてヨハネの口から、主イエス・キリストの存在が語られます。それは、このような「証し」でした。
 「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後からこられる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(26節)
驚くことに、なんと、ヨハネはここで、あなた達のその中心に、主イエスは既に立っておられるのですよ、と言うのです。
 先ほども申し上げましたが、他の福音書には、ヨハネが主イエスに洗礼を授けたことが書かれています。ヨハネによる福音書は、それを丁寧に物語ることはしていませんが、このヨハネの言葉は、明らかに主イエスの洗礼の出来事を前提としている言葉です。それは、この後の箇所、31-34節を読むとよく分かります。そのことについて今は、詳しく触れず、この次にしたいと思いますが、とにかく、ヨハネは、この時既に主イエスの洗礼の出来事を通して、主イエスこそが神の子であると知っていました。ヨハネが洗礼活動を行ってきた理由、一番の目的とは、主イエスが、皆の前で公に、メシアとして現れるためであったのです。
 ヨハネによると、「そのお方」は、人々の中心におられるにもかかわらず、人々から「知らない方」だと言われるのです。なぜなら、人々は、そのお方が何者であるかを、理解せず、認めず、受け入れていなかったからです。しかし、ヨハネは「そのお方」を知っていました。「そのお方」の神の子としての権威と偉大さを理解し、認め、受け入れていました。ですからヨハネは続けて、「私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と証しします。ヨハネが指し示す「そのお方」こそ、神の独り子でありながら最も低いところに来られ、私たちの履物を脱がし、足を洗ってくださる主(13:1-20)でありました。そして、私たちを友と呼び、私たちを愛して、私たちのために命を捨ててくださる主(15:13)であったのです。私たちは、今朝、ここに集っている私たち、また、様々な形でこの御言葉を聞く私たちの中心にも、ヨハネが「証し」した「そのお方」、私たちの主イエス・キリストが、立ってくださっていることを、感謝して受け止めたいと願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:21| 日記